第一回遼遠小説大賞結果発表&講評
お待たせしました。「小説はどこまで遠くに行けるか」を裏テーマにカクヨム上で4月2日から6月8日にわたり開催された「第一回遼遠小説大賞」の結果発表及び講評です。最終的にエントリーされた作品は33作品でした。長い話は後回しにして、早速結果発表と講評に移りましょう。
第一回遼遠小説大賞結果発表
大賞
ポテトマト『青い繭のなかで』
金賞
椎名 蝶太郎『ごし』
銀賞
狂フラフープ『重さのない瓶にきみを詰めよう』
辰井圭斗個人賞
なんようはぎぎょ『頭に花咲いてる』
姫乃只紫個人賞
柴犬二成乃『半日分の述懐』
和菓子辞典個人賞
偽教授『絶望に捧げる輓歌』
藤田桜個人賞
繕光橋 加『もはや食後ではない』
あきかん個人賞
ラーさん『あのラカンパネラは遼遠に』
大賞を受賞したポテトマトさんからはコメントを頂いています。
おめでとうございます。以下講評です。
なお、講評は「ミステリの真犯人とかあまりにもという場合は配慮して」と伝えてありますが、基本的には細部への言及が必要になるためネタバレありです。おまかせしますが、一応「作品→講評」の順で読まれることを推奨しておきます。
各作品講評
1.春雷『未来』
辰井圭斗:春雷さん、こんにちは! 本作は私が読解した通りであるなら、裏テーマに対する極めて真面目な回答方法の一つを取った作品であったと思います。
表面的に読むならば、様々なことに度を越して注力する少年が、サーカスに魅入られ、サーカスに力を尽くし、やがて斜陽であったサーカス産業をも立て直し、最後に究極のショーをするという話で、そう読むとそういうことに熱中する人もいるんだなくらいの感想を持つのですが、私は割と早い段階でこれは文学の話じゃないかなと思いました。
サーカス=文学であるならば、本作の少年のように割と単純な動機で並外れた熱意を向ける人には私にも過去・現在ともに大いに心当たりがあるのです。本作のサーカスにまつわる言葉は読み替えると私にとってひどく身近なものに思えます。
「サーカスはもう、死んだ」
「文学はもう、死んだ」
「世の中には様々な娯楽がある。もはやサーカスは時代遅れの娯楽だ」
「世の中には様々な娯楽がある。もはや文学は時代遅れの娯楽だ」
団長に入団を断られた後の路上芸はまるでweb小説のようです。
本作のタイトルは『未来』。自分自身と文学の未来において文学を復興させた男が行う究極のショーに至る話であるならば、「小説はどこまで遠くに行けるか」を裏テーマとし、文学的挑戦を見せてくださいと述べた本企画に対して大変オーソドックスな回答方法の一つを取っていたと思います。
さて、その前提が正しかったとして、回答内容なのですが、元少年である男がサーカス=文学を復興させた末行った究極のショーは自らの死を見せる残酷ショーでした。より正確に言うならば、“究極の滑稽とは、人が死ぬ瞬間”だという思想のもと、とっくの昔に死んでいた自分自身に「本当」の死を追い付かせるショーでした。
これには非常に心当たりがあります。去年の今頃、私自身、自分は既に死んでいるのだと言いながら、肉体的な死を迎えそうになるのを見世物と称して切り売りしていたのですから。ということで、共感はできるのです。
ですが、それは果たして、「未来」なのかと考えると甚だ疑問です。血を吹き出すような内面を綴った私小説が栄えたのは過去であり、余程良いものであれば現在でも受け入れられますが、ブームとしては去っていると言ってよいと思います。ひょっとしたらリバイバルがあるかもしれませんし、未来のことは分かりません。ただ、私にはこの作品が提示するサーカス=文学の究極のショーが未来のものというよりは、過去、かなり贔屓目に見ても現在のものであるように見えたのです。もちろん残酷ショーを作る人も見る人も大勢いることは承知の上ですが、それが未来においても究極のショーなのかというと……ひょっとしてそうかもしれませんが、既視感があり過ぎて未来像としてはあまり面白くない。もし、この方向で未来像を提示するのであれば、残酷ショーに群がる人間の心理をもっと丁寧に書いて、結局時代を越えて普遍なのだということを説得的に書く必要があったかなと思います。小説は「分かるだろ」で飛ばしていいところも多いですけど、ここは多分飛ばさずに書いた方がいいです。
ですが、講評の前半で書いたように、真摯に裏テーマに向き合ってくださったと思います。刺さるところが沢山ある作品でした。
姫乃只紫:春雷様、はじめまして。姫乃只紫と申します。
率直に申し上げると「小説はどこまで遠くに行けるか」をこう捉えるのかぁと感心した次第です。
本作で云うところサーカスは昨今の文学事情とニアリーイコールであると思いますゆえ。
私自身、企画の評議員をつとめておいてこんなことを云うのもなんですが、もう面白さだけを追求する時代ではないよなぁと。「世の中には様々な娯楽がある」というより、もうそこまで"真摯"に娯楽を求めている層は限りなく少数派と云いますか。
片時を埋める程よいサイズ感の娯楽を然して面白くはないと知りながら摂取し、それなりの充足を得た気になっている──といった状態が蔓延しているように思います。
そのため、「サーカスはもう、死んだ」という言葉にまあそうよなと頷く一方、なるほど文学って屍体は屍体でもリビングデッド的なところあるよな、その発想はありそうでなかったわと。新たな視点を得られたことを嬉しく思います。
作品としては、些か急展開感が否めませんでした。「この街はサーカスで栄えている街なのだ」というやや浮世離れした下りを挿入することで、中盤発覚するファンタジックな事実を読者が受け入れやすい土壌を形成したかったのだろうなぁという意図は読めるのですが、この下りだけで続く展開を支えるのは少々力不足である印象。
別に小説たるもの読者にとってわかりやすいものであれ! とは毛ほども思わんのですが、この作品の方向性からしてもう少しのちの展開を予感させるヒントがあっても良かったのではないかなぁと思います。
とはいえ、件の作品をあえて「小説」という枠組みから外し、いち表現者の独白として再解釈するとラストの観客の反応も含めて何やらしっくりくる部分もあり──。物語として捉えようとすればやや歪さを感じさせる一方、ある表現者の思いの丈が物語の皮を被っているに過ぎないと捉えれば途端に落ちる。そんな不思議な読後感を与える作品でした。
和菓子辞典:春雷様、今回は『未来』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
以下、裏テーマに関する評価のため、重要な部分について内容を仄めかすものになってしまうことをどうかお許し下さい。
本作は、本企画の言う『遠く』を『夢のなれの果て』ととらえ、大志の皮肉な結末を描かれたものと思います。しかしそれだけでなく、サクセスストーリーの雰囲気を醸し出すプロットに、容赦のない打撃を加えて別ジャンルへ導いた、下手をすれば合体事故になりかねない構成を見事にまとめ上げる手腕から『小説はどこまで遠くに行けるか』挑戦する志を感じさせました。
物語の類型は昔からよく言われていて、結局名高い物語のどんなものもそのひな形に収まってしまうと言われています。そして、書き手の頑固さは常にそれを超えようと挑戦してきました。そういった挑戦の一手として、あえて一度そのひな形に従った上でたたき折る、その手段はまず用いるべき王道であると考えます。
しかしその上で、「誰かを楽しませたか、そうでなくとも何かしら読み手に寄与したか」を問題にしたか否か、是非考えたいと思います。どんな小説もエンタメでなければならないとは断じて言いませんが、挑んだ相手がエンタメの型であるなら、その反抗の結果に新たなエンタメを得ることで本企画の趣旨を満たすものと考えます。換言すれば、型破りは破ってなお成立していることを求めます。(なおここで用いた語句「エンタメ」は言葉足らずです。筋書きの面白さでなく、文章自体を楽しませる小説も含むからです)
では本作はどうだったかと言うと、非常に素晴らしい皮肉で、しかし急展開を否めませんでした。所謂古き良き王道の持つテンポは自然な情報開示にも優れていて、それに反抗した代償として損なわれているものだと思います。「え、そっちに行くの」という意外さは、本作に限らず多くの場合混乱をもたらしやすいようです。
これを含めて楽しむという読み手によって『遠く』へ行けるかもしれません。しかし僕としては、より普遍的な説得力を持たせて欲しいと感じました。『遠く』へ行きながら『普遍的な説得力』を持たせろと、矛盾をはらみかねない無理なことを言うのは、僕自身も一人の書き手として心苦しく思いますが、春雷様の大志に願いを寄せて締めくくろうと思います。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:春雷さん、ご参加ありがとうございます。
私はこの小説を読んで、伏線の機能不全、という言葉を真っ先に思いました。
後半の急展開に備えるために春雷さんが苦心して丁寧に、慎重に、さりげなく伏線を張ろうとしていらっしゃるのは読んでいて痛いほど分かるのですが、残念なことにせっかく張った伏線が機能せず、「そうはならんやろ」と思ってしまうほどの急展開になってしまった感が否めません。せっかくの素敵な物語を存分に活かし切れていないのです。これに関しては私も痛い目にあった経験があるので、いくつかアドバイスをさせていただけると思います。
まず、私が「これが伏線かな?」と思った一つ目の描写なのですが、主人公が熱を出してもなお、皆勤賞を取りたいという理由だけで学校に通い続けたことです。コロナ禍の恐怖を知る我々から見れば、これって結構ヤバい行為ですよね。新型コロナ以前の日本だって、インフルに罹ったのに登校してきたら白い目で見られますし。主人公が本当は死んでいる、という内容の前置きとしても、サーカス団長のような人物にとって彼が「狂っている」ように見える予兆としても、とても“効く”描写であると思います。しかし、この描写が直接、後々の展開に繋がることはないのです。病気になっても意地だけで動ける人間がゾンビみたいなことになっているなんて誰も思わないでしょうし、他人に病気をうつしてしまう可能性について一切考えない人間が、将来的にかなり危険な思想を持つようになるなんて、まずそこまでは考えないでしょう。
こういった非直接的な伏線は、読み終わってから「あれはそういうことだったのか……」と読者がワクワクする際に役立つものであり、ちゃんと別のところで直接的な伏線を仕込まない限りは「伏線、なのかな……これ……」とモヤモヤさせるだけだったり、最悪気付いて貰えない場合すらある、高等テクニックなのです。
本来なら春雷さんが張られたもう一つの伏線が、直接的な伏線としてこの作品の展開を見事に繋ぐはずでした。それはサーカス団長が主人公に「風呂に入ってないんじゃないか」と尋ねるシーンです。
ここで読者は主人公が異臭を放っているというヒントを与えられるはずだったんです。ですが、二つの問題がこの伏線を機能不全に陥らせました。まず、主人公が何の不審さもなく「アパートにお風呂がないんです」と答えてしまったことです。そうあっさりと言われてしまえば読者は「なるほど」と流すしかなくなってしまうんです。前半が「主人公がサーカスでみんなを笑顔にしようとする物語」の体裁を取っている以上、初読の段階ではここに拘ることは無駄なように思われるでしょう。
そして、もう一つの問題なのですが、主人公の異臭の種類が分からないことです。消臭剤で誤魔化していたとは言え、サーカス団長が言うように、本来なら肉が腐ったような「風呂に入っていない」では説明できない類の異臭がしたんでしょう。でもそれがないので後半に団長が説明するまでは「めっちゃ汗臭いのかな」で済んでしまうんです。これでは、主人公が死体と化していることの伏線にはなり得ません。
私が考える解決策としては、団長に「いや、それにしては……。まあいい」みたいなことを言わせたり、地の文で主人公に「うまく誤魔化せたようだ」みたいに意味深なことを言わせたりする方法がありますね。
また、主人公が「死こそ究極の滑稽」という思想へと至る過程として、数百文字くらいのエピソードをもう一つ加えてもよかったのではないかな、とも思います。主人公に肩入れして読んでしまう前半と、主人公の異質さに驚く後半の落差で振り落とされてしまいかねません。
さて、内容自体についての話に入らせていただきますが、笑いを取るという、ある種の芸術家である主人公が努力によって成功し、けれどメリーバッドエンド的な末路に陥るという内容は強く読者に問いかけるものがあるように思います。
客を笑顔にすることが目的である以上、例えそれが心情的に受け入れがたい方法であっても、客を笑顔にすることができるなら何も問題はないのではないか。彼は道を誤ったものとして憐れまれるべきなのか否か……。
私としては、作品の中で作者さんが主人公を否定も肯定もしないのが素晴らしいな、と思いました。我々は彼の末路を否定しうるし、肯定もしうる。そういう余地を残すのが、とてもいいなと思いました。
寓話的に芸術の、そして芸術家のあるべき姿を問う、とても真っ直ぐで眩しい作品をありがとうございました。
あきかん:
60/100 合計点
内訳
20/20 文章
10/20 構成
10/20 テーマ
20/40 面白さ
総評
読み終えて、非常に統制のとれた小説であったと思いました。
起承転結が流れるように進むので、とても読みやすいです。小説の全体像を捉えるのが上手い作者だな、と感動しました。
しかし、細部の作りがイマイチです。そのため、オチが響いてきません。最後は主人公を見つめる観客の目線と読者の目線が一致してこそ、今作のテーマを表現できるかと愚考しますが、そのためには読者が主人公への共感や興味なりを抱かなければなりません。それが今作では不足していると感じました。もう少し、事細かに主人公の描写をするか、印象的な場面の挿入などを行う必要があるかな、と思いました。
結論としては、今作はまだまだ飛距離は出せそうな印象を受けました。この企画の制約が悪い方へ出たかもしれません。どちらかと言えば、中編ぐらいの分量で読みたい作品でした。
2.高黄森哉『蠅』
辰井圭斗:高黄さん、こんにちは! 一度他作品を出して頂いて、残念ながらそちらは講評の対象にはならなかったのですが、別作品でお待ちしますとお伝えしたところ、すぐにエントリーくださいましたね。ありがとうございます。
本作は深い問いかけを含みつつ、分かりやすさと劇的さのある作品でした。まず、「遠い死(死=物語)」とあるタグに目が惹かれ、どういうことなのだろうと考えていました。生=物語なら腑に落ちやすいのです。ですが、死=物語とはどういうことなのか。主人公はハエ叩きで死ぬハエやハエ取り紙で死ぬハエに思いを馳せるのですが、そこには詳細な描写で語られる物語があります。つまり、死が確定した瞬間から、実際に死ぬ瞬間までの過程を「死」とみなすのであれば、確かに死=物語だなと、そう解釈しました。合っているかは分かりませんが。そして、ハエたちの死の残酷さを際立たせているのが主観時間、すなわち世界は彼らにとってゆっくり流れるということでした。
主人公はハエの死を思いながら、人間がこうでなくて良かった、自分を人間にしてくれてありがとう、と思うのですが、果たして人間というものもより高次の存在から見ればどうか。こんな有様でなくてよかったと思われるような存在・状態なのではないかと私は思いました。人間の尊厳のようなものを傷つけてしまう考え方かもしれませんが、他に居場所が無く、ぽっくり逝かせてくださいと願う彼が、一体ハエ取り紙に囚われたハエとどのように違うのか、死が確定した瞬間から、実際に死ぬ瞬間までの過程を「死」とみなすのであれば、実のところ彼にとっての「死」は既に始まっているのではないかと思わないではいられませんでした。
そんなことを私が思っているうちに、主人公は死ぬ以外に仕事は残っていないと、ベルゼブブに願い事をし、彼にとって世界の時間は早く流れ始めるのですが、そこから彼の死に至るまでの過程はハエとはまた違った方向で悲惨なものでした。そして最後に彼はハエになる。
実のところ、人間とハエでどれほど違うのかということを読者に思わせるだけであるならば、ベルゼブブへの願い事以降の展開が無かったとしても足りてはいたのです。ですが、願い事以降の分かりやすさと劇的さが小説としての面白さが増すとともに、この作品を(娯楽)作品として成立させていました。もう少し何かありそうですね。考えてみますね……。
願い事以降で最も違和感を抱いたのは「お話」でした。丘の上での思い出を、彼は“その上で展開された劇的なお話を俺はまだ覚えている”と表現するのです。「お話」。変な表現です。お話と言われて連想するのは物語なのですけど、死=物語なのですよね。彼が想起する劇的なお話は一見生に彩られて見えるのですけど、人間というものは生まれた時から死が確定しているともいえるので、彼のその丘でのお話を含む時間すらも「死」だったのかなと思いました。「死」の時間が先ほど書いたのとはずれていますけど。
この作品、この講評の前半でしたようにごく表面的に読むならば、ハエも人間も同じであるということと、主観時間を真逆に振る展開の食い合わせが悪いように見えるのです。ハエも人間も同じだ、に留めるのであれば、ベルゼブブへの願い事をする前までで止めた方が余剰は無い。ただ、残酷の軸をどこに置くかですが、生まれてからの一切が「死」であったというところまで読むのであれば、真逆の主観時間はシチュエーションの多様性を上げてもなお共通するものを浮き彫りにすることで、むしろ語りたいところをうまく伝えているのかもしれません。そういえば冒頭で無事に飛んでいたアブたちも“死骸が飛んでいるようなもの”なのでした。
などなど、考察しましたけど、合っているのか合っていないのか。ともかく、タグに「実験的手法(遠い小説)」と書いてくださっているのに違わず、主観時間の使い方など挑戦的な作品でした。
姫乃只紫:はじめまして、高黄森哉様。姫乃只紫と申します。
本作、勝手ながら語感を追っているだけで心地よい類の作品であると判じたがゆえ。これに枠を与えるという、さながら自由なる獣を檻に閉ざすに近しい所業それ自体ナンセンスなのでは──と疑念を抱きつつ、何分講評を書く側ではあるので。書いてみんとします。
"俺"は「ああ、良かった人間がこうでなくて、良かった」「嗚呼、神様、俺を人間にしてくれてありがとう。」と自身がハエでなくヒトに生まれたことを度々感謝し、安堵するわけですが。この感情表現がどうにも自分に云い聞かせているようだなぁと。ハエの主観時間はこれこれこうなのだから、ヒトに生まれた自分は幸せ。ハエという比較対象を用意することで、自分の人生が素晴らしいものであったと頑なに信じ込もうとしているようにも取れます。
すると、途端に「素晴らしい人生でした。いい妻に恵まれ、子は自立しました。弟子も多く、有能です」というある種の遺言すらどこか虚言めいていて──。なるほど確かに遠いと云うか、読者を見知らぬ土地へいざなうという意味で、凝ったテーマの捉え方をされたなぁと感心した次第です。
余談。一説によると元より人間の臓器・器官系は50歳前後まで生きることを想定して設計されているとのこと。"俺"はハエの主観時間を「悲劇さえも牧歌的に進む」と表現しましたが、私たちも迫りくる網目の壁に気づいていないだけで、実のところハエと置かれている状況はそう大差ないと云うか、そこそこ不憫なのやもしれません。
それでは、良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:高黄森哉様、今回は『蠅』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
『小説はどこまで遠くに行けるか』という裏テーマに対し時間的な解釈のとんちをきかせることで、マクロな自然現象が描写される見たことのない世界観が描かれたものと思います。長命な主人公の視点で描く物語でも、速い主観時間の視座から描かれることはありませんから、まったく目新しいものでした。
しかしこれは新しい「世界観」であり、伝統的な小説の書き方に対して高黄様なりの答えを出された結果であり、僕の思う本企画の趣旨とは異なるものと考え、今回は推薦を見送ることといたしました。そこで企画趣旨からは離れた講評になりますが、個人として感じた魅力を書かせていただこうと思います。
僕は本作に地獄の実在を見ました。ここで言う地獄とは、まさに阿鼻叫喚地獄など、ありえない年数のありえない苦痛を与えるあれらのことです。それらはしばしば地獄の実在が怪しいことと一緒くたに「非現実的な苦痛」とされますが、本作を読むにはそうでもなさそうです。ハエは永遠のような苦しみを経験するのですから、人間にありえないこともありません。
地獄はともかく地獄の苦痛は実在するというものです。そして人間、そういった都合の悪いことには目を背けたいもので、幼い頃にときどき死の想像をして泣くほど怖がってから、多くの場合は避けたり老衰を祈るものです。
そこで地獄の苦痛をあれほど具体的に想像する勇気、読み手の胸に重く残す筆致で感情を揺さぶられました。勇気はあるいは想像せずにいられないご性分、現実に虚構を設けない強靱な意地からかもしれませんが、その書き手としての執念はやはり高黄様の才能であると感じます。
是非これからもその才能を生かし執筆に励んで下されば、評議員として何より喜ばしく思います。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:高黄森哉さん、ご参加ありがとうございます。
今回講評を書かせていただくに当たって私は、この作品に「ナンセンス」「コメディ」のタグが付いていることに注目しました。実際、脈絡もなく唐突にベルゼブブが出てくるくだりなどはナンセンス文学みが強いと言えるでしょう。最後、主人公がハエになる直前に「シニカルに考える」わけですが、この作品においては全編を通して作者の冷笑的な態度が底を流れているように思えます。例えば、最初らへんに「俺の居場所はここにしかなく、ここ以外にはない」という一節がありますが、これ以降この内容に関係すると思われるような文章を見つけることは、私にはできませんでした。もし本当にこのくだりがこれだけなら、読者を作品世界に引き込むために使うべき最序盤をドブに捨てていることになります。また、語り手の文体も農家らしくないんですよね。牛など、農業にまつわるモチーフに言及する際、語彙を絞ることによってそれらのイメージを抽象化する一方、レーリー錯乱などの理系用語やキリスト教にまつわる語彙については衒学的なまでに多用されています。まるで、作者が作者のまま、下手っぴな農家のマネをしているようではありませんか。深刻な主題・思考に反して、細部に目を凝らせばハリボテのように儚い。「シリアスな内容を大真面目に語りつつ、冷笑的な作者の影を読者に感じさせる」という点においては、非常によくできた小説であると言えましょう。それでいて、ナンセンスに傾き過ぎず、思想の深刻さと両立させたことは、この作品にピエロの涙のような物悲しさを与えています。ナンセンスコメディを純文学に応用せんとする試みとして、大変に興味深いものであると私は思いました。
残念ながらレギュレーション外となってしまった「決まり文句を忘れるな」から更にパワーアップした筆力も印象的でしたね。
素敵な作品をありがとうございました。
あきかん:
80/100 合計点
内訳
20/20 文章
10/20 構成
10/20 テーマ
40/40 面白さ
総評
まず目を引いたのは、独特な文章。体言止めを使ったそれは、詩のようでとても興味深く読ませて頂きました。
他方、読み終えて軽い印象を受けました。理由は、冒頭に受けた印象に比べて話の転換が地味であること、また今作のテーマの1つであるところの主観時間を文学として表現しきれておらず言葉による説明に終始しているので、この点を煮詰めるとより面白い作品になるのではないか、と思いました。
総じて、とても楽しく読ませて頂きました。ご投稿ありがとうございました。
3.宗田 花『刹那のターニングポイント』
辰井圭斗:宗田さん、こんにちは! 諸事情により企画一覧にはありませんが、参加を受け付けています。かなり好きなタイプの「遠い」作品でした。過去に縛られた男と現在に縛られた女が刹那交わる話。くらげのようないい加減な男浜田は、過去のある事件において、こう言います。『へらへら……へらへらと生きていきますから……へらへらって』それは浜田が自分に課した罰です。『いい人間になりますから、真っ当に生きますから』なんてぬるい罰は彼にとって許されなかったのでしょう。それは、へらへらとは裏腹にあまりに真面目であり、その矛盾を最初からはらんでいるからこそ、彼が「許されない」ということは決まっているように見えるのです。
で、浜田の話だと思って読んでいたんです。そうしたら、視点人物が陽子に変わるんですね。「あれ、ここで変わるのか」と初読の時は少し戸惑いました。でも、二回目に読むとすごく練られているなと思いました。本作は冒頭で書いたように、過去に縛られた男浜田と現在に縛られた女陽子が刹那交わる話です。視点人物は最初かなり長い間浜田であり、それから陽子になり、また浜田、陽子とあまり抵抗なく入れ替わっていく。そうして、二人が交わる時、浜田と陽子は男と女として、「二人」として描かれる。つまり、ストーリーとして二人が交わるだけでなく、同時に視点も交わる物語です。
あと、かたちのところで言うならば、「ドラマっぽいな」と思いながら読みました。人物のセリフや行動が、明確な「機能」を持って書かれていると言って伝わるでしょうか。つまり、「本当の人間はそんな風に言わないよ」というセリフ、言ってしまえば「リアル」からはやや距離のあるセリフがドラマなどでは重要な役割を果たしていたりするのですが、いい意味で似たようなものを本作に見出しました。湿度の高い人間ドラマを書いていながら、書きぶりはフィクショナルであるということ。そのことから安心した読み心地がありました。
さて、浜田と陽子が接近していく過程は、読み手としては応援したくなるものの、二人にとっては「許されない」が積み重ねられていく過程でもあります。呑気な祝福の匂いは無いのです。けれど、「許されない」の果てに、彼と彼女は束の間交わることになります。本作は随所に「遠い」を見出すことのできる作品ですが、私は本作の中で、この交差こそが最も「遠い」と感じました。
大変レベルの高い作品だったと思います。
姫乃只紫:宗田 花様、はじめまして。姫乃只紫と申します。
「小説はどこまで遠くに行けるか」という裏テーマから御作を解釈いたしますと、「独自のルールに則り、自分に当てはめたフレームからの解放」を目指した作品なのかなぁと。
作中、浜田は過去の出来事をきっかけに「幸せにならない」という生涯のルールを自らに課します。陽子もまた「姉さん気質」「女性陣のリーダー格」というフレームに自らを当てはめ、母を介護する孤独をひた隠しています。小説とは云ってしまえば、頭の中にあるアイデアを自作のルールに則り、これまた自分が良しとする出来を目指してテキスト化する作業です。終盤浜田と陽子はお互いの寂しさを共有することで、今あるフレームの重みから一時的に解き放たれるわけですが、その二人の姿こそ「型にはまった小説から抜け出したい」というある種矛盾した「文学的挑戦」のメタファーだったのかなぁなどと思いました。かなり強引な紐づけゆえ、正直自分でも何を云っているんだコイツは感が否めません。
『刹那のターニングポイント』というタイトルは、「刹那の淵に築かれた幸せ」とあるようにやはり二人の睦み合いを指すのでしょうが、例えば陽子の母にとっては「足首の骨折」が悪い意味でターニングポイントだったわけですし、陽子にとっては高く積まれたコピー用紙の箱を一人でどうにかできると判断した瞬間がターニングポイントだったわけです。改めて俯瞰すると、本作は幾層に重なる「刹那のターニングポイント」によって構成されていることがわかります。実に多様な見方ができる、秀逸なタイトルではないでしょうか。
それでは、良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:宗田 花様、今回は『刹那のターニングポイント』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
本企画の裏テーマについて、この作品がどのように立ち向かったか推察が難しく、講評にはかなり時間を要しました。そうやって出した結論として、本作は「逆向きに走り交わって二度と会わない」という挑戦ではないかと考えます。
その説明をするにあたり、具体的な内容をここで明かしてしまうことは避けますが、本作では2人の物語を同時に描いています。それでもなお読みやすい手腕は、まずもって賞賛されるべきところだと思います。そして一作に2人の主人公がいるとき、多くの場合お互いの性質に影響されるものです。本作もそこに関しては同じく、真剣であってはならない彼と真剣でなければならない彼女がそれぞれに影響を受けあう話だと解釈しました。
しかし本作において、そうやって影響を受ける交わりはあくまで一瞬であり、別れてからのありかたは真逆になって二度と会わないのではないか。つまり、描かれていませんが2人には未来があるわけで、そこで互いの考え方はくるっと入れ替わるくらいの大転換を遂げているのではないかと思います。彼が柔らかさを残したまま硬く、彼女が硬さを残したまま柔らかくなっていく風には思えませんでした。それほど、最後の「世界の彩さえ変えてしまった」という描写は劇的でした。
物語開始時点での主義とそれに相反する主義が合流し、弁証法の要領で変化する(バランスをとる)のではない、そのような完全な変化は一般的な物語らしくありません。物語の展開を書いたボードを2つ用意して、その最序盤の部分をそれぞれ切り取り、切断部で繋ぎ合わせたような。そして、一端から読むことで1人の・逆端から読むことでもう1人の物語を説明出来るような、不思議な構造として僕は捉えました。
この絶妙な違い、たった一点で交わったために刹那となったターニングポイントを、この作品の最も挑戦的で『小説はどこまで遠くに行けるか』考えた結果として心から素晴らしく思います。改めてご応募ありがとうございました。
P.S. 正直暫定一番難しかったです。これで講評たりうるでしょうか……。
藤田桜:宗田花さん、ご参加ありがとうございます。
講評ですが、うむむ……難しいですね。作者さまの筆力自体は高いです。体言止めの挟み方、文章のリズムがぴったりと作品に当てはまっている。それに、浜田と陽子の物語を交差させる手腕も見事でした。この小説で作者さまが表現なさろうとしていたことを表現するには、これ以上ないくらい適切な構成でしょう。それに、私こういう話好きなんですよね。
だからこそ、些細なところで引っ掛かってしまって、初読のときは完全にのり切れませんでした。ですので、実際の完成度より下に見えるようバイアスがかかっている状態で読んでいることになります。
「些細なところ」というのは、例えば、
1、最初の地の文を、浜田ではなく澤田という話の展開にあまり絡まない人物の紹介に費やしてしまっていること
2、「くらげ」の比喩がうまく機能していないこと(比喩は、くらげが持つ「ふよふよと漂っている」イメージだけでなく「透明感があって優雅な」イメージや「美しくて毒針を持つ」イメージなど、複数のイメージを引っ張ってくる技法です。その点、浜田はへらへらとしている所くらいしかクラゲと共通のイメージを持たないんですよね)
3、浜田の言う冗談を楽しみきれなかったこと。浜田の人物造形上、本当に面白いギャグを言えるとかはないと思うんです。実際、この小説において彼が陽子を笑わせるのは、自虐ネタそのもので笑わしているというより、へらへらとした「話し方」で笑わせているように見えます。人間、会話している人間が笑いながら何か言うと「これは笑ってもいい、もしくは笑うべき話題なんだ」とぼんやりと理解して、自然と笑い返す性質があるらしいんですが、多分そういう笑いだよなぁ、と。ですが、二人の会話の間にある和やかな雰囲気がすっと入ってこなかったこと
まあこのくらいしかないのですが、作品世界が魅力的な小説だっただけに没入しづらくなるような引っ掛かりがあるのが余りに惜しい。
文体の使い分け方とかもうまいんですよ。普段の浜田の文体だけ柔らかめにして、浜田のつらい過去とか、陽子視点の時の文体は普通くらいの硬さに引き戻す。こういう目立たないけど筆力が必要になる技法が作品中に仕込まれている。
そういった点においてはこの作品を高く評価したいです。「作者にとっての新しい挑戦」という感じを受けましたから。
素敵な作品をありがとうございます。
あきかん:
75/100 合計点
内訳
20/20 文章
15/20 構成
20/20 テーマ
20/40 面白さ
総評
読み終えて、欠点はない作品だと思いました。
まず、読みやすい。奇をてらわない真っ当な文章は好みです。次に構成も見事と言う他ありません。起承転結どれもが素晴らしく、登場人物の現状の把握や感情の変化を自然に読み解けます。また、今作を読み終えて題名を思い出しました。テーマを十分に表現出来ている作品であるからこそ題名を思い返したのです。
今作に欠点は無いのですが、逆説、突出した長所が見当たりません。今作の始まりを読めば、大方のオチは予想できますし、悪い意味でも良い意味でも予想どおりに進みます。
作者の力量は十分感じられるので、より踏み込んだ挑戦的な描写などが欲しい、と思いました。これは一読者の我儘かもしれませんが、独自色というものはわかり易い面白さの基準でもあります。
もう少し踏み込んで欲しい、挑戦をもっとしてほしいな、という作品でした。
4.椎名 蝶太郎『ごし』
辰井圭斗:椎名さん、こんにちは!椎名さんの作品は他でも拝読していて、大変優れた作家さんという印象を持っています。その印象に違わない作品でした。この作品に対しては「彼岸の文学」という評をしているのですが、窓の向こう、電話ボックスの向こうの文学と言った方がこの作品には合っているのかもしれません。
私の話を差し挟んでしまって恐縮ですが、かつて「遠い」小説を書こうとした時、所謂「正気」から外れる必要があるように思いました。というより「遠い」小説を書くと「正気」からは外れるような気がしました。で、書いて公開してみたんですけど、私にはその時読者が顔を見合わせて首を振っているように見えたんです。要するに伝わらなかったのだと。こちらの岸の言葉で書くと、それはなるほどある意味「遠い」のかもしれないが、あちらの岸には届かないのだと感じました。
この作品にも似たようなことは感じて、つまり向こう岸の言葉で書かれた小説だなと思ったんです。でもこの作品の場合は、彼岸と此岸で通じているように見えました。だから、有体に言ってしまえば羨ましかったですし、こんな小説を書きたかったなと思いました。
この作品自体が、本来疎通できない場所同士で何かしらの関係が成立しているのではないか、と思わせるような構成になっています。背の高いアパートの窓の向こう、距離を隔てて見下ろした電話ボックスのガラスの向こう、そこで喋る女の口の動きに虚構の会話を載せていく。それは一方通行ですらない「独り芝居」ではあるのですが、読んでいる内にいつしか本当にあの女はこう喋っているのではないか、あの女にこちらが喋らされているのではないかと思うようになります。そして、背の高いアパートから見下ろして、相手が窓の向こうのこちらに気付くなんてほぼありえないように思われるのに、見られた(気がする)。それから、部屋に「どこか」から電話がかかってくる……。こちら側と向こう側で何か成り立つんじゃないか、けれどその一方でそもそも丸ごと妄想なんじゃないかと思わせるようなバランスでした。
本作の特徴としてエロチックな部分があると思うのですが、エロスというのはほぼ誰かと何らかの関係を志向することではあります。窓の向こう側、電話ボックスのガラスの向こう側、或いは電話の向こう側。向こう側との関係を持ちたいとそれぞれが欲情しているような、そしてそれがもっと小説、或いは書く人間と読む人間にまで及んでいるような、そんな風に読めました。
あとは表面的なところを言えば、この作品はすごく静かでした。もちろん、途中で笑ったり驚いたりしているのですけど、人工的な「狂気」のはしゃいだ感じが無いというか。そう、「狂気」という言葉をこの作品に使うのも抵抗があります。なんというか、向こう側に普通にいる人を気負いなく書いたようなそんな印象を受けました。あとここまで私は向こう側と書きましたが、タイトルを考えるなら、窓ごし、ガラスごし、電話ごしと書くべきだったのかもしれませんね。これで合っているなら、「書けちゃった」ではなく「書いた」なんだなと恐ろしい心地でいます。
総じて、「遠く」に行きながらも非常にバランスの良い作品でした。
姫乃只紫:はじめまして、椎名蝶太郎様。姫乃只紫と申します。
一口に云えば、手本にしたい一人称小説でした。描かれている世界はただ細密であるばかりではなく、うらぶれた街に住み、定職にも就かず貯金を切り崩しながら、公衆電話の女に嫉妬と親近感をおぼえている──そんな"私"の眼で見た世界でした。書き手の「書き込みたい欲求」を巧みにコントロールした上で、テキストにない匂いや音を想起させる。見習いたい描写力です。
『ふぅ』まで読んだ時点では「公衆電話の女を通して、"私"の境遇を語っている」くらいに解釈していましたが、読み終えた時点でそもそも公衆電話の女はそこにいたのだろうかと、虚実のあわいを歩むような不安感に駆られました。"私"の眼に見えているには見えていたのだろうけれど、実在はしなかったかもしれない──。
すると、細密であると思われた描写が"私"にとっての現在をテキスト化しているというより、何やら一つひとつディテールを確かめているような、それこそ想い出を語っているようにも感じられまして。もしかすると、公衆電話の女は、どころかアパートから見下ろせる古ぼけた商店街は、"私"の記憶だったのではないか。過ぎた時であり、死んだ今だったのではないかなどと思った次第。
そういう本当に存在しているのかどうかを確かめようがないものを人は概して「幽霊」と呼ぶわけで。なるほどこれは確かに「ホラー」だなと。スマホをはじめとする読み手に時代を認識させるワードが散りばめられていながら、どこか日本の古い怪談話を彷彿とさせる秀作でした。ごちそうさまでした。
和菓子辞典:椎名蝶太郎様、今回は『ごし』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
全体を通して、エッチで薄暗くて呼気みたいに湿っていて、それと二人羽織のモチーフを仄めかす作品でした。しかし、そういった筋書き以上に特筆すべきは、描写の没入感であったと感じます。「精緻さ」ではなく「没入感」と言葉を選んだのは、読み手に対して各登場人物の感覚を追体験させる力が非常に強く見られたからです。これは、ただうまく描写することとは違う、描写努力のありようのひとつだと思います。
そして、それらを忠実に描こうとする創作意欲が「筋書きの筋書きらしさ」と争っている様子、それでもなんとか形を保たせる技術力が見て取れました。ホラーを描くこと・主人公の生活を描くことが両方主目的であり両立している、そのようなところが本企画の裏テーマに挑戦していた部分であると考えます。(主人公の物語がカップルを通して語られている、といった感覚については他の評議員の方が触れると思うので避けます)
裏テーマの話から離れますが、「やらかした」後、正気(現実認識)と狂気(合理化)が争っていることを限界までわかりにくくしながらこちらに示唆してくるところが、距離感の妙を感じさせました。そしてそのために主人公が創作する、という筋書きは、物語の向こうの椎名様の物語観を若干忍ばせているものではないでしょうか。
人の日々は残念ながらこうだから物語は必要である、といった決して無邪気ではいられない感覚がもうひとつ本作の毒であり、思うに「読み手も痛みを覚悟せねばならない」構造でした。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:椎名蝶太郎さん、ご参加ありがとうございます!
まず比喩が巧い。べらぼうに巧いんです。ベッドが呆けたように軋むとか、皮を剥かれたリンゴのように無表情だとか、超現実的な比喩が、作品世界を形作っている。それは事物を正確に描くための鉛筆というより、最適な色彩を与えるための絵の具のようです。本当ならベッドや顔がそんな風になるはずがないんですよ。でも、この方の比喩には「そうさせる」力がある。しかも、過多に用いられているわけでなく、ちょうどの量で制御していらっしゃる。センスと経験がなければとてもできることではありません。詩とか書いても素敵なものを作りそうな方だな、と思いました。
さて、お話の内容自体ですが、主人公が希薄な存在であるというのがいいですね。電話をしている男と女のほうが――例えそれが主人公の妄想に過ぎなかったとしても――彼女より事情が詳らかに描かれている。だからこそ、この作品の不気味さがきれいに増している。あと、アテレコによって現実と虚構が曖昧になっていくという作品の性質上、語り手の性質が有耶無耶なほど滑らかに夢現を接続できる。めっちゃいいですね。すごかった。
あと、小説の全貌や詳細を掴ませず、よく分からないままに物語が終わるのがいいですね。怪異というものは、どれほどの脅威であろうと全貌が分かってしまえば不気味さが減じて、安っぽい、ごり押しの恐怖になってしまいます(少なくとも私はそう考えています)。でも、この作品には「得体の知れなさ」がある。この脈絡で急に鶏肉が出てきたって、普通の小説ならきょとんとなってしまうだけでしょう。でも、『ごし』においては、不気味な、得体の知れなさを増幅させる。文句なしに上質な恐怖でした。
あと、女が受話器で電話機のフック殴りつけるシーンいいですね。どこか静かな不気味さがあるこれまでの流れをぶった切るような、勢いのあるシーンなのですが、それに反してこの後も静かな不気味さは続いていき、終わらない。きっとこの世界にはまともなものはひとつもなく、静かに、ひたひたと続いていく。
ここではない、どこか不気味な夜の世界へと連れ去ってくれる、素敵な作品をありがとうございました。
あきかん:70/100 合計点
内訳
20/20 文章
10/20 構成
10/20 テーマ
30/40 面白さ
総評
一人称の使い方が凄く上手い、と思ったのが第一印象です。最初は起伏のある文章で、これは接続詞の使い方が上手いのかな、と言葉の波に揺られながら読み進めていくと、徐々に信用できない語り手としての主人公が顔を見せ、最後は呆気にとられてしまいました。
単純に上手いな、と。文章がお上手だな、と素晴らしい読書体験を味わいつつも、この小説の題名の意味するところは何だったのだろうか、と今現在も頭を悩ませています。
つまるところ、私の無知蒙昧が原因なのですが、題名も副題もその意味するところがわかりませんでした。かつて芥川賞の選考で石原慎太郎が述べていたことですが、題名は作品を表すものでなければいけません。読み終えた後で題名を思い出してしまうぐらいが個人的な理想です。この点が作品の内容と比して弱いな、と感じました。
5.三谷 朱花『騒がしい夏』
辰井圭斗:三谷さん、こんにちは!青年ミツルとその友達陽菜が長崎の精霊流しを見に行く話。端正な作品でした。冒頭一文、“夜の街に溢れる爆竹の音が、畑平ミツルの鼓膜を震わした”は一回目読むとなんともなかったんですけど、彼らが聴覚障碍者であることを知った二回目に読むと大変印象的ですね。そして象徴的でもある気がしています。
聴覚障碍者といって、彼らがどの程度聞こえない人達かは分からないのですが、ともかく健常者とは聞こえ方が違うはずなんです。だから、大量の爆竹が弾けていくなかでも、彼ら同士では会話が成立する。でも、聞こえ方が違うからといって、あの爆竹は彼らにとって「関係ないもの」ではないんですよね。爆竹の音はミツルの鼓膜を震わせるし、どちらか、或いは両方にとって、あの夏は「騒がしい夏」だった。主観が異なるだけで、彼らは現にあの中にいた、そういう話だと思いました。長崎までの旅って、人によっては大したことないと思うかもしれないですが、彼らの主観では「遠い」もので、そうした主観を丁寧にお書きになったことを好ましく思います。
惜しむらくは、爆竹の中で会話するシーンの凄味が一読してあまり伝わりませんでした。もちろん最初と最後で爆竹が弾ける光景はあるんですけど、途中ずっとミツルと陽菜の会話や様子だけにフォーカスされていて、正直爆竹を忘れてしまいました。もしかしたら、それで狙い通りだったのかもしれないですけど、場面の派手さを活かすならば、途中で何かしら爆竹絡みの光景は入れておくべきだったのではないかなと思います。二人は真剣な話をしているので、別に爆竹に目がいかなくていいのです。でも、爆竹が弾けているということは、手話をしている互いの腕の影とかが間断なく動いているはずで、そういう様子を一つ入れるだけでも大分違ったかなと思いました。
講評を書く人の中でも意見が分かれているようですが、二人が聴覚障碍者であることが些か唐突に分かるシーンは、私はあれでよかったと思います。というより、この作品ではっきりとよかったところを一つ挙げるならば、あそこの場面だと思います。自然と呑み込める展開や描写を重ねるばかりが小説ではないですし、あの瞬間この小説が「他人」として立ち上がって来た、つまり主観が異なる人の話を描いているのだと突き付けられたのがとてもよかったなと思うのです。もちろん、「他人」といっても、私はミツルや陽菜のなかに自分との共通項も沢山見出しますし、その言葉に冷たい意味を持たせてはいないですが、ともかく、スリリングな場面でした。そんなこと言ってたらどの作品でもいいんじゃないと言われそうですが、この作品はそれまでで一見ささやかに見える情景を丁寧に描いているからこそ良いバランスで成立しているように見えます。
最初にも言いましたが、やはり端正という印象を受ける作品でした。
姫乃只紫:はじめまして、三谷 朱花様。姫乃只紫と申します。
視覚のみならず聴覚と嗅覚に訴えかける、丁寧でありながら押しつけがましくない描写のさじ加減が心地良いです。冒頭、長崎のお盆という異界を前に、啞然としながらも静かな胸の高鳴りを覚えるミツルの様子が、ありありと目に浮かんできました。
加えて「思いがけない告白」の下り、ミツルと陽菜の二人ともが聴覚に障碍を抱えているからこそ、喧噪の中でもひそと気持ちが通い合う──どちらかではなく、あえて二人を聴覚障碍者として設定した点が巧みに活かされているなと感じました(ミツルが聞こえる側でも陽菜の告白は通ると云えば通るのですが、二人ともが聞こえないという状態であった方が、このシーンの神秘的とも呼べる魅力は増すのではないかと)。
気になる点としては、ミツルと陽菜が聴覚障碍者であるという設定が作品の後半で明らかになるため、やや混乱します。改めて読み返すと「陽菜がゴメン、と顔の前から片手を下げた。」というジェスチャーが手話の「ごめんなさい」を指しており、彼女が聴覚障碍者であることを暗に示すヒントなのかな──と思いもしたのですが、それにしても少な過ぎるかなぁという印象。序盤からミツルと陽菜の聞こえ方に読者が違和を覚える判断材料があれば、二人ともが聴覚障碍者であるという設定の唐突感を解消できるのではないかと思います。
それでは、良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:三谷 朱花様、今回は『騒がしい夏』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
本作について、僕の力及ばず、裏テーマに対しいかなる回答をなさったのか理解することが出来ませんでした。ですのでそこについては他の方に任せ、具体的な内容について感じたことを述べさせていただこうと思います。
本作は、全体的にさりげなくて、緻密であったと思います。三谷様が自覚的にこだわっていらっしゃるのかわかりませんが、その緻密さのために多少描写がなめらかでない(冗長になる)ところもありました。それでもなお、夏の一日を非常に細密に描いていらっしゃいました。
それと聴覚障害について、ここが裏テーマへの挑戦かなと思った一方で、物語での機能は読み返しの付加価値であり、そこに重点を置かれたものではないと考えました。聞こえていない二人にとってどうかと考えることでタイトルも、爆竹も、バケツを打つ水の音も、二人の間でしかわからない形がある物事だと感じることが出来ました。
総合して「僕にはわからない」という感覚でしたが、わからないまま素敵さを感じた作品でした。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:三谷朱花さん、ご参加ありがとうございます。
二人の耳が聞こえないことは、それまでよりも明確に描かれた手話での会話の後、ぽつりぽつりと語るように明かされました。多分、やろうと思えばもっと劇的に、読者が「もしかして……」と思うような伏線を張ったりしながら、もっと自然に情報提示をすることができたでしょう。でも、この物語はそういうことじゃないんだろうな、と感じました。初読の時、序盤の精霊流しのシーンなどは、聴覚的な情報が排除されていることに気付きませんでした。二人が手話を交わす時点になって、「あっ、そういうことか」と気付いたわけです。思い返せば、この小説を読んでいる間、どこか薄い膜を隔てて世界を見ているような感覚がありました。多分それが私の世界の見え方と、彼らの世界の見え方の「ずれ」だったんでしょうけれど、それが、心地よかったです。
この小説で使われた技法は消極的なものです。読者に違和感を感じさせて誘導するような伏線ではなく、ただ、後になって思い返せば、というような類のものでした。けれど、この作品にはそれが調和しているなと思いました。
なんと言うべきでしょうか――、雑に言ってしまうなら、語り口が穏やかなんです。目に映る精霊流しや爆竹、花火は絢爛で美しく、騒がしい。けれど、とても語りは穏やかで、優しい。だからこそ、二人が聴覚障がい者であることの描写の消極性が、マッチしているんです。この作品の目的が「ええー! 二人は耳が聞こえなかったのー!?」とどんでん返しするような類のものでないこともその一因でしょうし、「耳が聞こえないからこそ」の世界を描くのではなく、「彼らだからこそ」の世界を描くことが作品の性質としてあったからでもあるしょう。
確かに、二人の耳が聞こえないことは作品の重要なギミックとして扱われています。が、それに呑まれてはいない。ミツルはミツルとして生きているし、陽菜は陽菜として生きている。名前を消された「耳の聞こえない二人」ではない。音のない世界が何か他と違って美しいのではなく、陽菜とミツルの世界が美しいからである。
とても優しく、力強い物語だと感じました。ありがとうございます。
あきかん:
70/100 合計点
内訳
20/20 文章
10/20 構成
10/20 テーマ
30/40 面白さ
総評
爆竹で盆を祝う長崎の風習を真摯な筆致で描くこの作品にとても好感が持てました。
前皇后陛下は読書を旅に例えられた事があります。小説というのは読者を旅行へと連れて行ってくれる。そんな一面もあることを思い出しました。
ただ、この騒がしい夏と登場人物の聴覚障害があまり噛み合っていない印象を受けました。せっかく音で繋がっているのだから、そこを強調したシークエンスがほしかったです。
6.繕光橋 加『もはや食後ではない』
辰井圭斗:繕光橋さん、こんにちは! めちゃくちゃカッコよかったですね。ほぼ全編ハードな読み心地で、やりたいことをおやりになったのだなと感じたのですが、一方で自分勝手な印象は受けず、そのまま突っ走ってほしい作品でした。
初読は難しいなという印象を受けたのですが、二回目に読むとそうでもなく。メインキャラである蛇がなかなか一筋縄ではいかない精神をしているので、蛇が語ると話が実際よりややこしく感じるのですけど、話自体は結構分かりやすいと感じました。壮大な話を硬派に書いておられて、非常に楽しみながら読みました。
3つのエピソードの中、どれを最後に持ってくるかで読後感が変わるとのことだったのですが、あまりそのあたりは感じませんでした。時系列は違いますし、それぞれ関連はあるエピソードなのですが、読後感を変えたいのであれば、もう少し小説的ギミックが必要だったかなと思います(具体的に何と書けないのですが、今ある関連性とは違うレイヤーで何かしらの関連が必要だろうと感じています)。
この小説で最も惜しかったところは、蛇の短い台詞でしょうか。基本的に蛇は長台詞を喋るキャラで、長台詞を喋っているときの蛇は、うっとりするような弁舌を披露してくれるのですけど、短い台詞のところはあまりよくない。「っ、それでも…!」とかははっきりと浮いています。この作品にしては悪い意味で分かりやすすぎるというか、言ってしまえばチープな印象でした。ここはたとえ蛇が無言でも伝わるところかと思います。でも基本的に蛇は(お好きかどうかは分かりませんが)太宰や安吾を彷彿とさせるような、口調の入り混じってそれでいてコントロールされた娯楽性の高い喋り方をしていて、大変好みでした。
私はうっかり繕光橋さんの近況ノートを読んでしまったので、繕光橋さんがおやりになろうとしたことが端的に書かれているのを見てしまっているのですが、私が感じ取った「遠さ」は根底では現代的な問い掛けを持ちながら聖書上人類最古の出来事を紐解くということでした。作者にとっては表面的な読解に過ぎるのかもしれませんが。
硬派でとてもカッコいい作品でした。
姫乃只紫:はじめまして、繕光橋 加様。姫乃只紫と申します。
読む順番によって計六通りのエンディングを楽しめるという構成が、作者の書き手としての筆力の高さを物語っています。「彼を中心にして、埃を泳がせる空気が回転し出している。」等、一枚の宗教画を彷彿とさせるような、良い意味で読み手を留まらせる描写が随所で光ります。
惜しむらくは「最後に何を持って来るかで読後感が変わります」という御作の特長が、読み手のマニ教やグノーシス主義に関する知識ありきを大前提としているところでしょうか。率直に申し上げて、私の知識量で計六通りの"読後感"を味わい切れた自信はないです。
とはいえ、「窓からは光が注ぐが、こんな光景などフェルメールでも切り取ろうとしないに違いない。」といったさりげない一文に見られるように、そもそもわかる人にわかればよい(フェルメールは建物と光の中に人物"も"いる、日本人の感性に響きやすい景色を切り取る画家ですので。情景を指す一文としてにやりとできる人はにやりとできる)を貫くスタンスこそ御作の魅力であるとも思いますゆえ。相応の知識を身につけて出直した折、改めて計六通りの"読後感"をテイスティングさせていただきたく。
それでは、良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:繕光橋加様、今回は『もはや食後ではない』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
文学的挑戦と言うに相応しい、挑戦的な構造であったと思います。ただ僕のそこらへんの知識は囓った程度でして、読後感の変化を感じ取ることは出来ませんでした。それでもなお、インタビュアー視点・蛇視点・アダムイブ視点が順序を変えることで、ピーク・エンド効果というやつが働いた感覚はありました。惜しむらくは、蛇のキャラクターが強い余りにピーク・エンドのピークの方が「随想に引っかかりそうなSF」に働き過ぎてしまったことでしょうか。それはそれで非常にいい作品なのですが、恐らく企図からは外れてしまったのではないかなと考えます。
それで内容の話ですが、やはり前述の通り、「随想に引っかかりそうなSF」の蛇が堕とされるシーンに力を感じました。文章全体もそうですが、非常に語り口が軽妙で、この蛇とはまた会いたいなと思わせるものがありました。決して悪役として描かれているわけではないのに、徹底的に悪役でした。しかしいい情熱を感じさせる悪役で、こんなに強いキャラクターが作れるもんなのかというところが本作最大の感想です。
企画趣旨はともかく、好みで言うと本企画でも五本の指くらいの感覚なので、講評させていただいて幸運でした。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:繕光橋加さん、ご参加ありがとうございます。
「もはや戦後ではない」かな、と、最初に思いました。題名と重ね合わせるならば、失楽園の余波は既に終わり、労働の苦しみと出産の痛みを乗り越えた世界で、人類のその後の展望について語る、と言った具合でしょうか。こういう題名の付け方、けっこう好きかもです。
インタビューという仕組みがとてもいいですね。もし蛇が人類の可能性を信じ神にさえ抗った思い出を陶酔するようにインタビュアーに語るなら、それこそ「退廃的で草も生えぬコメディ」となるでしょうが、煙に巻くような説教の後に密かに過去を思い出すのなら、愛すべき蛇のトラジェティとなるでしょう。この作品の「読む順番が自由である」という形式を最大限活かしていて、魅力的です。少なくとも、私はこのシステムは成功していると感じました。
あと、この作品のよかったところが、作品世界の完成度です。この小説、ちょっと思想の紹介に尺を割き過ぎて失速している感が否めないんですけど、その被害を最小限に抑えている感じがします。作品の雰囲気で魅せることによって、長めの説教をゴリ押していく感じ。創世記の絢爛でオリエンタルな空気がエンジンになっているわけですね。
あと、文字数が作品に適した文字数だったのもよかったです。蛇が饒舌なキャラであるというのもあるんですが。絢爛な世界観に、この濁流のような、雑駁な、余剰のある文体と文字数がマッチしていました。多分圧縮しようと思えば幾らでも推敲できるような文章なんですが、その余剰の豊かさこそがこの作品を立体的に魅せています。
あと作者さんの蛇への愛着が感じられるような気がしました。気のせいだったらごめんなさい。でも、そこがよかったです。グノーシス的立場から見れば当然蛇はヒーローだよな、とは思うんですが、キャラクター造形がとても素敵でした。
ともかく、とてもいいものを読ませていただきました。ありがとうございます。
あきかん:
80/100 合計点
内訳
20/20 文章
20/20 構成
10/20 テーマ
30/40 面白さ
総評
順列組合せで言うところの3!、つまり6通りの話の組合せがあるのが本作品の最大の売りでしょう。それを実現するだけの筆力を備えた作者であることは、序章を読んだだけでわかりました。
ただ、私の知識や読解力ではさほど読み味が変わるようなこともなく、また単純に同じ文章を読み返すので、繰り返す度に飽きてきました。
これは構造上の問題なのか、それとも改善の余地があるのか。今現在も思考中です。答えが出ない故に、とても面白いと思いました。
7.偽教授『絶望に捧げる輓歌』
辰井圭斗:きょうじゅ、こんにちは! 「僕はなんできょうじゅの作品が好きなんだろう」と泣いている途中です。いや、1回目読んだ時は、「これは褒めに徹するわけにはいかないな」と思ったんです。別に賞の選考はその人の過去作とか関係なくその作品単体でするつもりですけど、私は講評は作者に対するお手紙だと思っているので、過去に何を書いていた人かとかは必要であれば加味して書く方針なんです。それでいくと、きょうじゅには傑作群があるわけで、それと較べてしまう。もっと書ける作者さんでしょうと思うんです。別に力を発揮する場所は作者が選ぶものだったり、作者にすら選べないものですけど。ということで、褒め100じゃない講評を書く前提で2回目読みました。冒頭に戻ります。しくしく。好きです。文章の奥に漂う何かが。そんなんずるいじゃないですか。
いい加減作品の話をすると、異世界転生小説と組み合わせるのは私も考えましたし、それで一つプロットを作りました。「遠くに行く小説」というのは何も「高尚な文学」(「」つけますね。私は高尚な文学大好きです)のかたちではなく、最新トレンドと組み合わさって死ぬほど読みやすいかたちで来るのではないか、と少しの間考えていたので。異世界転生が最新かはともかく、分かりやすいトレンドではあります。だから、この作品を読んで、「ああ来たな」と思いました。
〝だから人間には文学というものが必要で、文学は小説でなければならないんだ〟というところ、確かに私ときょうじゅの考えていることは違うのかもしれませんが、〝だから人間には文学というものが必要で、文学は(誰かに読んで欲しいと出すのであれば)「読めるもの」でなければならない〟くらいのことは思っています。
玄野の絶望がいまいち伝わってこないという部分はありますが、殊更に絶望を伝えようとする人物造形をあまりお好みでないのだろうなとも思います。折衷を見てみたかったなとは思いますが。
毎度の如く鬼のように読みやすい小説でした。
姫乃只紫:はじめまして、偽教授様。姫乃只紫と申します。
小説の枠組みからの脱却を目指すなど、書き手として愚直な文字通りの「文学的挑戦」を試みる方や「そもそも自分にとって文学とは何か」を作品を通じて物語る方が多くを占めている(という印象を少なくとも私は受けた)中で、自分の思う文学とはコレという答えをさくっと示している──ように映る稀有な作品。
自分にとっての文学的挑戦とは、小説とは何かを模索する過程をそのまま物語に落とし込んでいる作品が多い一方、件の作品は模索段階ではなく現時点における自分なりの答えを述べているといった印象を受けます。まあ、前者は前者で「今まさに模索中の途半ばです」という姿勢をひとつの答えとして示しているとも云えるのですが。
なんとなくですが、「学術的な根拠はさておき自分はこう思う」という一個人の独特過ぎる解釈をさらりと述べられるみうらじゅん的なカッコよさを感じました。研究に裏打ちされた定説をリスペクトしつつも、自論は自論で大事にできるってカッコいいですよね。そう考えると、自分にとって文学とは何かという問いに未だ答えを出せないでいる、というか答えを示さなければと思い込んでいる書き手にとって、件の作品はなるほど些か「遠い」のやもしれません。興味深い作品をありがとうございました。
和菓子辞典:偽教授様、今回は『絶望に捧げる輓歌』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
『小説はどこまで遠くに行けるか』とは言いますが、本作はそもそも今の小説の延長線上にないというべきか、我々がx軸を走っている間そちらはy軸を走っているというか、つまり「目的がこちらの小説とは異なる」ように感じました。
まさに「絶望に捧げる輓歌」であり、多くの人の感情のための物語ではなく、玄野達樹だった特殊な存在に必要なものとしてその今までを綴った物語なので、その目的の違いから導き出される最適な書き方は違う、というのが僕の結論です。具体的には、各人生ごとの大冒険・山あり谷ありなど彼の気に留めるところではありませんから、描かれません(エンタメならばそここそ書かねばならない一方で)。
つまるところ、本作の感想を言おうとしても、そもそも僕が評価することからして不適切に思われます。「not for me」という言葉がありますが、「only for Kurono」ですから、「しかしそれによって、本企画の裏テーマにはっきりと回答している」以上の感想を書き得ません。これは面白かった面白くなかったではなくて、評価者として僕が不適切というだけの意味であり、その意味で傑作であったと思います。
しかしこれは決して、本作が現実に何も意味を持たないという話ではありません。むしろ普遍的な可能性を示して下さったと思います。例えば時代が大きく移り変われば、人の需要も変わり、必ず新たな創作物が生まれるという可能性を感じさせて下さいました。
これらの意味で、非常にスマートな回答であったと思います。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:わー教授さんだー! こんにちは! 作品寄せてくださってありがとうございます。一晩で一気呵成に投稿されていくの、リアタイで見てました。
あの、まず最初の「エピグラフ」と「ぜつ☆ばん その1」の時点から、自由自在に暴れてくださいましたねとニコニコしてしまいます。意味のない引用で最序盤ドブに捨てるのも素敵な暴れ具合だったんですが、それがなぜかと言うと「エピローグ」がやたら結末に寄せた引用をしてるので、
1、実はエピグラフにもエピローグにも意味がある。
2、エピグラフに意味はないが、エピローグには意味がある。
3、実はエピグラフには意味があるが、エピローグにはない。
4、エピグラフにもエピローグにも大した意味はない。
と勘ぐってしまい、四択に翻弄されてしまったからです。頑張ればエピグラフはイツキちゃんのことだと解釈できそうですからね。まあそこらへん拘っても泥沼な気がしますので、胸の片隅に仕舞いながら読み進めていきました。
作品全体が、タグを含めておちゃらけたような雰囲気のある作品なんですが、それとは裏腹に重い主題が印象的でした。このコントラストが大変よかったです。なんかこう、引き裂かれるような暗闇を感じました。
そういえば、語りが転生によってコロコロ変わる描写の仕方もいいですね。説明が淀みないので、躓かずに次の人生を観測できます。今までの教授さんの小説のスターシステムや、玄達と「玄」野「達」樹のリンクも含めて考えるなら、本当に凄い力作なんですよね。ありがとうございます。
ただ一つ気になったことがあるとすると、極限まで削ぎ落された小説の構造上、玄野達樹の絶望が入って来にくかった、というのがあります。「真相解題」で唐突に奈落の底に突き落とされて「考えるべきこと」を後付けされている感じがしたんです。ここは話の並びが逆でもよかったかなぁ、と思いました。
あきかん:
90/100 合計点
内訳
20/20 文章
20/20 構成
10/20 テーマ
40/40 面白さ
総評
教授は小説が上手い。そんな当たり前の事を再確認しました。
教授の洒脱なタイプの小説は独特の切れ味があって好きです。今作に限れば、一話一話の話の飛び具合が絶妙で、なおかつ最後は話を纏め上げる手腕は見事としか言えません。
しかしながら、教授のファンであるところの私にとってこの程度の事は想定内。素晴らしいが、はたしてこれが教授の最大飛距離なのか、とも頭をよぎります。
そもそも自分ごときが観測できるような地平に立っている方ではないので、教授の最大飛距離を知りたい方は他の作品も読んで下さい。
個人的には、教授の作品の中では上位にあれど最高点には至らず。といったところです。
8.水無月 雨音『First Killing・Just Forever』
辰井圭斗:水無月さん、こんにちは! コンパクトな切れ味を持ったカッコいい短編でした。特に最終盤の回答はこの小説の白眉だったと思います。
ところで、自分では死ねないから、自分が生まれないように祖父を殺そうとするところに象徴的なように、この人、自分のことが嫌いな割に根底では自分に価値があると思っているように見えるんです。でなければたかだか自分の生死程度のために祖父を殺そうだなんて思わないでしょう。小説の話にしてもそう。自分のことが嫌いな割に自分の感情に価値があると思っている。別に矛盾を笑っているわけではないんですよ。実際そういう人いますし。私が半分そうですし。ただ、この人、書き手としては面白いです。
自分のことが嫌いで死んでしまいたいのに、心の底では自分や自分が書くものの価値を信じている時期は貴重です。結局自分が嫌い系私小説を書けるのって大部分はそういう時なので。そう思っていた人が素直に自分にも自分の書くものにも価値が無いと思うようになると、あんまり書かなくなります。だからこの人に伝えることがあるとしたら、「今のうちに沢山書いといたら」でしょうか。
小説が自分にとっての墓標かそうでないか問題については、「自分にとっての」なので究極その人の勝手です。私はこんなもの墓標にすらならないと思うことがままありますが、墓標なのだとある種の矜持とともに言いたくなることはあります。小説=自分の墓標って覚悟を伴うカッコいい台詞であるのと同時にものすごい楽観が前提にあるんですよね。自分の墓標くらいにはなってくれるんだっていう。
講評全部まとめるなら「しぶとい書き手みたいでグッドだと思います」かな。今後が楽しみですね。
姫乃只紫:はじめまして、水無月 雨音様。姫乃只紫と申します。
「小説はどこまで遠くに行けるか」を意識しながら作品を書く上で、恐らくは最初にブチ当たるであろう「そもそもあなたにとって小説(≒表現)とは何か」という題目に真っ向から向き合ってくださった作品だと思います。
件の小説は自分にとっての墓標である──という帰結に、ふと海外ドラマなんぞでよく見る「母親の墓に誓えるか?」なんて是非を問う云い回しが脳裏を過り。あー小説ってそういうところあるよなと一人うんうん頷いた次第。小説とは自分にとっての墓標に過ぎず、されど自分の墓標にはなり得ないので。自身とは切り離された、誓いの対象となり得るななどと(余談ですが、私にとっての小説は"爪跡"です)。
さて、一読した時点での感想はコンパクトで読みやすい、欲を云えばもう少しテキスト量があればより鬼気迫るものがあったのではないか──くらいの感じだったのですが。幾度か読み返すにつれて「これはもしかするとエンタメ小説的読みやすさを重視した結果、このサイズ感に落ち着いたのではないか」という憶測に至りました。否、もとよりこんな感じでしたよ? と云われたらそれまでなのですが(笑)。選考されるがゆえにそういった点──エンタメ小説的に良しとされるポイントを殊更意識した可能性がなくはないなと。
もし、削る前の状態が残っているとしたらそれはそれで気になる。作品以上に作者様に興味を持たせる類の小説でした。
和菓子辞典:水無月 雨音様、今回は『First Killing・Just Forever』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
まず本作のような構造の作品は、本企画裏テーマに対してまず考える典型的なもののひとつですが、その難しさから無意識のうちに避けるものだと思います。しかし、水無月様は書かれたということで、類い稀なる結果であると考えます。その一方・その片隅でこれは作り物ではなさそうに感じさせるのも本作の何か「超えた」部分であるとも。
また、どこまでも入れ子になる構造は、翻って考えるときに小説が現実に迫ってきてしまう読み口があり、非常に奇怪でした。
ここから具体的な内容の感想になりますが、主人公の持つ自分を諦められない生苦、そんな主人公にとって物語とは何であるか、これを語る筋書きとして十分な訴えかけを有しており、それが自然に発展した結果成った筋書きであると思います。それが先述したとおり、このような構造を持つところに感銘を覚えます。
SFに親しい人を楽しませうるかどうか、僕がそうでないのでわかりませんが、僕がそうでないなりに楽しんだことと、それを成立させた努力そのものが素晴らしいことをここに銘記します(ここにおける「楽しむ」はとても広義にとらえていただければありがたく思います)。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:水無月雨音さん、ご参加ありがとうございます。
この作品、入れ子構造になっているんですね。祖父殺しのパラドックスと絡めた構造で、興味深いなと思いました。祖父殺しのパラドックスがこの小説の中でどういう風に働いているのかは色々解釈の仕方があって面白いな、と。
語り手が小説家としての「男」、そして台詞が生活上の「男」、二人の声が和声を成し、この小説は進んでいく。「「墓標なんだよ。」」によって刹那に重なり、視点は男から抜けて再び俯瞰に戻っていく。
かなり幾何学的に計算されて書かれた小説であると言えるのではないでしょうか。格好良かったです。
一つ読みづらかったことがあるとすれば、男が記者たちの前で語るシーン、ここうまく行けばめっちゃくちゃ格好いいと思うんですけど、中々難しいものですね。初めに老人が子供たちに語る時のように「声」だけで魅せることができていればよかったんでしょうが、このシーンで話を聞くのは記者です。これが、よくない方に作用したなあ、と。できるなら、記者たちもきょとんとしていた方が作品の雰囲気にはマッチしていたのではないかと思います。「熱心に、興味深そうにメモを取り録音して」がしっくり来なくて、作品世界から撥ね飛ばされた感じを覚えました。
あと最初のパートで説明された男の臆病さ、これと相反するような動きばかりとっているのも、少し没入しにくかったかなあ、と感じました。
ですが、コンセプト自体は明確で鋭く、その辺りは楽しんで読ませていただきました。力のこもった作品をありがとうございます。
あきかん:
70/100 合計点
内訳
20/20 文章
10/20 構成
10/20 テーマ
30/40 面白さ
総評
段落ごとの文章を意識して書いた事が伝わり、大変面白かったです。
内容は、ポストモダンかドグラ・マグラ的な何かでしょう。このような小説の欠点は、書き手の技量が問われるという点です。
書き手は自らの文に酔いやすい、というのが個人的な実感としてあります。逆説、読み手を酔わす文章というのはとても難しいのです。故に、ドグラ・マグラは奇書と呼ばれています。
本作は、そもそも酔えるほどの分量がありません。酔いが廻る前に読み終えてしまう。文章の度数を上げるか、それとも量を増やしたほうが本作の面白さは強調できます。やりすぎなぐらいで丁度良い話かと思いました。
9.尾八原ジュージ『十四歳』
辰井圭斗:ジュージさん、こんにちは! ジュージさんは90点以上をコンスタントに取ってくる作家さんという印象があるのですが、今回もクオリティの高い作品が来たなと思いました。さて、私はこの作品に対して「ホラー」とか「怖い」とか「禍々しい」と言うことにかなり抵抗があります。いや、便宜的にでも「怖いね」とか言わないと、読後のこの気持ちをどう処理したらいいのか分からないのですが、抵抗があるんです。思うに、「ホラー」とか「怖い」とか「禍々しい」と言って自分と切り離して外部化することにためらいがあるようです。この作品自体が赤ちゃんのような気がしていて、赤ちゃんは最終的にすずこさんのお腹に入るのですけど、なんだかそういう風に自分の内側に入ってきて切り離しがたい柔らかなものな気がするんです。まずいことに。なんとも言えないすごいものを書かれるなと思いました。
固いことを言うなら、すずこさんという視点人物の妙が活きている作品でもありました。然るべきところでアラームの鳴らない人物なので、読者は一層はらはらするというか。ここ上手いなと勝手に思っているところは〝においも、くまさんの毛布に似ている気がしました〟で、それはいつのくまさん毛布の話なんだと。ふわふわでいい匂いのしていた頃ならいいんですけど、多分ごわごわ時代のくまさん毛布のにおいなんじゃないかという気がしていて、きっと一般的にはいいにおいじゃないんですよ。でもすずこさんはいやだと思わない。アラームが鳴らない。このあたりの感覚のずれをすごくさりげなく忍ばせていて、読者の背筋を冷えさせるあたり感嘆しました。
ジュージさんはホラーを書いてももちろん上手いですけど、なんとも言えないものも本当にうまいなと再確認した作品でした。
姫乃只紫:はじめまして、尾八原ジュージ様。姫乃只紫と申します。
唐突ですが、ひらがなってエロいですよね。当初ひらがなが大部分を占めていながらそこはかとなくエロティック──などと書き出すつもりでしたが、よくよく考えずともひらがなはエロいだろという至極真っ当な見解に辿り着いてしまったので。軽率ながら、同意を求める書き出しになってしまったことを大変申し訳なく思うております。
バスタブという居場所を失った赤ちゃんがいつの間にか"わたし"の胎内に息づいている──。かつて"場"に憑くとされていた妖は、その実心理が作り出す幻影に過ぎないといった観念の定着によって、むしろいつどこにいても見え隠れし得る、人とは決して切り離せない存在になってしまった。そんな妖の変遷を思い起こさせる展開に、良い現代妖怪譚だなぁと(明確に時代背景を定義し得る文言がないため、そもそも現代ではないやもしれませぬが)。拙い作文風を装いつつ、確かな迫真力を備えた文体と共に楽しませていただきました。
一方で作品としての完成度の高さゆえか、率直に云ってこの賞でなくとも構わない、テーマの異なる他の賞に出したところで凡そ受け入れられてしまう、読み手から諸々汲み取られてしまうことを予感させる非常にフレキシブルな作品である──とも感じました。この辺りは短所ではなく、いち講評を書く人の見出した特徴に過ぎないと解釈していただければ幸いにござい。
余談。赤ちゃんの造形に「ぬっぺっぽう」という妖怪を思い出しました。「ぬっぺり」とは顔貌は美しいがしまりのないさまという意味だそうです。「わからないことがたくさんで、つまらないときが多い」──いつどこにいても張り詰めていた"わたし"の眼には、それこそ胎内に招き入れたいくらい美しく見えたのやもしれません。
和菓子辞典:尾八原ジュージ様、今回は『十四歳』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
本作が本企画の裏テーマにどのような回答を設けたか、抽象的なところから私見を述べますと「温故知新」、すなわち「過去のものを巻き込んだ新しいものは、その当時に生まれたことがない」というものであると考えました。
その説明に必要なこととして、本作の書き口は密度の意味で『春琴抄』に似ていると思います。当時は「こんなミチミチに書いても面白く読めるのか」と驚かれたことでしょうし、その意味で本企画にぶつかってくるものとして、「重み」のようなものを感じます。
ここで具体的な内容に触れてしまうのですが、川赤子を思い出しました。溺れ死んだ赤ん坊がなる妖怪で、泣き声で憐れんだ人を誘い込み溺れさせるそうですが、バスタブやタオルから時代感を想像するに、赤ん坊が溺れ死ぬ理由は限られていて。そういえば『春琴抄』では、下男とお姫様に似たような事態があったような。主人公のおうちも割と大きかったなとか。当時のやり方を、本作の時代ではやりづらいのかなとか。
全文妄想ですが、それをふまえます。それをふまえると本作は、過去のものを現代に焼き直して、過去のものが持つ印象をうまく使っていると思います。そういったやり方なら、連綿と繋がりながら小説は遠くへ行けるかという展望も生じました。
最後に、素直に感じたこととして、「こんな温かいような生温かいような形になるんだな」と、読みながら変な笑いを浮かべていました。この、「ホラーもこんな形を持つことが出来る」という点こそ言及すべきところで、上記したものは要らない深読みかも知れません。5人もいればきっと誰か言ってくれると高をくくります。
わかりやすくて難しい作品でした。改めてご応募ありがとうございました。
P.S. 後で読んだら「いやこの文の密度はすずこさんの奇妙な単調さを描いているものではないの?」となりました。当然ですが、まだまだ考えられることはありそう……
藤田桜:尾八原ジュージさん、ご参加ありがとうございます。
舞台袖の物語だと思いました。物語としては「『赤ちゃん』を脅威として配置した長編ホラー小説」のプロローグや種明かしの回想パートとして使えそうな雰囲気さえあります。裏に惨状を孕んでいながらとても静かな小説でした。仄めかされるのは、余りに大きな「家」の影。歴史も、規模も、ずば抜けて大きいわけではなさそうだけれど、この淡い語り手の少女を圧し潰しかねないほどに茫洋としたものを感じます。で、ここで、彼女の語り口が奇妙なまでに幼いことが効いてきます。多分彼女は何も知らず、また知らされずに育ってきたのでしょう。「赤ちゃん」の存在にも何か由縁がありそうには思いますが、何もこの作品の中では触れられることはありません。底が見えないからこその不気味さが、とても魅力的です。
また、きっと彼女は無垢を繰り返すのだろうなと思いました。「いつまでもおなかの中にいてほしい」、少女を部屋に閉じ込める「お母さん」と、どこか重なり合うようなものを感じます。「赤ちゃん」がバスタブから出ることを嫌がるのも、「いつまでもおなかの中にいてほしい」という素朴な願いが影響しているのではないかと疑いました。時系列的に考えればおかしな解釈なんですが、作品世界が凄まじくて、疑心暗鬼になるのです。果たして彼女は「よいお母さん」になれるでしょうか。
文体も、顔のない文章、という感じがしてよかったです。尾八原ジュージさんの文体は、丁寧でかつムラのない感じがするなぁと普段から感じていたのですが、今回はもう徹底的でした。ひらがなの比率が高く、かつびっしりと埋め尽くされてるというインパクトがもの凄い字面なのですが、言葉遣いそのものは「ブレ」が非常に少なく、それで顔のない文章だと感じました。あと彼女の人物造形の主体性のなさも、いっそう不安を掻き立てます。他にも、「お顔がきれい」なことは分かるんですが、それ以外の、例えば外見の属性を示すような言葉がなくて、彼女もまた顔のない存在であるかのように思われるのです。
ただ静かに柔らかく目の前にある、凄まじい小説でした。
あきかん:
80/100 合計点
内訳
20/20 文章
10/20 構成
20/20 テーマ
30/40 面白さ
総評
ジュージさんの作品を何作か読んでいますが、いつ読んでもジュージさんの文章は質感が素晴らしいと思うわけです。
湿度が高い文章とでも言うのでしょうか。読者にまとわりつくようなこの読み味は、ホラーにとても合っています。
いつものジュージさんだ!美味しいとこ取りだ!と感じました。
私はジュージさんの作品を他にも知っているので、それらと比較してしまうわけですが、その観点から言えば今作は文章で攻めて来たな、という印象です。
確かに面白い。しかし、もっと印象に残る掌編を書いている作者です。小説としての飛距離は、この作者にしては、あまり出ていないかな。とも思えました。
10.あきかん『叉鬼』
辰井圭斗:あきかんさん、こんにちは! 一言で評してしまうなら「健康」な小説でした。カニバリズムを性癖とした小説であるらしいですし、実際作中では結構複雑な食人欲求が語られるのですけど、その割に「陰」が無いというか、病的な匂いがまったくしないというか。頗る健康な印象でした。これ言っていいのかちょっと躊躇いながら言うんですが、あきかんさんは、カニバリズムが好きになりたい、或いはカニバリズムが好きだと見られたいという部分があっても、別に実際はカニバリズムが好きではないのではないですか? だからなのかなんなのか。直接的な食人描写があるのに、この小説は「安全」なんです。
そう言われると書き手としては「むむ」と思うかもしれませんが、「健康」であったり「安全」であることは悪いことでもないと思います。エンタメとして安心して楽しめるので。私はあきかんさんの健康小説好きですよ。拗らせとか暗い性癖の部分って、あきかんさんの場合原動力でありながら、制約になっているようにも見えるので、付き合い方かなあとは思っています。
そんなこんなであきかんさん好きですよと言って締め。
姫乃只紫:ご無沙汰しております、姫乃只紫です。
一読して「恋愛小説かな」と思いました。又三郎の喰いたい(あと喰われたい)は葉花に向いていましたが、葉花の喰いたいは洋太に向いているので。又三郎の想いは一方通行なのですよね。葉花も「あなたに拾われたあの日から、私は又三郎さんの羊です」と確かな恩義を感じてはいるようですが、それでも「喰いたいし喰われたい」の域ではない。何より葉花の喰いたい対象が「今は亡き人」であるところも実に恋愛小説っぽい。そして、又三郎に葉花の心臓を嚙み切ることはできなかったというラスト。これが、いかにも「心までは明け渡さない」という葉花の意思の表れのようで──。それゆえ、恋愛小説っぽいなぁと。
惜しむらくは、冒頭「我が子に食人衝動を持つ母親」という読み手を引きつけるセンセーショナルな設定が、又三郎の「堺家の者は皆こう」という種明かしによって何やら暈けてしまった感が否めないところでしょうか。
ショッキングな幕開けから「ほう、これから我が子に食人衝動を持つ葉花の異常性が掘り下げられていくのだな~」と期待した私のような読者にとって、「どうも一族の特質らしい」というオチはやや肩透かしを食らった気がしたのではないかと考える次第。
以上、想いの強さと食人衝動が正比例する一族ではなく、我が子に対する想いの強さと食人衝動が正比例する母親の話が読みたかったのだという人間の叫びでした。良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:お疲れ様です。初めて体験する評議員でそのどぎつさを感じている僕としては、そんな中でも作品投稿が出来る人たちやばすぎん? となっているところです。というわけであきかんさん、今回は『叉鬼』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
この作品、やっぱり性癖大賞のために書かれたものというか、あまりにも「カニバリズムに共感させてくる」作品だと思いました(本文は食人を肯定するものではなく、その衝動の存在を肯定するものです)。1話時点では「うわ歪んだやつだ」となってしまうのですが、その後に親子のことを描かれると、「こんなに大事だと雑に食べられる怒りが湧いて、自分ならと考えるかも知れない」と共感してしまいました。この順番だったからこその共感で、もし2話→1話の順番だったら1話内容の衝撃が前までのことを消し飛ばしてしまって生まれなかった共感だと思います。その上で描かれた4話が最高に丁寧で、綺麗な終わりでした。
それともう一点、これは7割方深読みなのですが、「以外」を「意外」と書くところが2つ、「内臓」を「内蔵」と書くところが一点ありました。これはよくある誤字なので変換ミスなんだろうと思いますが、その一方で、「以外、という論理記号性が高くヴィジュアルに想像しがたい単語・意識しづらい単語を意識するための工夫なのでは?」「内蔵と書くのも引っかかりを設けるため、強調の意図からでは?」とも考えました。実際本作は、とても内容を想像しやすいものでした。
閑話休題、本企画裏テーマに対する回答としては掴み所がありませんでした。できる限り解釈を広く取りたかったのですが、難しいです。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:あきかんさん、ご参加ありがとうございます。評議員同士でこれ言うのも何か不思議な感じがしますね。えへへ。
それにしても、「叉鬼」ってマタギのことなんですね。知りませんでした。
本作は、一言で表すなら「分かりにくい」小説でした。詳細を示すべき単語が中々出されない。それが一概に悪いわけではありません。むしろあきかんさんはそれを見事に操り、この作品ならではの快さを生み出しています。けれど、それが時折、制御しきれなくなっている。
欠点となってしまった例を挙げるとすれば、山の民について。最初もしかして葉花さん元“山の民”なんでしょうか、と思ったんですが、山の民ってイコール「獣」みたいですね。彼女も育ての親はいないようですし。と思えば山の民には「風習」がある。じゃあそのまま獣という訳ではなさそうだ……山の民とはいったい何なんだ……? ということばかり脳裏を占め、もやもやしました。もしちゃんと山の民に設定があるなら、「お前に山の民が撃てるのか?」、この台詞、絶対こんなあっさり処理しちゃ駄目だと思うんです! めっちゃ気になる……世界観が魅力的な作品故にめっちゃ気になる……。この作品、葉花と又三郎の激ヤバ感情と独特の世界観が絡みあってるのが一番の強みだと思うので、そこらへんの説明にも、もうちょっと字数を裂いてもバチは当たんないと思うのですよ……。
でも第4話の又三郎さんが葉花さんを下処理するシーンとかめっちゃかっこよかったです。葉花さんがただの肉として描写され、心臓だけになってようやく愛する人として明示される。ほとんど肉の処理手順について語られている部分なんですが、語り方ひとつでこんなにもドキドキするのかと思いました。
素敵な作品をありがとうございます。
11.ポテトマト『青い繭のなかで』
辰井圭斗:ポテトマトさん、こんにちは! 滅茶苦茶読み心地の良い作品でした。ピックアップでも言ったんですけど、普通から気持ちちょい速めのスピードで読むと、稀有な読み心地を体感できます。ということで1回目は何が起こっているのかよく分からないけど、読み心地の良さにうっとりして、「すごいなあ」と言っていました。で、講評を書くために2回目を読んだところ、なんか分かったかもと思いました。すごい妄想かもしれないんですけど、多分妄想じゃないのは他の方が書いてくれると思うので、思い切って妄想かもしれないものを書いてしまおうと思います。
これ、小説を書く人の話じゃないですか? 夫が小説を書く人を象徴していて、妻が小説の霊のようなものを象徴しているというか。小説の霊のようなものってなんだよって言われるかもしれないですけど、小説を書く時って創作意欲だけで片付けられない、もうちょいスピリチュアルな力が介在していませんか、ということで霊と言っているんですけど。その構図で読むと何が起こっているか分かる気がして、操ってくる感じとか、逆らえない感じとか、魅入られている感じとか、逃れられない感じとか、小説の霊と小説を書く人の関係じゃないでしょうか。〝初めはただ、高揚感に支配されていた。指先に迸った、強い錯覚。駆け巡る情熱に身を任せて、ひたすらに青い薔薇を描いていた〟の前後とか思い切り小説の話じゃないかと思ってしまいました。なんだか(霊が)ヤバいやつなのは分かっているんだけど、逃げられないし、操られてるし、書(描)き続けているという作者の叫びが詰まっているような気がして、とても面白く読みました。
もちろん、そういう読み方をしなくても面白い作品です。特に最後のあたりとかは、実際に起こっていることを素直に読んだ方が面白いかしらと思いながら読みました。何層にも読み甲斐のあるとても良い作品でした。
姫乃只紫:こんにちは、姫乃只紫です。
企画の裏テーマである「文学的挑戦」に非常にストレートに向き合われた作品である──という印象を受けました。
「文学的挑戦」というお題と対峙した折、恐らく真っ先に頭に浮かぶのが"型"にとらわれないという挑戦ではないかと思うわけでして。御作は幻覚や陶酔の状態を彷彿とさせる──決まりきった物語の枠組みから逃れ出ることを目指すような構成でありながら、されど読者の想像力に頼り切りではない、テキストとして起こされていない裏側にも物語が存在しているのではないかと予感させる絶妙なバランスを保っています。そういう意味で「"小説"はどこまで遠くに行けるか」というお題に重々応え得る作品ではないかと。
文体は作品紹介文にある通り「サイケデリック」を意識されたのでしょうが、不思議と奇を衒うような激しさはなく、全体的にやさしい読み心地でした。これは"僕"が人生の最終章に見ている幻覚なのか、日常的に経験している幻覚なのか、はたまた意図して視ているちょっとした幻覚休憩なのか、そもそもそういう話ですらないのか。解釈の余地を与えるだけで押しつけはしない姿勢が、そのように感じさせる一因なのかななどと思った次第です。
それでは、良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:ポテトマト様、今回は『青い繭の中で』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
非常に象徴的で、描かれていない全体のほんの一部を「仄めかす」ものであり、その意味において「遠くへ行った」小説であると感じました。詳しく長々述べるなら、キャラクターや展開のために世界を作るのではなく、予め想像した世界から物語らしくなる部分を切り取って小説にする書き方がありますが、その切り取り方をあえてずらし、物語らしからぬようにするやり方で既存の小説の形から脱出しようとする方法論であると感じます。「カメラをずらす」というべきでしょうか(これは他の方への講評にも書いていて、奇遇があるものだなと思います)。
さらにそのうえで記述が奇妙ですから、読解が難しいというよりまさに遠く、普通に小説を読むのとは若干違う感覚を求められました。
具体的な内容についての感想になりますが、まず見解をまとめると「執着によって止まってしまった時間を虚構に費やし慰める、人の喪失の一場面を切り取ったものを、実に奇妙に書き記したもの」であると思います。物語らしい物語ではありませんが、それでも人の心の記述であり、こちらに働きかけてくるものがありました。別の企画の都合「性癖:サイケデリックな文体」とありますが、ただ文体がサイケデリックなだけではなく中身までサイケデリックで、心地よい混乱を味わえました。
きっと本企画の裏テーマにそぐわないのでしょうが、書いていない2,30万字くらいがあれば書いて欲しいなと思いました。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:ポテトマトさん、ご参加ありがとうございます。
初読時、これは凄いのが来たな、と。そう思いました。
論理的に物語を考察するのは、この作品に相応しくなかろうと思いますので、そこらへんには触れません。途中まではぎりぎりストーリーを想像できるんですが、最後らへんになると「まあああいう感じのがあれなんだろうな」ってくらいに理解がぼやけてしまう。それはそれで凄く好みなのですが(物語が不明瞭であることそのものが好きなのではなく、物語を不明瞭にしてまで作者様が得ようとするものが好きというか、そんな感じです)。
まず字面がいいのですよね。字面が美しい。それがこの小説を支えています。「サイケデリックな文体」とは仰いますが、文のリズムと字面の華やかさは全く別のセンスを必要としますので、意識的に同時制御できるのは凄まじいです。分からない内容でも、ざーっと読み進めることで字面を充分に楽しめる。その後、ひとつひとつゆっくり読み進めても、文章のリズムを楽しめる。よかったです。
私、この小説からは象徴主義みを感じました。あとシュルレアリスム的な雰囲気も幾らか見えます。ポテトマトさんがそれらを意識なさったのかどうかは存じ上げませんが、でも確かにそこらへんの系譜とシンクロするものはあるなぁ、と。美しさのための美しさと言うか、それが「ナンセンスな情景」なのでしょうね。
「青」という色の使い方も印象的でした。この色は薔薇と繭、二つのキーアイテムのどちらにも使われています。「不可能」「あり得ない事」「奇跡」……。どの花言葉を思い出すかが、主人公と妻、二人のスタンスの違いを表現するかのようです。それは薔薇に対しても、繭、つまり怪獣に対しても。
ストーリーは曖昧で分からないのですが、曖昧だからこそ探し出せるうまみはあるよなぁと、そういう風に感じました。この話はそういうことかもしれない、そういうことなのだろう……そういった推測をさせる、その推測の心地よさを楽しませる小説でもありますね。
あきかん:
90/100 合計点
内訳
20/20 文章
20/20 構成
20/20 テーマ
30/40 面白さ
総評
文学とは何であろうか。と、普段考えもしないことをこの企画の為に苦慮しているわけですが、文章の芸術性みたいなものを追求するのがその1つの回答だとしたら、今作のような作品はそれに対する回答であろうと私は思ったわけで、それをわざわざ口にするのは野暮とは思いつつ、だらだらとこれからあげつらっていくとして、やはりまず文章、その読み心地の良さ、それは文章の音韻がその理由なのかな、と短慮な答えは浮かんでは消えて、読み進めていけば、やはりそうではなく文章そのものが美しいと表現せざるおえないと確信するところではあるのだけれど、表面上は物語を紡ぐようでいて、それはどこか不確かで、このぎりぎりの均衡を保ったこの文章の総称を、理屈ではなく本能として、もしくは少なからず重ねた読書経験からくる直感が、これを小説であると認知するに至ったので、これは単純に文章が格別に上手いのだ、と理解して、ただただ感服したしだいです。
12.辰井圭斗『風』
辰井圭斗:自作につきノーコメント。
姫乃只紫:初見ならぬ初読から舞台中国であって中国でない感は伝わってきたので、「異世界ファンタジー」というジャンル分類を見てほっこりしました。平素ルビを多用しない書き手が作風上そうなるとは云えルビをガンガンに多用しているので、色々脱したい部分があったのではないかと思います。
作者の他作品と比べていまひとつ「なるほど理解した」というところまで落ち着かず、それゆえわかったような気がする範疇で書かせていただくと、「還有別的的意思(まだほかにあるといういみ)」には強く頷けるところがありました。全書き手がいつかブチ当たる壁というよりは一部書き手がその存在に気づいてしまう壁、避けようと思えば避けられるんだけどコレ避けちゃうの何か違うよね──となる壁と云いますか、難しいですよね。
和菓子辞典:辰井さんは主催ですので、「今回はお寄せいただき」といった余所者行儀を避けようと思います。本作『風』を読ませていただきありがとうございました。
本作が本企画裏テーマにどう回答したか、僕なりの見解をまとめると「カメラの位置を、物語らしく映る場面からずらす反抗」でした。つまり、あの流れなら書くべき展開をあえて書かずに、その後の問答だけ映す時間にカメラを置く書き方。王道といわれるものに対し、無関心という形でとらわれないのではなく、反抗的である本心を隠さず発露する書き方であったと思います。彼の中身が最後までわからない、猫を溺れ死なせてしまう書き物で、これまた強火だなと。
少し脱線になりますが、辰井さんが「あなたの遼遠を見せてください」とおっしゃったのは、「これでなくてもいい」ではなく「これでないものが欲しい」だったのではないかと感じました。ご自分の基準には達していたうえで、なお足りない感覚があって、換言するに「自分の基準では満たされない」と、この企画に至ったのではないかな、と愚考する次第です。
具体的な内容に対する感想を述べますと、書き方のさっぱりとした面白さがあってなお、過去の気になる話でした。友人、女性、義父とのいままでに興味を惹いたうえでバッサリ切ってありますから、困惑に終始します。
ただ、主題というべきところでさえ想像を委ねる「読み手に書かせる」姿勢が本当は、裏テーマに対する回答の要旨だったのではないかとも書いていて思いました。加えて、読み手が困惑に終始する話はいけないのかと言われると意地になって「いいや」と言わざるを得ません。改めてありがとうございました。
藤田桜:わーい辰井さんだ! 辰井さんの新作が読める! ときゃっきゃしながらリンクをクリックしましたが、今回の私は評議員です。ですので、なるべく「ここすき」を重ねるだけの存在にならないよう気を付けながら講評を書かせていただきますね。
さて、以前私は、辰井さんの文章は空白が美しいと申し上げた記憶がありますが、本作ではその傾向がいっそう強く見えました。文章だけでなく、小説そのものの空白の美しさまでもが前面に押し出されています。私には、この作品が水墨画的な濃淡で描かれているように思えました。「其実(ルビ:ほんとうは)」の台詞など、中国語を使ったズームの仕方が特徴的です。地の文の漢文的な要素もまた、その他の場所との書き分けを美しく魅せています。
それにしても、周君を見てると省吾さんを思い出しますね。語り手の男の子も、どこか淳くんを思い起こさせるものがあります。辰井さんが二人をこう描いたことにも、この企画に対する本気度の高さを感じました。
また、この小説について語る上で、「僕」と「東洋の現代の開化」とのリンクについて言及することを避けることはできないでしょう。どちらも「和嬰児一様(ルビ:あかんぼうとおなじように)」言葉を覚えていく。そしてまた、それ以外を知らなかった。彼は再び滅びゆく側の記録者となりますが、「私達」は……? 考えさせられるものがあります。
この作品で語られるとおり、小説というものは西洋から輸入された概念です。確かに、「小説はどこまで遠くに行けるか」を考えるとき、誰かがそこに立ち返る必要はあるよなあ、と。「小説」の外にこぼれた欠片を拾うには「小説」の輪郭を知らなければなりませんから。また、「彼女」の言葉は、西洋非西洋の観点から小説を論ずる以外にも、今日の小説を考える上で大きな意義を持つものであると思うんです。「還有別的(ルビ:まだほかにある)」。この言葉をどんな方向性で捉えるかは時代や個人の余地がありますが、我々書き手が永遠に付き合っていくことになりそうな求めではないでしょうか。
第一回遼遠小説大賞において、表テーマにも裏テーマにも「小説はどこまで遠くに行けるか」を選んだ作品は幾つかありましたが、『風』で語られるものは回答として、あまりに誠実で美しいです。辰井さんは姫乃さんに『首吊りいふか』の応援コメント欄で『「こっちにいい匂いの草があるよ」とみんなに手を振るような小説を書きたい』と返信なさっていましたが、この作品は正にそうだなあと、横からにはなりますが私は思いました。文章の密度高めな小説が居並ぶ今企画では、『風』の淡さが却って際立ちますね。
あと、辮髪を切るのを見る話、こういう風に実現されるのだなぁと思いました。「僕は考える。髪すら切らずに死んで行ったお父さん達のことを」。このフレーズによって本編と結び付けられている『幕間』ですが、近代人であるメインキャラ三人の他にもう一つ、恐らくは太平天国の乱辺りの参加者なのでしょうが、「お父さん達」を舞台に上げることによって、『風』は作品の視野が狭くなることを免れています。
更に一つ思うのが、「風」とはいったい何だったのでしょうか、ということです。この小説では「風」が象徴的な扱い方をされます。ⅠとⅢにおいて吹き込んだ風が視えたとき、彼は「結束了(ルビ:おわりだ)」と悟りました。ですがⅡにおいては、風は彼女の部屋に入ってきません。窓を揺らすだけです。彼は、そのまま彼女の房間を去りました。いずれ「僕」は思うのです、「藤棚の向こうの彼女は元気だろうか」。雑な見方をするのなら「風」とは即ち「破局」なのでしょうね。けれど、それ以上のものがあるような気もします。そこらへんは私の実力では読み切れませんでした。でもやっぱり何かあるような気はするんですよね……。
最後に一つ、この小説を読んで感じたのが、辰井さんの文章はやっぱり青だなあと、澄み渡る空のような青だなあということでした。
あきかん:
面倒!!
主催作品なので適当に述べようかと考えていたものの、そんな安易な感想すら許されない迫力が本作にはありました。
しかしながら、選考外。ならば適当に駄弁って良いと勝手に判断しだらだら述べると、そもそも論として今回の裏テーマは言わぬが花、みたいなものを大上段に構える主催者が好きです、たぶん。
そんなわけで「中国文化に疎い私はお呼びでない、失礼いたしました。」といった具合の作品をあえて続けて読むものも、案の定、感想すら浮かばず、あえて言えば難しかった。といった具合なのだけれども、本作品においても辰井圭斗らしさはみられるので、その一点のみで私は満足です。と、本作の作者には伝えたく駄文をしたためました。終わり。
13.狂フラフープ『重さのない瓶にきみを詰めよう』
辰井圭斗:狂フラフープさん、こんにちは! 訳あって、全作品を読んだ後に本作の講評を書いているのですが、「好き」で言えば全作品中一番好きでした。「こんなの書きたいなー」と漠然と思っていたものを、ぐうの音も出ない大人な筆力で書かれてしまったなと思っています。
とにかく1が圧倒的で、美しい。何が好きって、もう文章が好きなんです。私は前回読んでいた狂フラフープさんの作品が『思い出の慰砂魚』だったので、「今回ポップだな」と思っていたんですけど、読み進めていくとなんというか、致命的な打撃を加えてくるポップさでした。文字通り読んでいる途中でその場に突っ伏してしまいました。
初読の印象は1が圧倒的な分、2、3で失速している感じが否めない、あの小説を誰がどう書いたものであるかという謎が、実は普遍的な推進力を持たないのではないか、というものでした。一人の書き手としてクズなことを言うと、(盗作・自作発言がめちゃくちゃ腹が立つということは一方にありながらも)「とびきり良いものが書けてしまったならば、それを誰がどう書いたとか、それが読まれるかとか、それが残るかといったことは全て些末なのではないか」と思っているところがあります。実際のところは、自分で良いなと思うものを書いた直後は「良いんだから読まれろよ」と言って暴れることもありますが、でも根本的にはそう思っています。だから、正直1を読んだ段階で、「もうこれだけ書けていたら、それでいいんじゃないかな」と思ってしまった部分はあります。私の思っていることが、或いは色んな人の感情を踏みつけにするものであることは分かっているのですが。
私はネットで自分の小説が読まれるということに慣れてしまっているのかもしれません、とそこまで考えて、「ああ、ロケットなんだよな」と思いました。地球なんかじゃ足りなかった。もっと遠く。得体の知れない宇宙人に届き、読まれることにどれほど意味があるのかという問いはナンセンスで、もとよりそんな合理でこれをしているのではない。
2回目読んだ時は、初読とは印象が違って失速感を感じませんでした。講評を書く前提で読んだので、より謎解きをしようとしていたのかもしれませんが。私は、彼女に100%共感はできなかったけれど、彼女のことを「分からない」とも言いたくないのだよなと思っています。
「好き」で言えば一番好き。一人の書き手としても滅茶苦茶刺さる作品。ただ、作品の前提が「not for me」。大賞候補にするかどうか、すごく迷った作品でした。
姫乃只紫:はじめまして、狂フラフープさん。姫乃只紫と申します。
思うに──自作を誰にも読まれたくない、その出来不出来にかかわらず、誰も読むことができないほど消え去ってほしいという書き手は少なからずいて(元よりそういう質でなかったとして、ある日突然そういう心境に至ったりもする)、なんなら宇宙人にだって読んでほしくはないくらいなのだけれど、自作を彼方に飛ばしたい、この世界の何処かにいるあなたへとかそういうニュアンスではなくただ遠くへ──という思想には、えらく共感する部分があります。
ただ、このタイプの物書きの面倒臭いところは、自作を見知らぬ何処かへ飛ばしたいという望みと「ぼくらはどこへも行けない」「ぼくらはどこへも届かない」という現実に打ちひしがれていたいという望みが共存しているところで。本当に届かれると困るのですよ。届かないからこそ、行きつく果ては無限なわけで。それは、書き手としての自分を絶対認めないだろう読み手がある日突然「コレいいね」と自作を褒めてくれたときのコレジャナイ感に少しだけ通ずる。多分。
で、作中作どこにも届かなかったロケットは、現実では宇宙に届いてしまっている。ここではない何処かへ行きたいという気持ちと何処へも行きたくないという相反する気持ちは共存し得る、そういう生きづらい一創作者を描いた本作は一見ビターな余韻を残すようで、何となく(たとえ記念館の女性の言葉がなくとも)当時の彼女はそれでも楽しかっただろうなと。信じさせる何かがあります。作中作そのものが眩しかったせいでしょうか。
余談。キャッチコピーの吸引力が凄い。特にTwitterカードで見たときの"映え"が随一でした。
和菓子辞典:狂フラフープ様、今回は『重さのない瓶にきみを詰めよう』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
本企画裏テーマの解釈について、参加作を見ると「距離的な遠さをテーマにする」「奇抜な文体を用いる」「ストーリーの構造を独特な物にする」「なんかやばいものを描く」などが代表的でした。そして本作は、そのすべてを網羅するものである一方、失望と祈りが混じったような物も感じ取れます。(以降ネタバレを大いに含みますのでご注意下さい)
小説をロケットで飛ばすという筋書き、書き口の軽快さ、作中作の構造、「これは僕、私のためのものだ」と多くの人に思わせるような内容でありながら、なぜ「失望と祈り」なんて言葉が出るのかと言いますと、大体二点あります。
一点は、作中作において彼女の小説はどこにも届かず終わったことです。小説によって書き手の伝えたいことを読み手に伝え切ることなんて出来ない、というような閉塞感を与えました。文中の表現を用いるなら「人の心というものは、身体の内側から少しも遠くに行きはしない。」という部分に顕著であったと思います。
現実においてなら彼女の小説ははるか彼方に届きましたが、彼女の内心自体が伝わったことなどなく孤独だったことが、かえって失望の度合いを深めていると思います。
しかしもう一点、これは「祈り」と書いた理由ですが、末文です(流石にそれをここに書くのはちょっと気が引けます)。これによって、総合して本作は、「理想に敗北してその不可能を語る一方、誰よりそれを祈っている悪役」のような印象を持っていました。
本企画を一冊の小説とするならば、それが目指すものの困難さ、現実的な厳しさを語る本作があるからこそ面白くなっていくものだと思います。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:狂フラフープさん、ご参加ありがとうございます。
この小説に私の言葉で講評付けるのは嫌だなぁ……と思うくらいには刺さりました。
なぜかと言うと、言葉遣いが非常に藤田に刺さるものであったからです。「だってぼくらはどこへも行けない」「だってぼくらはどこへも届かない」この二行とその周辺の文章、そして小説最後の一文が物凄くよかった。ちょうど弱点を刺されたような気分です。もちろん、内容自体も非常に刺さりました(内容と文体が相関するのは当然ですから)。「小説はどこまで遠くにいけるか」というお題への回答の仕方はとても切実で、胸を衝くものでした。私、電車の中で読んで泣きそうになりましたからね。
「どこにも行けなかった」という、企画の趣旨に真っ向から立ち向かう作品ではあるんですが、それもまた回答のいずれ到るところの一つではないでしょうか。ですがそれ以上に、この小説は、その回答の描き方が非常に良かったんです。主人公たちが何故小説を遠くに届けようとするか、具体的なところは或るていど言及されずに進んでいくんですが、彼女達のその願いの切実さは、必ず読者に伝わることでしょう。「どこにも行けない」という回答を叩きつける作品群の中に、この小説があってよかったと思うほどには。
第一話だけでも出色の出来だとは思うのですが、それを「2」「3」で包み込み、第一話の綴り手に纏わる物語を展開していきます。非常に王道の「『認知』を活かした『複雑な筋』の小説」だと思いました。『大いなるものに捧ぐ』を以前拝読したことがあるのですが、やはり狂フラフープさんはこのような、複雑な筋を組み立てる力が非常に高い方であると感じます。ここまでのことが出来る人は世の中でも多くはないんじゃないでしょうか。
「小説はどこまで遠くにいけるか」という裏テーマに対して、文学的挑戦としての形より表テーマ的な形での回答をなした作品でしたが、問いへの回答としての切実さ、短編小説としてのずば抜けたクオリティを考えると、大賞に選ばれても全くおかしくはないと思いました。素敵な作品をありがとうございます。
あきかん:
この企画の評議員になったとき、1つだけ決めていた事があります。
物理的に小説を飛ばす小説を出されたらどんな小説でもその中から大賞に推す、と。
今作はまさに小説を物理的に飛ばした小説です。これだけで推せる。
小説遠投選手権、第一選手。記録。地球外まで。ただし、地球の重力圏は振り切れず。
14.ミナミヌマエビ『報告-03.85.38042』
辰井圭斗:ミナミヌマエビさん、こんにちは! 何者かによって文字通り重層的に描かれた絵画を解読していくという体裁で進んでいく小説。すごいこと考えるなと初読で思いました。どんな絵かを描写することで、サーシャとユキオの人生を描いていくわけですけど、まずその発想がすごいし、二回目読んで思ったのは、よくこの描写方法で停滞させなかったなということでした。絵画を描写していくという性質上、書ける領域は絞られてくる。音声までも描いているという飛び道具的設定はあるものの、限られた領域で書いているという苦労を感じさせなかった。そのことをまずは賞賛したいと思います。
私はこの作品をピックアップした時、ヘンリー・ダーガーの話を持ち出しました。ご存知の方は多いかと思いますが、彼はシカゴの病院掃除夫で、死後彼が誰にも見せずに書(描)いていたであろう1万5000ページの作品が発見され、今日ではアウトサイダーアートの巨匠とされています。誰にも見せなくても人間1万5000ページ書けるんだというか、小説を書くってなんだろうと考えさせる例ではあります。今回何者かが描いた重層的な普通の方法では鑑賞不可能な絵画の話だったので、連想した次第です。多分、見られなくったって、よかったんですよね。こんな裏テーマの賞なので、誰かヘンリー・ダーガー来るかなと思っていましたが、(ミナミヌマエビさんが意識していたかはともかく)こういうかたちで来るかと思いました。
途中印象的なのは、サーシャに気持ちを気付かれたユキオが、二人でダイニングで何かを飲んだ後、恐らくはサーシャに手を引かれてどこか別の部屋に向かうところです。そこからの二人の関係性は直接語られることはなく、想像するしかないのですけど、少女性と艶やかさの両立したドキドキする場面でした。
終盤の視点人物たる《《私》》が表面に浮かび上がるのもスリリングでしたし、最後件の絵画は忽然と姿を消すわけですが、その超常的な現象によって、ユキオの手というのはサーシャの幻覚ではなかったのではないか、二人はユキオの死後も本当に一緒にいたのではないかと感じるラストになっていました。
私はひとの小説に対してこの言葉をめったに使わないのですが、素敵な作品でした。
姫乃只紫:はじめまして、ミナミヌマエビさん。姫乃只紫と申します。
後半、報告書の作成者が我々人類より高次の存在であると明かされた後、サーシャとユキオもまた"我々人類"ではない可能性が示唆される──報告書形式で二人の人生を、それも絵画を通じて読み解いてゆくという構造が、大変挑戦的な作品です。まず、これほどの制限を自らに課した一作を書き遂げる筆力と胆力に舌を巻きます。
報告書の作成者は勿論、サーシャとユキオもまた私たち人類とは少し異なるかもしれないという可能性を踏まえると、「ここにひとつの絵画がある。油絵だ。」というすんなり受け入れられていた書き出しもそもそもここで"私"の記す油絵とは本当に私たちの知るあの「油絵」なのか、あの「19世紀アメリカ」なのか、この高次存在は生命体の無意識的な領域にアクセスできて、それを「絵画」と呼称しているだけではないのか、すなわち、二人の生涯を追った数百枚の絵画など(少なくとも我々人類のよく知る形では)存在しなかったのではないかという読みもできて面白かったです(もしかすると、書き手の本意からはやや遠ざかるのかもしれませんが)。
余談。私自身誰にも見せるつもりがない作品を書き続けていた時期はありましたが、では3次元生命体に読解不可の術が手元にあったとして、はたしてそれを自作に採用するかと云われると思わずうーむと唸ってしまいました。そういう、何だか面倒くさい層にも多分に刺さる作品でした。
和菓子辞典:ミナミヌマエビ様、今回は『報告-03.85.38042』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
僕としては「かなり真正面から来てくれたな」という印象です。作中の人(?)にとってもこの絵画の表現は未知であり、読む僕にとっても画法で仄めかす描写方法は初めてのものでした。
他の参加作品の講評に「読む人の苦難や求めが特殊であれば、そのために形作られる物語の構造も変わる」ということを書いたのですが、本作の場合それを生物としての違いで含めてきたな、という感想を抱きました。
具体的な内容については、アルフォンス・デーケンが言うところの「悲嘆のプロセス」、喪失からユーモアの再発見・新たなアイデンティティの誕生に至るまでの道のりを、前提から末尾まで豊かに描いたものであったと思います。その描写方法が先ほどのようであったので、読み方もいつもとはまた違って、おかげで決して「聞き慣れた表現であるばかりに共感する頭が働かず流してしまう」ということが起こらなかったのも素晴らしいところでした。気持ちとしては鉄拳さんの『振り子』と同じ感覚でした。
「悲嘆のプロセス」というような、学術的で若干無機質な言い方をするのは、負け惜しみというか、これを書いたかもしれない高次存在にとってあの絵が「手慰み」だと言うからです。ひとつの人生を掌握するのにそれほど手間のいらないような存在がいて、つまり僕たち人間の一生が「それ」からしたら記号的・無機質・小規模であるというのは、なんだかこう、悔しい。それで張り合ってしまったというところです。
どうあれ本作は、人を感動させるための優れたやり方として、かなり新しいものを出してくれたと思います。高次存在ほどでないにせよ、僕も様々な描写に慣れて感動が薄まってしまっているわけで、そういう部分にいいパンチが入りました。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:ミナミヌマエビさん、ご参加ありがとうございます。
モンタージュ、言い換えればシーンの切り貼りが印象的でした。途中、口の動きから音素を推測させるという荒業は用いられていますが、基本無声映画的な動きで物語は進んでいきます。それだけでも十分ユニークで面白いと思うのですが、この作品にはもう少し、仕掛けがあります。
それは、別の、そして更に別の存在によって、サーシャとユキオを描いた絵が鑑賞される、というものです。一気に視点が遠ざかるわけですね。なぜか(ネタバレ)はなくなってしまっているし、最終的に絵画は(ネタバレ)てしまっている。そういう種明かし的な側面も含めて、とても理知的な作品だな、と思いました。
作品全体を見た時、やろうとなさっている文学的挑戦を押し通すために無理をなさっている感じは多少見えるんですが、それでも十分に面白かったです。額縁にストーリーの前半を収める以上、音などその他の要素は多少強引な表し方になってしまいますし、視点と言うのもどうしても演劇的な形で固定されてしまう。ですが、それらはあくまで「伸びしろ」という感じを受けました。別の言い方をすれば、僅かに気になりはするけれど、この作品の価値を損なうほどではないな、と。
読んでて楽しかったです。素敵な作品をありがとうございました。
あきかん:
80/100 合計点
内訳
20/20 文章
10/20 構成
20/20 テーマ
30/40 面白さ
総評
個人的な趣味趣向なのですが、サスペンスは好きですがミステリーは好きではないのです。伏線が見事に回収されたことに対してさほどカタルシスを感じない人種です。
今作品も最後のオチで重要な設定が語られるのですが、私としては最初に提示していただいた方が好みだったかな、とも考えました。
この作品のオチは、時間の経過を読者に意識させたほうがより感動出来るものになったのではないかと思うのです。長い時間が経過して“作品”の本来の姿が伝わった、という点を強く主張した方が好きです。オチに設定を持ってくる作品はどうも好きになれない、というだけなのですが。
15.柴田 恭太朗『文学コラージュ・衝突する文豪たち』
辰井圭斗:柴田さん、こんにちは! 手間のかかる作品だっただろうなと思います。まずは柴田さんの奮闘のあとに拍手を送らざるを得ません。その上で、なのですが、「めっちゃくちゃ目が滑る」。いや、だって文章全体として成り立ちそうで成り立ってないんだもん。もう、めっちゃ目が滑る。
似たようなことは私もやったことがあります。その時は和歌の上の句と下の句をかき集めてきて、恋文を作ったんですけど。言うなれば、文豪の文章とかそういう「強い」ものと「強い」ものを掛け合わせると「もっと強い」んじゃないかみたいなことは割と考えるのですが、結構難しい。少なくともちょっと思い描いていたようなかたちでは実現しない。
その上で、私は柴田さんに「おやめになった方が」というつもりは全く無いのです。逆です。「なぜもっとやらないのですか」
私は同一人物の別作品の掛け合わせという、繋がりそうで繋がらなさそうなものより、文豪ごっちゃまぜ、文体ごっちゃまぜで、全然繋がっていないように見えるけど、よくよく読むと繋がっているようなものが読みたかった。文体、違っててもいいじゃないですか。どうせ同一人物だろうが別作品だったら完全に一致はしないですよ。もっと踏み込んで修羅の道に行って欲しかったなという感想です。
でも、よくこれだけの分量でおやりになったなとも思います。あとタイトル好き。拍手。
姫乃只紫:はじめまして、柴田 恭太郎さん。姫乃只紫と申します。
講評を書く側の講評力を試してくるタイプのエキセントリックな作品をありがとうございます。
個人的にユニークだと感じたのは「形態素解析して、文豪自身のボキャブラリから私が選択して置換した」という執筆過程が読めば何となくわかってしまうということで。
──いや、こればっかりは御作の紹介文に目を通してから本文を読んでいるわけですから、当たり前と云えば当たり前なのですが。要するに、形態素解析という手段をピンポイントで当てることはできずとも何かしら特異な工程(この場合は特に他者の言葉を借りたという点)で生み出された作品だということは案外わかってしまうものだなぁと。
たとえば小説に限らず、歌の歌詞なんぞでもそれこそ形態素解析して誰かしらの言葉を選択・置換したような複雑怪奇なものはままありますが、それでもそれらはそう見えているだけで実際は作り手の心象風景がベースにあるのだろうなぁとか、この詞には血が通っているみたいな気配が何となく読めてしまうわけです。
一方で御作の場合は、特異な工程から生まれた"風"ではなく事実特異な工程のもと生まれた作品であることが容易にわかってしまったので(無論先に触れたように紹介文は先に読んでいるので、後出しジャンケン感は否めませんが)。これを察してしまう理由は何なのだろう、オリジナルだからこそ出せる文章のリズムやらが原因なのかしらんなどと色々想像を巡らせてしまった次第。
そういう意味で非常に興味深い作品ではあるのですが、惜しむらくは興味深いただそれきりに尽きるという点。講評の書き手が読書家であれば、もう少し別な面白味を見出すことができたかもしれません。
和菓子辞典:柴田 恭太朗様、今回は『文学コラージュ・衝突する文豪たち』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
まあなんというか、えらいものが来たなという印象でした。確かに新しいものを生み出そうとするアプローチとしてかなり強力です。ただ、まあ、もう、とにかく実験的でした。素直になると、かなり読みにくかったです。しかしなんと純粋な挑戦だろうかと仰天しました。
というわけで、本作は「プロト1」だと思います。新しい挑戦というのはどうしても奇天烈で素っ頓狂な始まりかたをするもので、それが何やらむくむくと育っていくものだと思います。フレーム問題のように、初期設定だとバッテリーと一緒に爆弾を持ってきて、副次的な事項も考慮するようにすれば今度は壁の色を気にし出す、そんな奇妙さを経てしかし、最終的には何か出来るかも知れません。ですから、ここから何が起こるのかとても楽しみです。
と、ここまで書いてから本作のページを開き直したのですが、タイトルがEins/Zweiとまさしく何かの実験で、やっぱりもっとやって欲しいなと思います。こういう実験ってやっぱりサンプル数10000とかまで作るものなんでしょうか。是非やって欲しいです。
柴田様のこれからの挑戦がとても楽しみです。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:柴田恭太郎さん、ご参加ありがとうございます。
あたおか(褒め言葉)というよりは「あたおかになり切れなかった」という感じを受けました。夢野久作とかは語りがごっちゃごちゃになってて面白かったですし、最後に長めの文章でカフカを持ってくるのにはセンスを感じました。ですが、幾つも撃った弾の一つ二つが命中した、という域を出ないように思います。あとやっぱり私も、同一作家や同一作品でコラージュをやったのは余り映えないなあ、と思いました。同じ色の紙を切り貼りしたって、余程工夫をこらさない限り綺麗な模様は生まれませんから。
作者様の言語センスが優れているためか、時々「おおっ、これは」と思うようなフレーズがあったりはするんですが、素材の制約上、時々に留まってしまいます。これなら普通に散文詩を書いた方が早いでしょう。
また、コラージュの素材が潤沢過ぎるのも、この作品を常識的なレベルに留める一因になってしまったかなと思います。無茶なことを言いますが、「あたまおかしい」を名乗るなら、羅生門と蜘蛛の糸のコラージュで二万字めいいっぱい使い切るくらいの狂気は見せて欲しかった、というのが私の感想です。
タグに「やってみたかったからやった」とありますが、今度もし同じことをなさるときがあれば「どこに辿り着きたくてそれをやりたいと思ったのか」ということを意識されてみてもいいのではないかと存じます。
あきかん:
90/100 合計点
内訳
20/20 文章
10/20 構成
20/20 テーマ
40/40 面白さ
総評
紹介文を読んで面白い挑戦だな、と思ったのが第一印象。そして、紹介された小説は片手で数えられる程度しか読んでいないな、とも。
最初から焦りました。方丈記×方丈記ってどういう事なんや。同じでは??調べた所によると随筆らしいので、別の偏と偏をコラージュ?したのかもしれないのだけれども、全く判別つかず。方丈記の内容とか知らんよ、私は。と、言っておきたい。
今作が小説かは置いておくとして、ポストモダンの系譜なのかもな、とも考えました。日本で一番有名なポストモダン小説は『なんとなくクリスタル』でしょう。その特徴は近代文学の否定。Wikipediaを参照するのならば、物語の矛盾を肯定的に含んだり(むしろ物語は常に矛盾を含むものである、といった姿勢)、時間軸の無秩序性、衒学性、蕩尽性、記号性、全面的破壊、模倣、大きな物語の終焉、普遍性への懐疑、自己の解体等々である。と書かれています。
奇しくも今作からは、ポストモダン的な面が非常に強く感じ取れました。近代文学の古典と言って良い作品群でポストモダン的な試みを行うこの気持ちよさ。文学的挑戦に相応しいのではないかと思いました。
16.藤泉都理『どこまでも』
辰井圭斗:藤泉さん、こんにちは! カッコよかったです。文章の美意識が隅々にまで行き届いているのを感じました。私は烏天狗の人間に対する表には出さない高火力の感情に興味があるんですけど、そのあたりはこの作品の余白なんですよね。
初読でこれ講評書くの難しいなと思って、なんでかなと考えながら二回目を読んだんですけど、大きな余白に文章や設定を放る感じ、それでいて放ったそれらがびしりと決まる、固定される感じが、本作を語りづらくしていたのかなと思いました。もちろん悪いことではないのですが。
「小説はどこまで遠くに行けるか」に対する本作のアプローチがそれであったかは確証が持てませんが、書かないことによって広がりを持たせるというのは、一つのやり方かなと思います。ともすれば説明不足とも捉えられかねないこの手法を、そう感じさせずに成り立たせているのは構成力の高さだと思いました。
あきかんさんがブリーチの話をしていますが、私も別の芸術を想起しました。例えば描き込んでいないところも含めて構図として成立する屏風絵のようなイメージ。文章自体計算された余白のもとに構成されているんですけど、物語も仄めかされるくらいで八割方語られない。でもそれで作品全体としては決まっている。
本作の表面的な物語には趣味の問題で入れる人と入れない人がいるとは思いますが、手法はとても面白かったです。
姫乃只紫:はじめまして、藤泉都理様。姫乃只紫と申します。
私事ですが、愛着をもって誰かを喰うはあっても憎悪をもって誰かを喰うがテーマとして扱われるケースって案外少ないよなと感じていた矢先だったので、タイムリーな出逢いにちょっと笑ってしまいました。
さて、復讐心から敵を喰らう──所謂族外食人が取り上げられている手前、血で血を洗う攻防が繰り広げられているのかと云えば、別段そんなこともなく。烏天狗は人魚に喰われて(「霧と化した烏天狗の一部が身の内に落ちてゆく」をここでは”喰われた”とする)もすぐさま元通りですし、烏天狗の毒に侵された人魚もまた薬草で元通りになります。
ならば、緊張感に欠けるのかと云われればそんなこともありません。何分「人間と妖怪が一緒に森を創る」世界観なので、喰われたらそこで命はお終いという当たり前がそもそも通用しない、地球上の生き物基準の浅い緊張感など、端からお呼びでないシステムなのです。
人間と同じような背格好で、同じような言葉を喋る妖怪は数多の創作に登場しますが、案外人外感乏しいというか、コイツにわざわざ妖怪という設定当てはめた意味なんなん? と首を捻ってしまうケースがざらにあるので。こうした点にその意味を覗かせてくれるのは、元妖怪クラスタとして嬉しい限りです。
他作品の多くが果てしなく続く直線的な「遠さ」を彷彿とさせる中、終わりのない円環状の「遠さ」を想起させる良き作品でした。
和菓子辞典:藤泉都理様、今回は『どこまでも』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
本作からは、筋書きであることを拒んでいる感じがしました。どこまでも、順当な流れになってしまうことに抗っていて、人魚と共に鳥天狗を倒してしまうのかと思いきやそうではなかったり、それで人間は鳥天狗の方に行くのかと思ったら旅が始まる。波の生じかた・変節が普通でなくて困惑する要素でもあったのですが、反骨心の結果であり、かつ背景の複雑さを匂わせるものになっていたと思います。
本企画参加作品で、裏テーマを距離的な意味で捉える作品は多くあり、しかしそれをあくまで一要素として、別の何かも足してくる傾向が見られます。本作もそのような風であったと考えています。テーマを多義的に用いるのは才気のあらわれるところなのだろうと、それぞれ読ませていただくごとに感じています。
全体を読んで「話として理解できた」と思える部分は少ないのですが、何か始まることとその先で多くわかっていくことがはっきり感じられ、出来ればあと30万字くらい書いて欲しい作品でした(多分それをやると本企画趣旨から外れる)。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:藤泉都理さん、ご参加ありがとうございます。
初め、文体から草野心平を思い出しました。見た目としては非常に自由詩に近く、フレーズを句点「。」によって分割することで深く踏み込むような休止を与えています。また、言葉遣いそのものも、断定的な力強さが頻繁に見られます。それが語り手の意地っ張りな性格と噛み合っていて、魅力的ですね。
少し気になったことがあるとすれば、最後の「いえいえ、そうですよね」が唐突な感があったところです。それまで人魚は、人間の踊りに心奪われながらも、あくまで言葉は冷たくしようと試みています。一度めざめてから、最後の答えに至るまでの描写がワンクッションあったほうが、良かったのではないかなと感じました。というのも「そうですよね」というのは、読者に直接問い掛けて同意を求める、非常に対話的な言葉ですから。なので、ここはもう少し、読者が追い付けるような書き方をしてほしかったなぁ、と思うところです。
恐らくこれは、終盤を人間と烏天狗の祖先から続く繋がりについての会話に割き過ぎたのが原因ではないかと思います。五千字ほどの極めて短い文量の中で「人魚の物語」と「人間と烏天狗の物語」を同時に扱うには、スケールが大きすぎたのではないでしょうか。
とはいえ、本作は物事の描き方が魅力的で、創作において何度も擦られてきた人外と「喰う」という行為の組合せさえ鮮やかに見えました。また、舞踊によるトランス状態を「喰う」という行為にリンクさせているのも凄かったです。
素敵な作品をありがとうございます。
あきかん:
90/100 合計点
内訳
20/20 文章
20/20 構成
10/20 テーマ
40/40 面白さ
総評
文章がかっこいいな。というのが第一印象。ブリーチを読んで育った私にはクリティカルに刺さる文章でやられました。
「喰われたのかと思った。あんたの瞳に」
なんて台詞は、自分の中からはどこをひっくり返そうと出てきそうにありません。
文章が刺さりすぎて冷静に読めた気は一切しないですが、この際どうでも良いです。かっこいいは正義。投稿ありがとうございました。
17.ラーさん『あのラカンパネラは遼遠に』
辰井圭斗:ラーさん、こんにちは! もう、「第2話 遠い背中」が大好きで大好きで、ニコニコしながら読んでしまったのはピックアップで申し上げた通りなのですが、もちろん「第1話 春の鐘」も感性と技術で物凄いことをやっていて、改めて圧倒されました。遠い背中を追いかけ、永遠に届かなくなってしまう話ですけど、それだけでなく文学的挑戦としても優れた作品でした。
読む前にピアノものだと知った時には大丈夫かなと思っていました。今は『蜜蜂と遠雷』の後の日本なわけで、どうしても比べられるというか、難しいことに挑戦するなと思いました。でも、第2話まではそれを杞憂と笑うような圧倒的な文章表現を見せてくださって、特に第2話の最後の夕暮れの景色は力強く大変印象的でした。
第2話までは。ここからは好みの問題になってしまうのではないか、講評として不十分なのではないかと恐れながら書きますが、春馬が届かない背中であり、作中の展開によって彼の背中は永遠に届かなくなってしまう、けれど最後彼も冬実と一緒に泣いてしまうんですよね。それは彼らしくはあるけれど、〝こちらに降りてきてしまった〟感があるというか、圧倒的な天才に対する嫉妬の物語として半端な方向に進んでいないかなとも思うのです。加えて、冬美の演奏は彼女らしさのある演奏ではありますが、設定上も文章的にも春馬の演奏や二人の連弾からは見劣りする。小説全体として後半はトーンダウンしているように見えました。文章の終え方は変えなければいけませんし、加筆も必要になるかと思いますが、この話が第2話までで終わっていたならば、推していたんだけどなというのが正直なところです。
しかし、お噂に違わずというか、見たことのない景色を見せて頂きました。十分な「遠さ」を持った作品だと私は思います。
姫乃只紫:はじめまして、ラーさん。姫乃只紫と申します。
無駄な捻りのない、されど情熱には溢れている企画参加作品の鑑とでも云うべき作品。持つ者と持たざる者を巡る物語としてはあくまで王道を貫きつつ、紹介文に「実在の曲を文字で表現することに挑戦しました。」とある通り、何よりこの"挑戦"を見てくれと。この苦心を見てくれと。文学的挑戦の鮮烈さがぼやける恐れのある雑味を極力排した、それゆえに書き手の注ぎ込んだ熱量が浮き彫りになったかのような作品です。たとえるなら、筋トレによって盛り上がった筋肉ではなく、贅肉を落とすことで現れた筋肉の美といった感じでしょうか。別にたとえなくても良かったですね。
読み終えて望月冬実の性別を(何故か)男性に変換して再読した折、物語の展開と云うかふたりの関係性を描いた表現にほぼほぼ違和感がないことに気づき、「コレ、男女に設定した意味は何だったのだろう?」とつかの間思ったのですが、よくよく考えると件の作品において性差を垣間見せる表現それはそれで雑味だなぁとも判断致しまして。やはり御作の勢いは寄り道のない"挑戦"にこそあるのだと思った次第です。
それでは、良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:ラーさん様、今回は『あのラカンパネラは遼遠に』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
音楽を題材にした小説では、直接的に音を表現できないため、それが想起させるものを描写することで間接的に描く方法がよく見られますが、1話序盤のそれはまさに才能の表現として素晴らしいものでした。そこから強く緩急のある「憎らしい」まで含めて一曲になっていたように感じます。同じく演奏のあった2話、4話について、そちらはどちらかというと音楽が心情表現の媒介のようでしたが、それは主人公視点になるからでありそれを表現せねばならないからで、バランスのよい書き方であったと思います。
そして具体的な内容に触れますが、本企画趣旨について「どこまで遠くに行けるか挑戦したものを出す」というより「遠くに行こうとする人をテーマに書く」という風であったと分析しました。我々書き手もそうだと思いますが、何かいいものを書こうというとき実は具体的な誰かの作品を想像していることがよくあって、そう見れば本作はとても「書き手のための作品」でした。
これは決して挑戦を避けているというのではなく、この挑戦の場に必要な栄養をもたらす優しさであったと考えます。講評を書く僕としても、ちょっと目線を離せるというか、冷静な心持ちになれました。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:ラーさんさん、ご参加ありがとうございます。
巨人の一撃、という印象を受けました。そのくらいクオリティの高い作品です。第1話の怒涛のように重ねられる語修飾、きらびやかな修辞、いっそ流麗な文体……。比喩で埋め尽くされた様は壮観と言えます。そして続く第2話は前話末の一フレーズ「──ああ、憎らしい──」を受けるような文体で続けられていき、一転、簡潔なリズムで第3話の衝撃が訪れれば、第4話、第1話を思わせる絢爛な演奏から、ただただ、一つ一つ絞り出すかのような声で「悔しい」と重ねられていく。初読時はもう「ほえー」となるばかりでした。
「小説はどこまで遠くに行けるか」というテーマに対して「私の筆力で捻じ伏せられるところまでだよ!」と真っ直ぐに叫ぶような、そんな強さを感じます。
ただ描写のための描写というべきでしょうか。それがよかったです。大抵、小説は絢爛な描写と説明を兼ねようとすると「分かりにくさ」が先に来るんですが、ラーさんさんの小説ではただ描写の美しさだけに徹し、余計な説明が入っていなかった。それがとても良かったです。あと文章が読みやすかったのもあります。あそこまで構文が複雑だと、普通リズムが崩れてしまうと思うんですが、それがなかった。
そんな華やかな演奏シーンと、望月冬実さんの独白の彼女の性格を表すかのような訥々とした様、その対比がとても素晴らしかったです。まるで日向春馬さんと望月冬実さんのそれぞれを表しているかのように思えて……。最後のシーンとか特に好きです。
なさっていること自体は極めて捻りのないシンプルなものだとは思うんですが「それを実現する力」に関しては群を抜いているなあ、と。ある意味では本企画中「最も遠くに届いた小説」と言えるのではないでしょうか。
素敵な作品をありがとうございました。
あきかん:
100/100 合計点
内訳
20/20 文章
20/20 構成
20/20 テーマ
40/40 面白さ
総評
小説が上手い人が書く小説は上手い。とトートロジーじみた感想しか浮かばないのですが、それが嘘偽らざる感想であることは確かです。
企画に投稿頂いた作品の多くは、表現との距離間みたいなものを意識した物が多いと感じていますが、今作はその距離間が独特で趣き深いと感じました。
在りし日の思い出。取り返すことが叶わないあの表現に対する思い。自己とかつて自らが生み出した表現との断絶を描いていて、読み終えた後に、確かに遼遠だと感じさせる作品でした。
18.すらかき飄乎『クヮヰド』
辰井圭斗:すらかきさん、こんにちは! 美しかったです。こういう文章大好き。大賞に推薦するかと言われたら、レベルが足りないとかではなく、そういう作品ではないと感じていますが、「いいから読んでみてほしい」でいくと一番だなと思いました。私は時々すらかきさんに私の作品を読んで頂いているのは知っていながら、すらかきさんの作品をちゃんと読んだことが無かったのですが、今回「こんな作品を書く方に読んでもらえていたんだな」と思いました。気のせいだったら恐縮ですが、「時代遡って異世界ものやるんだったらこうやるんだよ!」という叱咤のように感じました。徹底した作品だったと思います。
作品単体で見た時の難解さは本企画中トップクラスでしたが、リーダーフレンドリーな部分は随所にあり、ごく表面的なことを言えば、ルビが丁度いい。実際に合わせる合わせないはともかくとして、すらかきさんは読者がどこまで分かるかということを知っている書き手なのだと思います。
どうしても文章とか世界観に目が行きがちですが、〝停滞させない〟作品でもあると感じました。文章が古めかしく荘重になればなるほど、現代の読み手にとっては作品に停滞を感じかねないのですけど、この作品は所々で文章の変調が起こることもあり、風通しの良さを感じました。ストーリーは普段私が慣れ親しんでいるかたちでは無いようなものですが、そもそもそのレイヤーのストーリー云々を言うような作品ではないと思っています。
「小説はどこまで遠くに行けるか」という企画に、全然他とは立ち位置の異なる作品をぶつけてくださったことに感謝します。あとキャプションのコピーすごく好き。素晴らしかったです。
姫乃只紫:はじめまして、すらかき飄乎さん。姫乃只紫と申します。
読書体験としては間違いなく新しい寄りのそれを提供してくる一方、かつて自分が創作したかった"突き抜けたもの"の一端にこれはなかったかという疑問を思い起こさせる、不思議な一作。云うまでもなく、御作はデジタルデバイスから入力したテキストによって構成されているのですが、さも石碑に一文字一文字を刻んだかのような、そう易々とは書き換えられない念めいたものを感じました。
特に面白かったのはマメなルビ振りで。ここには読者への気遣いというより、誤った読み方をされることで自身の伝えたいことが正確に伝わらない事態だけは避けたいという書き手としての熱量を感じました。
一見ひたすらに我が道をゆくようで、ああこの文字が自分の意図した通りに読まれないことで損なわれてしまう何かがあるのだとこの人は信じているのだと。そういう清らかな、祈りにも似たものを見た手前、御作を今以上掘り下げ切れぬことを不甲斐なく思うております。
和菓子辞典:すらかき飄乎様、今回は『クゥヰド』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
多分これが6000字なの嘘なんですが、とりあえず読んで思ったことは「古代日本ってほとんど異世界だぁ」でした。書き手が共感しやすいのは既存の枠組みを借りる世界観、しかし別世界に連れて行ってくれるのは「オリジナルな」世界観であると思っているのですが、既存であっても知らないものを題材にすれば実質的にオリジナル、別世界になるのだと感嘆しました。これは当然と言えば当然で、多くの作品がやることではありますが、それでもやはり知力は正義だなと思います。
そこで、このひと基礎から違うぞ、と身構えました。正直、講評を書く側としては恐怖です。本企画趣旨に対して、「誰も見たことのないようなものなんていくらでも書けんだよ」と力でぶつかって来られた感覚です。勿論相当の苦心があって作られたものであると思いますが、そういう過程を経れば自分は確実に書けるぞ、という自信を感じました。
そして出て来たものが、ほとんど古事記とか神話とかの雰囲気をまとっていて、そのうえなにやら途中途中横文字が入ってくるので未来を思わせたり、簡単にはついていけません。
難しさで一杯一杯になってしまい、筋書きが伝わりにくいことが難点であったと書こうと思っていたのですが、そもそも筋書きが重要ではないものだったと思います。それでいてこれもまた企画趣旨への回答として、「筋書きにこだわったらそりゃ、行き着く形は序破急とかに硬直するよ」「世界観ならいくらでもオリジナルになれる」と力で殴られた感覚です。
強い人は違うなと、一言感想で締めさせていただきます。参りました。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:すらかき飄乎さん、ご参加ありがとうございます。
インド的なモチーフを含む世界観が、荘重な倭文体で語られていく。そして時おり洋楽に纏わる連が挿入される。いちいち呪文の全文をお書きになっていることなど、そうしたくてそうなさっているんだろうなぁ、と思うと同時に、あの作品世界を作るにはここまでやる必要があったんだろうなぁ、とも思うのです。ああいう風な儀式によって辿り着くものって、一種のトランス状態なんですよね。この小説はその手順を一つ一つ忠実に辿るかのように描かれています。この作品で行われていることは、本来小説が果たすべき役割と言うよりかは、どちらかと言うと詩や祈祷文の担うべき領域であるでしょう。ですが本作では、小説のまま小説としてそれを行っている。文学の原初に立ち返って、その富をもぎ取って来るかのような作品でした。
またそうやって作り上げた世界に現代的なフレーズを挟んでいく。ボブ・ディランがどうこうだけではなく「自らの身を処さねば如何?」から始まる四行のような口語表現も、この作品の中では却って目立ちます。読者から、作品を遠ざけて、近づけての揺らしが恐らくかなり意図的に行われているんですよね。非常にユニークでした。
また印象に残った点が、文章の結構な比率が世界観の構築に割かれていることです。多分、作者様が「それで十分読者を魅せることができる」と判断されたからでしょう。他にも、この作品が物語としての性質を余り持たないことが却って「慣習に縛られ続ける人達」の姿を際立たせていて、よかったです。
思い切りのよい小説をありがとうございました。
あきかん:
70/100 合計点
内訳
20/20 文章
20/20 構成
20/20 テーマ
10/40 面白さ
総評
難解。たぶん投稿頂いた作品の中で最も読み難い何かを含んでいる作品でした。
この難解さこそ今作の面白さでもあり、ボブ・ディランぐらいは流石に知っていますが、それ以外は正誤あるいは嘘か真かフィクションか。その判断がつかず、なかなかと頭を悩ませる作品です。時代に逆行した高負荷を読者に与える今作の特色は、曲物揃いのこの企画にあっても目立つものでした。
19.佐倉島こみかん『蚕は空に羽ばたけない』
辰井圭斗:こみかんさん、こんにちは! 最初は母から娘への呪縛の物語だなと思いながら読みましたが、二回目読むと見えにくいけれど自分自身への呪縛の物語でもあるなと思いました。本作のラストに関して戸惑いの声も見かけましたが、私はああなるよねと思っています。一回目に読んでいる途中で、多分何かすっきりとした終わりにはならないんだろうな、それができるくらいならこうはなっていないんだろうなという気がしました。
良いところを挙げるとキリがないというか、のっけから文章がうまくて、多分こみかんさんの作品を読んだことが無くても実力のある書き手だということは分かりますし、吉乃ちゃんに数学を教えてもらうというそれ自体は良いことが後々真由美を追い詰める方に働くところや二回出てくる天降川の使い方に息を呑みました。
お母さんとのエピソードの作り方も丁寧で、育ってきた蚕をますます可愛いと丹念に世話をするという、本来ポジティブなはずの行為にぞっとする部分があるのは、それまでの積み上げがあってこそだと思います。
ただ、これは冒頭で書いたように単なる母から娘への呪縛の物語ではないと思います。まゆは〝私は蚕じゃない〟と思いながらも自分を蚕に重ねてしまうところがあるのですが、第三者から見ていると行き過ぎなんです。蚕とまゆでは無力さが違う、真由美の方には実際彼女がそれを取るかはともかく見えている選択肢があるし、成長していった先が決まっているわけではない。自分を蚕に重ねるのは悲観的でもあるし、彼女を包む繭は実のところお母さんだけでなく彼女自身が作っているものでもあります。でも、それを心の中では認識しているのかしていないのか、第三者から見ればやりようのあることを、どうしてもできない、自分で制限をかけてしまって身動きがとれない、加えてその時に問題として心の表面に上がって来るのは、自分自身ではなく他者との関係性であるということが、若い頃というか精神的に余裕がない頃の心のあり方としてとてもリアルでした。
全体としてまとまりのある完成度の高い作品でした。
姫乃只紫:こんにちは、佐倉島こみかんさん。姫乃只紫です。
何より思春期と蚕を重ねる着眼点が秀逸。思うに、時期を問わず人は皆「蚕」なのではないかと。思春期という多感な時期におおよその本質が形成され、それを蛹で包み隠した姿こそ「大人」であると。すなわち、人の本質はいつまで経っても蚕のように脆弱で、メンタルの強い・弱いと云うのは、そのか弱い身を保護する蛹の出来を指すのではないかと。
それなりに年を食った今、寂しいかな「自分は未だ本気じゃないから」という意味合いではなく、ただただ自身の実状を客観視して「これを"羽化"とは呼べんだろう」と、日々大人をやりながら痛感している次第にござい。
第3話を読んだ時点で、所謂「毒親」を題材に含む話なのかなとも思ったのですが──読み返す限り、断固毒親認定できるほど子どもから決定権を奪っているとも云い難く、この辺りの「誰かに色々ぶつけたいのだけれど、特別誰かがメチャクチャ悪いわけでもないので、結局誰にもぶつけられないでいる」感覚を読者に味合わせるバランスが素晴らしかったです(母親に明らかな非があると「これは親が悪いな」と大体コイツのせい認定ができてしまうので、読者はある種スッキリする部分がある)。
読者と云う冷静な視点で見ると、父親の言葉を好意的に捉えられないあたりに「あー、羽ばたけない理由を探してしまっているなーこの娘」とか思ってしまうのですが、我が身に置き換えると「いや、云うて自分も羽ばたけない理由求めている瞬間ってままあるよな」などと考えてしまい、独りあわあわしております。良い意味でこたえる作品をありがとうございました。
和菓子辞典:佐倉島こみかん様、今回は『蚕は空に羽ばたけない』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
これは高校生の書き物だなと感じさせるシーン選びというか、模試とか帰宅の熱さとかを切り取って書く辺りにそれを感じた一方で、佐倉島さんがそうであるかどうかわからないので困惑しました。高校生にこんなものを書かれたらおじさんは困るのですが、それ以上の方にこれほど鮮明なものを書かれても困ってしまいます。強い。
閑話休題、本企画の趣旨に対して、投稿期間中後半に出されたものは割と多くが「どこまで遠くに行けるか挑戦したもの」というより「遠くに行こうとする人をテーマにする話」でした。本作もその一例で、まゆちゃんの戦いはこれからだエンド、これから遠くへ行こうという決心が成った一編であると考えます。本企画はこのように、裏テーマに対する解釈が人によって様々で、評議員が5人いてよかったと常々思います。
具体的な内容に触れると、「まゆちゃん」という呼称が出て来た時ドキッとしました。なるほどそういう話かと一単語でわからせる力量が出ていて、その行は『「まゆちゃん」』とそれだけなのがまた、にくい。
それと、母親の「微妙な歪み」がまたよくて、はっきりとヤバい人ではなく、断定しづらいヤバさをしているのが非常にリアルです。ネグレクトでもなければ、過干渉と言い切ることもしづらい。割とこういう人多くって、子供としてははっきりと別離しようと思いにくいところがあります。だから、今回のことで「この人ヤバい」となったまゆちゃんがどう変化していくのか非常に楽しみでもあります。いい小説書きそう(物書並感)(お前も物書きにならないか?)
他にも吉乃ちゃんの教えの功名が皮肉な結果を生んだこと、父親の「こうしろ」と言うわけにはいかない(言ったら結局コントロールしてしまうから変わらない)葛藤などあるのですが、何より素晴らしいのはそれらがわかりやすいところで、書き手としての地力が滲み出ていました。多くの人に読ませるという方面で非常に力があると思います。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:佐倉島こみかんさん、ご参加ありがとうございます。
「どこにも行けない」小説だなと思いました。たぶん親との確執において一番最悪の状況だと思うんですよ、真由美ちゃんが置かれている現状というのは(そうでなければ小説として映えないとかそういうツッコミはともかく)。露骨に親に迫害されている訳ではないので「過酷」からは程遠いと思いますが、恐らく「絶対に抜け出せない」という点では「最悪」であると思うんです。
最後、雨に打たれて「県下でもワーストに入る汚い川」の前で決心するシーンがありますが、私にはどうも彼女が羽ばたいていけるようには思えないのです。多分、羽ばたく前に羽ばたく意志を喪ってしまうのではないかな、と。それまでの話の流れが余りに絶望的過ぎて、最後のシーンを読んでも希望を持てなかったのは、作者様の意図なさった通りかは存じませんが、そういうところが徹底的な小説だったなと思いました。「小説はどこまで遠くにいけるか」という問いに対して、ユニークな答えを見せてくださったように思います。
ストーリー自体も静かな物語として大変クオリティの高いもので、作者様の実力の高さが鮮やかに伝わってきます。最後のシーンがあそこまで映えるのは、それまで積み上げてきた描写があるからでしょう。二万字とは思えない読みやすさでした。
素敵な作品をありがとうございます。
あきかん:
80/100 合計点
内訳
20/20 文章
20/20 構成
20/20 テーマ
20/40 面白さ
総評
蚕の生態は知らないな、と思ったのが第一印象。言われてみれば、蚕も豚などと同様に人間によって品種改良がなされている可能性も十分あるわけで、新しい知見を得ました。
本題に移りますが、本作品はモラトリアムがテーマかな、と思いました。翻訳すると猶予期間。父親が主人公に「早稲田に行きたいんだろ?」と、問い掛けたシーンは出色の出来でした。主人公の大人へと成長する過程の葛藤が見事に描かれていました。
20.柴犬二成乃『半日分の述懐』
辰井圭斗:柴犬氏、こんにちは! 読みながら、傲慢にも「これは私のために書かれた作品だ、というかこれ私じゃん」とか思っていたのですが、最後まで読むと拙作がオマージュされていましたね。あまりそちらに触れるつもりはありませんけど。人によっては主人公が動機らしい動機もなく自死に向かうところが気になるかもしれませんが、私はまあ大体あんなもんだよなと思います。
この作品は「壊れそうで壊れ切ってくれない世界」が書かれていました。〝玄関を出てから鍵を、鍵は、〟とか背筋が冷えるものがありますけどそのまま進み、先の方では文章の一部が欠落していくのですけど、読めてしまう。大体意味が分かってしまう。それが彼女にとって呪わしいなと思いました。世界が壊れてしまうなら、この文章が読めないほどに損なわれてしまうならば、要するに狂えてしまうならば、楽になれるのに。
最後に唐突に出てくる〝あなた〟。これまで散々唐突に謎のあなたを出してきた書き手が言うのもなんですが、私なら前の方でちらと出しておくなと思いました。何かしらあなたの存在をほのめかしておくというか。そうしないと、唐突な〝あなた〟の存在に気を取られて読後感が損なわれると思うからです。ただ、これは「普通そうする」というだけの話に過ぎず。この作品の場合、彼女が自死のために窓ガラスを割った後〝あなたには分かってもらわなければならない〟とまで思う〝あなた〟の出現によって、最も作品が綻んでいた(狂っていた)ことに、つまり彼女の救いには繋がらない、壊れてはくれない世界でそこが最も壊れていたということに、感傷的になりました。
わざとなのか、そうでないのか、ともかく最終的にすごいバランスで成り立っている作品でした。
姫乃只紫:ご無沙汰しております。姫乃只紫です。
一言で云えば、刺さった。見知っている人贔屓無しに──と100%断言することはもちろん難しいのだけれど。企画に参加されている方の多くが「小説はどこまで遠くに行けるか」という裏テーマのもと、自身の書き手としての最大飛距離──遠くにある"遠く"を見ているのに対して、件の作品は手が届くほど近いにもかかわらず遠い。むしろ、近くにあるからこそ見出してしまう"遠く"を描いているように感じました。
何分この講評を書いている人が書き手としても読み手としても真摯ではないため、ぶっちゃけ当企画の裏テーマが指す「遠く」はいまひとつピンときていない、されど講評を書く側である以上参加された各々に何やら知ったふうな口を利いて回っておったわけですが、件の作品に見た「遠く」は知っています。特に「私はきっと、これに遜色ない幼少を過ごしたはすで、それでもこの光景が幻であって欲しいような気もしました。」のあたり。
どこまで遠くに行けるかという挑戦的な響きのテーマ出されたらそりゃあ文字通り書き手としての新境地というか、書き切れるかどうか定かでない遠く目指すでしょという中で、わざわざ遠くを眺めようとしなくたって何気ない日常の中、見落としている遠く、本当は視界の端に映っているくせ見ないよう努めている遠くっていくらでもあるなという気づきを与えてくれたという意味で、姫乃的にはコレが優勝でいいと思っています(何だ優勝って)。
和菓子辞典:柴犬二成乃様、今回は『半日分の述懐』をお寄せいただき誠にありがとうございました。というのはちょっと硬いかもしれません。面識のある仲ですから、正直なところ「おっきたきた」くらいの気持ちで読ませていただきました。以前別作品を読んだときと変わらず、あるいはそれ以上に書き手の没入度が高く別世界を感じさせる一作でした。
そして思うところのある作品でしたから、評に困るところがあります。なにせ僕が「本企画趣旨への回答である」と感じたのはそのわからなさで、評するなら「実在していても多くの人にとって理解しがたい感覚は多くの人にとって新しい読み物になる」と書くことになるからです。内容(テーマと言った方がいいかも)に、話の構造・脈絡自体も変動させる力があり、「小説はどこまで遠くに行けるか」への一回答であると感じました。そして、この企画に「やっぱ切り売りじゃない?」を投げてくるのは強いなとも思いました。
描かれているのは日常で、それに対する主人公のリアクションや行動が物語たらしめていて、非常にシンプルな作品でした。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:柴犬二成乃さん、ご参加ありがとうございます。
読んでみて、世界を作る力のある方だな、と思いました。途中までは本当に何も起こらない日常の話なんですが、別に「何も起きないからこそ」の話ではなく、語り手が世界をどう認識するかで魅せていらっしゃる。
本作で語られている世界はぶつ切りにされていて、かつ抽象的で。私はそれを下知識がほとんどない状態で読んだわけですが、あまり詰まることなくすらすらと受け入れながら読んでいくことができました。これはどうしてでしょう。
■■、中に当て嵌める言葉を読者が多少恣意的に捻じ曲げても物語は成り立ちそうなのですが、私は、分からないままで読み進めた方が当て嵌まるのだろうな、と感じながら読んでいました。それは恐らく柴犬二成乃さんが試みた技法の成功を一部意味すると思うのです。また、「語り手が世界をどう認識するかで魅せ」る方法と非常に噛み合っているからこそ■■が上手く機能しているのだろうな、とも思いました。
あと、語りがとても柔らかなのもよかったです。文体が硬い人は、丁寧語を使ったってどうしても硬さが見え隠れするのですが、この小説は本当に言葉遣いが柔らかかった(私が申し上げたい「柔らかさ」というのは、言葉遣いがキツい柔らかいの「柔らかさ」ではなく、発声が柔らかでありぎこちなさがない、という意味での「柔らかさ」です)。とても魅力的な文章をお書きになる人だと思いました。
素敵な作品をありがとうございます。
あきかん:
75/100 合計点
内訳
20/20 文章
20/20 構成
20/20 テーマ
20/40 面白さ
総評
ホラーっぽい文章で意味深に語られる本作品。意味深なだけでなにかこれといった事が起きるわけでもないですが、文章だけで面白いのです。
物語ではなく語り口で楽しませる。読めば勝手に何かを想像してしまう文章は、読んでいるだけで楽しかったです。
つまるところ決まり事さえ守られていれば、我々は勝手に物語を想像してしまうのかもしれません。そんなことを考えさせられた作品でした。
21.@alalalall『サクラ・ザ・ギャラクティック』
辰井圭斗:@alalalallさん、こんにちは! この作品は――塩大福ですね! ほらいるじゃないですか、甘味が飛び交うバレンタインデーにちょっと塩味のあるものを持ってきてくれる子。あんな感じ。読み手側も緊張しながら読む作品が続く中で、肩の力を抜いて読めました。全編清々しいほど思い切りがいい。序盤のナオスケのセリフ「ほぉ、ワシら宇宙開拓植樹会社『サクラダ・モンガイ』の心臓部となる桜の苗木が蓄えられている倉庫船に何かあったのかい?」には声を上げて笑いました。絶妙なバランスの説明台詞。もう、いいんですよ。宇宙船にそんな機能があったらさすがに覚えとるし、普段から使うやろとか。そいつが本物の忍者じゃないなら、なんでセキュリティ突破できたんだよとか。そんな、細かいことは、もういい! 私が惜しいと思ったのは、チャンバラです。ナオスケV.S.偽忍者。ナオスケは赤熱超振動改造を施された古代アーティファクト『村正』を使ったり、ハチベエに宇宙船を回転させてもらったり、幾何学回路が刻まれた謎の蒼い刀を使ったりするんですが、ここはもっと動きを面白くできたと思うんですよ。鞘が冷却機構を働かせて蒸気を噴出するところとか宇宙船の回転を利用するところとか折角面白いのに、ナオスケの斬りかかる動きが単調なんです。基本振り下ろしたり、真上に掲げたり。多分刀持ちの動きのストックがまだ足りていないんだと思います。色々ありますよ、頭上で刀身を廻らせて遠心力で袈裟斬りしたり、手首を返して縦回転で肩口を狙ったり。惜しいなあ……。ここで場違いなほど本格的な宇宙チャンバラが展開されていたらyeah!って叫んだのに。
でも、それ以外の細かい突っ込みどころがどうでもいいほど楽しい作品でした!よかったです!
姫乃只紫:はじめまして、@alalalallさん。姫乃只紫と申します。
本物の忍者なら自分たちを殺し損ねる筈がないなど、あまりにも忍者に対する評価が過ぎるところから察するに、作者は絶対忍者だと思います。汚いなさすが忍者きたない。
古のインターネットの民にしか拾えないネタはさておき──こういった企画に受賞目的で作品を応募することは、各評議員を攻略することと同義であると私は思っているので。企画のカラーを何とはなしに感じ取りつつ、件の作品で臨まれたというのであれば(と云うか、十中八九そうなのでしょうが)、まずそのイズムを心から称えたいと思います。
正直、紹介文にある『典型的な時代物(武士とそのお付き)』という素材をやや料理し切れていない感は否めませんが、ニンジャスレイヤーリスペクトなテイスト、「夜道で血濡れた剣を持つ50人のツタンカーメンに囲まれるようなもの」を筆頭にクセの強過ぎる喩え、怒涛のルビ振り・傍点ラッシュから、何かもうそういうツッコミすら無粋なのではないかと。ただただ完成度が高いだけの作品には決して出せないであろう八面六臂的な隙の無さが本作にはありました。
まあ、ハチベエが灰吹雪にうっとりしているシーンで早々に噴いてしまったものですから、物足りないポイントを指摘したところで私の負けは必至なのですよね。くやしい。
それでは、良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:@alalalall様、今回は『サクラ・ザ・ギャラクティック』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
なんか妙なもの生まれましたね。もうはちゃめちゃ。序盤から終盤までもうやりたい放題、細かいことは気にしない、映画『コマンドー』のような勢いでした。この底抜けのテンションは本企画でなかなか見ません。裏テーマが裏テーマでみんなシリアスに来るものですから。
とりあえず真面目に「小説はどこまで遠くに行けるか」という軸で話をするのですが、「今まで組み合わさったことのないジャンルを組み合わせたものを書く」という、割と様々な場面で使われている「新規性の担保であった」と思います。その意味で今まで通り、しかし新しいものでした。SF×武士、もしかしたらあるのかもしれませんが、目についていない意味で新規性がありました。
ただ筋書きとして、地球到着後の桜の採取シーンがとても短かったところは短所であったと感じます。これを待ちに待っていたので、ここが弱いと「細かいことはいいや! やったー!」しにくく、もう少し盛り上げて欲しいなと思いました。
「パワーで書かれたものは好きだけど抑えるところ抑えてほしいな」という辛口になりましたが、やっぱりこういうぶっ飛んだものを読むのは楽しかったです。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:@alalalallさん、ご参加ありがとうございます。
井伊直弼? うっかり八兵衛? 惑星ソラリス? ジャンルを横断することによる豊かな元ネタに支えられた作品だと思いました。
謎解きや打開策のひらめきが、作品の世界観や情報の開示と共に進められていきます。言うなれば、一つの台詞が説明と謎解きに同時で使われているというか……。ですが、テンポを保ちながら話を進めるのには必要なことだったのでしょう。それに、多少理論が無茶苦茶なところはありますが、作者様の「ゴリ押す」技術が大変優れており、あまり引っ掛からず、最後まで楽しみながら読むことができました。
一つ惜しく思うところがあるとすれば「時代物」の要素が活かしきれていなかったことです。作品が結構序盤の方から忍殺に乗っ取られているんですよね。SFと時代物とニンジャスレイヤーリスペクトはそれぞれ別の要素ですから、三つを同時に成り立たせるというえげつない技術を要求されるわけで、そこは仕方ないのかも知れませんが、しかしこれでは、侍のコスプレをしている変なおじさんが一人登場するだけになってしまいます。あとハチベエに着物ではなく宇宙服を着せる理由がいまいちよく分かりませんでした。
どうせなら、江戸の文化と宇宙進出した人類文明の混合した世界観が見たかったですし、侍であるナオスケと忍者の間に何かしらの因縁を設定しておいた方が面白いのではないかと思います。
ですが、描写の仕方自体は非常に優れていらしゃって、やっぱり、エンタメ系の小説は上手い人が書くと一味違うなと感服しました。でも、だからこそ、もう一レベル上の、完璧なものを求めてしまう。私の感想はそんな感じです。
素敵な作品をありがとうございました。
あきかん:
講評とかどうでも良いじゃないですか。ニンジャスレイヤーリスペクトのSF一大巨編の序幕。これが嫌いなオタクはいません。
22.五三六P・二四三・渡『プルソンの図書館』
辰井圭斗:五三六P・二四三・渡さん、こんにちは! とにかくあらゆる本を含んでいるので、物語とキャラクターの話と言ったら狭いのかもしれませんが、物語の力強さを感じた作品でした。私は時々物語にあまりいい感情を持っていないのですけど、それで本作の評価が落ちるということはなく、小説の中に物語を押し出していくと、こんなものも書けるのかと新鮮に楽しく拝読しました。その点といい、世界観の作り込み方といい、色んな意味でこれは私書けないです。
ビジュアル的に非常に楽しい作品ですね。猫が本となり、本が猫となるお好きな人にはたまらない世界観で物語が何層にも重ねられていく。前半は「これどこに行く話だろう」と思いながら読みましたが、後半どうもすごいところに連れて行かれていると分かって興奮しました。
難点を挙げるなら、分かりにくいかなとは思います。それもどうも挑戦に伴う不可分の分かりにくさではなく、もうちょっと分かりやすくできた感じの分かりにくさでした。最後までのある程度の見通しはつけて書いていらっしゃるとは思いますが、ゆるめにプロットを組んで一話一話考えながら書いている印象でした。私はその書き方は飛距離が出やすいので好きなんですけど、本作の場合は少し裏目に出てしまっているかなという気がしています。
しかし、質の良いファンタジックな情景が広がる、とても楽しい作品でした。
姫乃只紫:五三六P・二四三・渡さん、はじめまして。姫乃只紫と申します。
猫と本がイコールであるという設定が独創的な一作。一方で日本に来て間もない頃、猫の役目は経典や書物を鼠害から護ることだったわけですから、猫を本とするというアイデアは一見突拍子もないようで、わりかし繋がりなくはないところが面白いと思いました。
二転三転する世界観に読み手として半ば宙ぶらりん状態を味わう傍ら、しかし引きでしっかり次のエピソードへと誘われる、読書という能動的な行いであるにもかかわらず、読み手はハンドルを掴むことを許されない、さながらジェットコースターにでも乗っているかのような不思議な読書体験でした。「どうにでもなれ」で締めくくる『終わり』は、しかし苦さばかりを残すものではなく、図書館から猫やら星やら雲やらが飛び出すラストには多幸感さえ覚えるほどです。
散見する誤字脱字衍字が玉に瑕と云えば玉に瑕ですが、アトラクション──造りものの世界特有の"粗"のようにも見えなくもなかったです。
それでは、良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:五三六P・二四三・渡様、今回は『プルソンの図書館』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
裏テーマに対する挑戦心の溢れる一作でした。徹底的に物語としての成立を避け、そのまま物語になっているところがあります。誤字脱字衍字が多いのでどうしたのかと思いましたが、思えば「没入できないようにする」工夫だったのかもしれません。ここまで世界観を独自に作っておきながら、「これはあくまで小説です。もうひとつの世界ではありません」とアピールしてくる感覚がありました。SFになったり学校の話になったり、そもそも猫を本にするという飛躍が強烈です。
亡くなった親友との約束・初志も、「どうにでもなれ」と展開をかなぐり捨てる最後、反逆するわけでもないところがまたいいと思いました。拒みたいものの反対を行くとそれに囚われていることになる、という拘りが見えました。どうやったら展開から脱出出来るか、筋書きを壊せるか、苦心されたものと思います。
難点を一個書くならば、展開を掴みにくい作品でした。ただこれは挑戦ゆえのことであり、抱えて然るべきものだったと考えます。それでももし、これすら乗り越えられたなら、とも思います。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:五三六P・二四三・渡さん、ご参加ありがとうございます。
自由自在、まるで仕掛けありの絵本のようで楽しいですね。かなりアクロバティックな構造が特徴的ですが、書き手の実力は十分高く、作者を信頼しながら小説を読み進めていくことはできます。また、言葉というシステムが現実を圧縮したものである以上、生まれる欠落を意図的に制御してみせていらっしゃったのも印象的です。
初読の時は、題名が舞台を指すのかと思っていたんですが、やがて主人公の名前も指すことが明らかになる。こういうのいいですね。読んでいて楽しいです。
さて、物語についての話になるんですが、無限に続く入れ子構造や唐突な転換の連続を含みながら、ストーリーの大枠自体はとても単純明快で、王道に近いものがあります。ですが、だからこそ、一つ浮き彫りになってしまうものがある。私はこの小説を読んでいて(特に「全部伏線だったのです」という言葉に対して)、強い疎外感を覚えました。とっつきやすい側面を持つからこそ、一度読者を置いて行ってしまうと、その断絶が目立つのです。
ですが、それに対してもこの作品はアンサーを見出していると言えるのではないでしょうか。もし私がこの作品で一番素晴らしかったと言える場所があるとしたら、そこです。最後の、猫の明るい諦観、これ一つで作品が全く上の次元へと昇華された感があります。
素敵な作品をありがとうございました。
あきかん:
90/100 合計点
内訳
20/20 文章
20/20 構成
20/20 テーマ
30/40 面白さ
総評
猫が本になる。本が猫になる。ゴリゴリのファンタジーが展開される今作。猫がかわいいです。
猫ねこファンタジーなんですが、ファンタジーとして面白いです。ファンタジーの最も重要な物はセンスオブワンダーです。不思議感。今作もその不思議な感じを堪能できます。本が猫になるのです。不思議です。わけがわかりませんが、そんな世界を無理なく受け入れるだけの筆力が今作にはありました。
ファンタジーの魅力を味わう事ができた一作でした。
23.myz『造りかけの故郷』
辰井圭斗:myzさん、こんにちは! 今よりもずっと遠くに行くようになった宇宙の生命体が、あちこちで故郷を模造する……のを引き継ぐ物語。「小説はどこまで遠くに行けるか」に対する回答の出し方が面白いなというか、遠くへ果てへ果てへという運動の中でどこか故郷を模造であっても再生してしまう、というのはそうかもしれないなと思うものでした。
この話ややこしいのは、その故郷の模造を行うのが語り手である《メリダ=ティミス》ではないということなんです。《メリダ=ティミス》は故郷の模造を見つけて引き継ぐという役回りなんですけど……これなんでなのかしばらく考えていますが分かりません。少なくとも私は感情移入しづらいというか、私が短編としてこれを書くなら《タツミ=シズヒト》視点だろうと思うんです。その方が話も説明も余程シンプルだし、彼にあったであろう情熱にフォーカスしてエモーショナルにしやすい。myzさんがそうしなかったのはなぜなのか、「そんなのは御免だ」なのか、引き継ぐ者の物語の方がしっくりきたのか、ちょっと不思議でした。或いは、《タツミ=シズヒト》の物語は《チキュー》に留まるが、《メリダ=ティミス》の物語はどこまでも行ける。そこがこの作品の遠さでもあったのでしょうか。
参考情報の提示というかたちになってしまいますが、テンポとして初読は前半が遅くて、二回目は後半が遅かったです。ご存知ものの世界観として提示される設定のかたまりを最初から提示するという小説自体としてはスピーディーなつくりにしている分、初読では体感としてスロースタートに見えたということかなと思っています。ストーリーは一回で理解できたので、二回目はストーリーがメインになる後半がゆっくりに見えたのかな。n=1の情報ではありますが、辰井にとっては、二回読んで分かる設定に一回読んだら分かるストーリーが乗っている小説でした。そこのずれも面白いですけどね。
キャッチコピー〝エピメ星系G21α星にはね、トウキョウ・タワーという建物があったよ〟はどういうことだろうかと考えていました。《チキュー》にあったのはどう考えてもトウキョウ・タワーではないので。でも、読み終わって、ああこれその後の話なのかなと思いました。つまり、その後の《メリダ=ティミス》が見つけたものの話かなと。だとすれば、本編の外で物語の拡張をしているということで、面白いなと思いました。
ハードな読み応えがありながら、なんといったらいいのかな……手作り感のある作品で、とても好きでした。
姫乃只紫:myzさん、はじめまして。姫乃只紫と申します。
「どこまで遠くに行けるか」という裏テーマに、果て(≒遠く)を探す旅を止めるという選択で答える一作。一見消極的なようで、その実宇宙の果てではなく、もっと他に"遠く"を見出せる、見出したい場所が自分にはある──という考えに至ったわけですから、むしろ積極的かつ健全な選択だと思います。
正直なところ、「途絶したその事績に接木をする」工程にあまり魅力を感じないのですが、この辺りは前提として「トリガーひとつで、巨大なタワーが、ドカン!」というテクノロジーがあると思えば「なるほど確かに面白そうではある」と頷ける部分もありました。
惜しむらくはキャッチコピーがややこしい。《タツミ》氏による建造物のオリジナルがトウキョウ・タワーでないことは明らかなのですが、明らかである+トウキョウ・タワーの字面が強過ぎるせいで、一部読者は「特徴から考えて東京タワーでないことは明白なのに、なぜ東京タワー出したし」という疑問符を浮かべたまま、読み進めなければならない可能性があります。加えて、読了後すんなりキャッチコピーの一応の最適解に辿り着けるかと云うと、個人差はあれどそうでもないので。発想としては面白い一方、大分と玄人向けに感じました。
それでは、良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:myz様、今回は『造りかけの故郷』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
まずSFをしっかりやっていて、高度な技術・上位存在・形態の異なる言語(16進数?)などなど楽しんで読んでいたら、マインクラフトのような話も出て来てきっと書いている方も楽しかったろうなと思います。
そして、本企画趣旨について、本作はどちらかというと「どこまで遠くに行けるか挑戦する」より「どこまで遠くに行けるか挑戦する心情をテーマにする」書き物であり、その先で諦めとはまた別に目指すものを見つける話であるように思いました。《タツミ=シズヒト》は旅をやめ、《メリダ=ティミス》もそれに続くように意志を固めている、その様は本企画の趣旨から半分外れているようにも思われます。
しかし一個の回答であり、「そちらを目指すのは自分のしたいことを見つけていないだけじゃないか」という痛烈なパンチであるように思われました。これは正直評議員としてキツいなと思った一方で、『左利きのエレン』の名言「甘い夢よりも痺れる現実のために」を(作中で用いられていた時とは少しずれる意味で)思いだし、首を捻った次第です。
正直ダメージ受けました。書き物で傷つくってやっぱりいいもんだなと思います。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:myzさん、ご参加ありがとうございます。
サクラダファミリアでしょうか? キャッチコピーにあったトウキョウ・タワーともまた違うようですし……。多分藤田の寡聞もあるのでしょうが、メリダ=ティミスさんがチキューで見つけた建造物の描写が全く分からなかったです。地球の建物を模したものである、という前触れを読んだ以上、読者は脳内にある東京タワーの画像や街並みの画像に重ね合わせる形で読もうとするでしょう。素直に描写にしたがって、一切のバイアスなくイメージを再現する読み方はできません。「あの建物のことを指しているのかな?」と常に検索を続ける読み方になるのです。少なくとも、私はそういう読み方をしました。ですが、何の建物の描写か、全く分かりませんでした。キャッチコピーにトウキョウ・タワーとあるなら、きっと東京タワーの話だろうと思うんですよ。でも流石に、未完成で、かつイエス・キリスト像や十字架があるなら東京タワーじゃなさそうだなと気付きます。じゃあこれは何なのだ……と。私の貧弱な見分では「サクラダファミリアかな?」と当たってるのか当たってないのか分からない見当を付けるのが精一杯でした。
他の評議員さんがそこらへん引っ掛からなかったなら別に気にすることはないとは思うんですが、もしそうだとしても「何を描写しているか理解できない読み手が一人はいる」という訳なので、読者層を想定する際の参考にしていただければ幸いです。チキューの光景を目の当たりにするシーン、この小説で最初の大事な見せ場だと思うので、ここが伝わらないのはめちゃくちゃ勿体ないと思うのですよ。
個々のパーツを見ていくならば、文章は特有の用語が大量に見られる割には非常に読みやすいですし、語り口はユーモアに溢れて魅力的です。主人公の誠実な性格は、タツミさんの神聖な物語を描くうえで無上のものであるでしょう。小説として完成度が高く、非常に素晴らしい作品です。
でも、だからこそ、そのタツミさんが人生をかけて作りつづけてきた建築群がどんな姿であるか想像しようとすると引っ掛かってしまうのが、物凄く惜しく感じられるのです。作者様による解説があればいいのに、と思うほどには。
あきかん:
本格派SF。取扱注意の警告音が頭に鳴り響いてしまうのは歳のせいか、それともオタクのせいなのか。どちらにせよ、他の評議員が真面目な講評は書いて下さるであろうから、私は別の問題を考えます。
記録という形式で進む今作ですが、この記録の飛距離をどう測れば良いのかについて愚考します。以下は、その考察。
飛距離の計測には、始点と終点が必要であり、小説はどこまで遠くへと行ったのかを考えるにあたり、始点と終点をどう定義付けするかは重要である。
今作を読む限り、終点ははっきりとしている。チキューである。しかしながら、始点をどこに置くかが難しい。第一候補として、チキューである。これならば、チキューから動いていないことなる。始点をα、終点をβとした場合、その飛距離はβ−αであることから、第一候補の前提条件α=βにより、飛距離は0である。
第二候補は、地球もしくは主人公の母星だ。本編において、地球はチキューではないと語られているので、始点α’は終点βとイコールではない。故に、飛距離は0より大きくなる。この距離はどの程度か。太陽の重力圏外と仮定すれば約10万天文単位より離れていることになるだろう。ちなみに、天文単位とは地球と太陽の平均距離を1天文単位という。しかし、太陽の重力圏は流石に広すぎるのではないか?冥王星までの距離が約40天文単位だったはずだ。これを超える距離と定義するのが無難かもしれない。
第二候補まで洗い出したが、読んだ感覚だと違う気もしている。地球への郷愁とでもいう気持ちを懐く今作において、やはり地球の引力圏こそが飛距離を測る上で重要ではないか、とも考えさせられる。より抽象化するのならば、自らのルーツとの距離間だ。心理的な距離間と言っても良いかもしれない。
本作の最大の魅力は、この心理的な距離間と物理的な距離間の乖離であると思われる。本編において、心理的な距離間が揺らいでいるからこそ物理的な距離間は固定されていた方が、その2つの対比を味わうのに有効であろうと私は判断した。故に物理的な距離間における始点は、心理的な距離間と区別するためにチキューが望ましいだろう。
ここまでの事から、小説遠投記録は0、ただし惑星上の移動距離は無視するものとする。
と、します。
24.@dekai3『【紡がれる星の物語 ~the sp[u]n star story~】』
辰井圭斗:でかいさん、こんにちは! 多分いい意味で困惑した作品でした。本作の一番の困惑ポイントは、アズィールのもとを訪れる彼があれだったというところかなと思いますが、困惑したのであれじゃないバージョン考えてみたんです。つまり生きた〝お父さん〟がアズィールのもとを訪れるバージョン。そうしたら、きれいにハートフルではあるんだけど、肝心の『最後までやってみなきゃ分からない』やグローブ様の執念とかが出て来なくて、ああ確かにこの話はあれが来る話でなければならない、と思いました。
「誰にも読まれないかもしれないものを発信することに意味はあるのか」に対して、読んでくれる誰かが外宇宙にいたという話にするのは、個人的には「別に読まれなくても、発信する自己のなかに、或いは発信しようとするその内容自体に意味は見出せるじゃない」と思ってしまって、そっちの話の方がしっくりは来るのですが、その一方で『最後までやってみなきゃ分からない』という言葉自体と、実際外宇宙にはいたというストーリーは、色んな人に勇気を与えるものだとも思います。
好きなポイントはいくつかあって、最初の「【星の瞬きは、詩】~song of twinkling~」で――をつけながら文章が書かれていきますが、それが発信しているみたいだなというか、声の重なりみたいだなと感じるもので、二回目読んだ時には作品全体での仕掛けを感じました。あとは多くの人が気付くかと思いますが、グローブ様の手記のナンバーの仕掛けが好きで、ああいう方法で時系列を混ぜながら進める方法があるんだなというのを感じました。今度パクろう。でかいさんから何かをパクろうと思うの二回目ですね。そういう細かいところだけでなく魅力的な書き方をする作家さんだなと思います。
小説はどこまで遠くに行けるかという問いに物理で答えてくれているところに目が行きがちですけど、小説を書いた向こうにいるかもしれない読み手の問題にも触れる作品を書いてくださったという意味で抽象的にも「小説はどこまで遠くに行けるか」に応えてくれた作品だったと思います。面白かったです!
姫乃只紫:はじめまして、@dekai3さん。姫乃只紫と申します。
小説延いては物語はどこまで遠くに行けるかという問いかけに、外宇宙の存在までというロマン的な回答で応えた気持ちの良い一作。
何分月という大きな重力を持つ星があるおかげで地球に隕石が落ちてこないなどといった宇宙の"偶々"にときめきを覚える系の民ゆえ、星の瞬きという自然現象に何かしらの意味があるという設定自体に若干もやっとしたのですが、初見引っかかりを覚えたからこそラストまでぐいぐい惹き込まれました。何処の誰に向かってか分からないものを発信し続けていたら、星の瞬きによる歴史を蒐集している宇宙人に偶々届いたという一歩間違えればご都合と取られかねない展開を、しかしそう感じさせることなくまとめ上げた筆力・構成力が光ります。
「何処の誰に向かってか分からないものを発信し続ける意味はあるのか」という問いは、まさしくweb小説界隈に蔓延るそれだなぁと。私個人としてはそもそも自身の発信している物語が誰かに必要とされる必要ってあるのか? と思わなくもないのですが、遡れば"発見"された当時は小躍りする程度に嬉しかった気もするので、件の作品の温もりある読後感を素直に嚙み締めたいと思います。良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:@dekai3様、今回は『【紡がれる星の物語 ~the sp[u]n star story~】』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
まったく知らない仲でもないというか、同じDiscordのサーバーで参加される旨聞いていましたから楽しみにしていました。それで蓋を開けると、中身は王道と性癖詰め合わせ、それでいて挑戦的な作品でした。
二つの物語を並行して進めるやり方は、どちらかがどちらかに寄する形態でなければ混乱を招くものですが、そもそも本作は一度読んで終わるように書いていないので、遠慮せず混乱を投入してきたように思います。
というのも、まず初読で思ったことは、「よくわからん」でした。しかし、読み直すにあたって表紙ページに戻り、気付いたのはタイトルの意味合いが変わってくることです。というのも、最初に読んだときは「紡がれる星の物語」であった一方、もう一度読むとあくまでアズィールの物語の前語り、「紡ぐ星の物語」の序章となったことです。sp[u]nの[u]がにくいなあと思いました。
こうして僕は決まった流れに従うようにもう一度読み、すると不思議なくらいするする読めました。これは小説後半に開示された情報があるからなんですが、ここですごいのは「別に5000字くらいなら二回読む前提で書いてもOK」の割り切りだと思います。どうしてもそこでわかるようにと書いてしまうか、もう分かりたい人だけ分かれ(2回読む気力のある人だけ2回読め)と思って書くものですが、そうではない判断を見ました。本作が本企画趣旨に挑んだのはここであると思います。
そして、二回目を読み終わって、「ああ彼女の物語はまだ続くのか」と王道な「遠く」を感じられました。「文学的挑戦」とはまた別に、こういうモチーフとして「遠く」を使ってくるタイミングが本企画で一番好きです。
奇妙難解にならず、最後にはすっきりわかる筋書きのまま本企画趣旨を満たす、クールな回答でした。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:@dekai3さん、ご参加ありがとうございます。
面白かったです。ちょっとうるっと来ちゃいました。
この小説では、語りがころころ変わるんですが、特に印象的だったのは、メインの部分における丁寧語での語りです。最初、童話的な三人称かと思ったんですが、読み進めるにつれて「アズィール」を一人称にした語りではないかと思うようになりました。他にも、この作品は読み進めるにつれて明らかになる事柄が多く、分解された時系列が、より効果的な形に再配列されて語られていきます。
あと多分、星の物語と「小説」をなぞらえて語られてもいるんですよね、この作品。私、本小説大賞で「小説はどこまで遠くにいけるか」というテーマを表テーマとしても扱う作品は大抵二つに分類することが出来ると思っていて、「どこまで遠い境地に辿り着けるか」もしくは「どこまで遠い存在に届けられるか」の二つだと思っているんですが、多分@dekai3さんの作品は後者ではないでしょうか。回答としては、とても肯定的な(それは「お父さん」の決死の行動の結果でもあるので「楽観的」というのもまた違うでしょう)ものでした。かなり直截な問題がテーマである以上、どこか壮絶な回答の多い中、やっぱりこの作品も壮絶ではあるんですが、それにしてはどこか温かいものを感じますね。素敵な作品をありがとうございました。
あきかん:
外宇宙に物語を届ける。その壮大さとでかいさんが描くロボ娘の可愛さが光る傑作です。
個人的には、外宇宙へ物語を届けた事に注目しました。小説遠投選手権、記録、外宇宙まで。
ただし、外宇宙の定義が難しく、仮に太陽系外と定義しておきます。銀河系内の規模だと思われるので。
25.宮塚恵一『∃h∈楽園,年代記(n)∧神不在(n)』
辰井圭斗:宮塚さん、こんにちは! 書き手を信頼できる、安定性抜群の作品でした。読んでみて文章の堅固さが頭一つ抜けていると感じました。安定性抜群と言ったように、作品の基礎の部分は非常に手堅く構築している一方で、小手先の技術ではなく作品全体で挑戦をしている小説でもあると感じました。
神は残酷、残虐だ、神が憎いというのは、およそ幾度となく繰り返されてきた感情ではありますが、これをそれだけで終わらせず、最後に〝失った筈の盟友達が杯を交わしている〟のを目の当たりにすることで信仰に回帰するあたりがさすがだなと思いました。思うに、神が憎いというのは、少なくともそこまで信仰に熱心でない人の多くは共感しやすいのです。しかし、彼が信仰に回帰するに至る光景を見たことがある人は多分ほぼいない。だから、いわばsegment-Ⅴで私は置いてけぼりを食らうわけですけど、それがこの作品を損なっているとは思いませんでした。実のところ、ああいうことは「近代」的理性で普遍的に理解されるものではなく、より個人に紐づいたものだろうと思っています。更に、segment-Ⅴでは最後に〝どこからか悍ましいと私を嘲る声が聞こえ〟るのですけど、それが誠実でもあるし、今の時代の作品としてバランスが取れているなと思いました。
気付けばsegment-Ⅴの話ばかりしていますね。のっけから見事なので、もうどこを褒めていいのか分からないのですが……分からないといえば、segment-Ⅳの神の言葉を私は理解できなかったのですが、Chapter6で説明が入るし、私の感覚が合っているかは分かりませんが、分からないのと同時に畏れのようなものを感じました。
色々書いてきましたが、とてもカッコいい作品だなというのが読後の印象です。
姫乃只紫:はじめまして、宮塚恵一様。姫乃只紫と申します。
初読は「難解」という一言に尽きましたが、何度か読み返すうちラスト一文が大変秀逸であるという見解に行き着きました。
御作、私の解釈では人の死後に救いなどなく、魂の救済は叶わないのだから、量子記録帯を介して、神不在の世界から脱出しよう、そのために新型脳炎患者の記憶の解析を続けようと決めたものの、失った筈の盟友達が杯を交わしているところを見せつけられた結果、神に対する信仰心が蘇る、しかし心のどこかでそんな私(と私が置かれている状況)を悍ましいと嘲るメタ的な私もいる──というお話だったのですが、コレ「segment-Ⅴ」で終わっているところが肝だと思うわけでして(この解釈がそもそも誤りであれば、申しワケ)。
と云いますのも、私の感覚だとじゃあコレで誰も彼もが神不在の世界からの脱出を止めるかと云われたら多分止めないのですよ。「失った筈の盟友達が杯を交わしている」場面を見せつけるってもはやある種の恫喝で、そんなもの見せられたら圧倒的賛美せざるを得ない空気じゃないですか。
だから、幻の「Chapter7」は私の感覚だと「いや、魂の救済約束されたところで、云うてね??」となってしまうのですが、多分読者によって「どこからか悍ましいと私を嘲る声が聞こえた。」より先の世界は異なるのだろうなと思うと、多分に広がりを感じるラストでありました。
それでは、良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:宮塚恵一様、今回は『∃h∈楽園,年代記(n)∧神不在(n)』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
本作の構造自体は、二つが並進しながらうまく関係している「技量のある」作品でした。出来ればもう少し大きな動きを見たいところでしたが、世界観でワクワクする作品だと思えば十分楽しめる作品でした。
ただ宮塚様から本企画への回答はそこではなかったのかなと考えています。天文学的な時間的距離を「遠く」としたわけでもなく。本企画の解釈を「文学的挑戦」の一言に集約させ、もともとの信念を叶えられたように思います。
創造主としての神ではなく救世主としての神は、現状から思うに存在し得ないという信仰の論破を、現代の視点によって破り返すための本作であったなら、科学が神の御業を解明しその実在を示すために用いられていたことを思い出させるように感じます。
妄想ですのでここの話は終えるとして、組み合わされたジャンル間の跳躍が凄まじいはずなのに、親和性の高さが顕著に見られる作品でした。文体をそれぞれごとに変える技量も非凡なものですが、根本的に同時に扱いやすいように思います。
SFを突き詰めると神があらわれるのは、いつものことと言えばいつものことですが、妙なスケールの大きさについていけなくなるのも常であり、そのような問題を「最初からスケール大きめにしておく」というシンプルなやり方で解決されていました。
総じて、渋いやり方だなと思わせる作品でした。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:宮塚恵一さん、ご参加ありがとうございます。
現世の物語はほとんど動かず、夢の物語ばかり進んでいく。背景としての世間の混乱や、VRゲーム、そして奇妙な夢の真実、それらが作品の主であるように思います。非常に練られた世界観であるからこそ出来る方法ですね。「分かんない……」と途方に暮れながらも、どこか胸にワクワクを抱きながら読み進めることができる小説でした。
あと、作品の構造と言うか、形式が美しいのもよかったです。夢と現実の順番が対称になっていたり、作品全体を「segment」で包んでいたり。下手な作品でこれやっても「何のためにやったんですか?」となりかねないのですが、このくらい壮大な作品なら「ふさわしい」と思うのです。
さて、この作品の「分からなさ」ですが、恐らく「segment」における筋だけが完結し、「Chapter」については途中のまま小説が終わったことによるのでしょう。題名のとっつきにくさや、SF的なモチーフの耳慣れなさもありますが、宮塚さんはそれらが作品の邪魔にならないように慎重に配置していらっしゃる。やはり、現世の物語が動かぬままに幕が降りたことが、この作品が晦渋な理由であると思うのです。ですが、多分これは幾らか、または完全に意図してなさったことなのだろうな、とは思うのです。
アヴァロンというもう一つの現実、ボルツマン脳というワード、そこらあたりから考えるに、現世もまた不確かなものであるのだろうな、と。作品内で用いられるモチーフに、作品の様式を特異なものにすることで重ね合わせる作品は、本企画中幾つか見られましたが、宮塚さんのこの小説は、とびきり思い切りがよかった。そんな風に思います。
素敵な作品をありがとうございました。
あきかん:
90/100 合計点
内訳
20/20 文章
20/20 構成
20/20 テーマ
30/40 面白さ
総評
わからない。題名が数学の記号であった気もして、調べればわかるのだろうが、そこまでの労力を使って行うべきなのだろうか、とも思うわけで、わからないならわからない状態で楽しもうと決めて読み始めました。
堂に入ったSFだな、と。SFについて詳しく語れる知識を有していない自分ですが、語り口の自然さからこのジャンルに精通していることがうかがえました。
さて、内容については、わからない。自分の理解力不足かと思われますが、わからないということは逆説的に深いということなのかもしれません。現実と何かが混濁していく様に興奮しました。
久しぶりにSFを漁りたい気持ちが湧いてきた一作でした。投稿ありがとうございました。
26.押田桧凪『不揃いな足』
辰井圭斗:押田さん、こんにちは! 多分良い意味で居心地の悪い作品でした。結構「この人はなんでこうしないんだ」とか「なんでそこで折り合い付けないんだ」とか思いながら読んでしまったんですけど、そういう社会だとか周囲の気持ちが彼女にとって負担にしかならないことも分かりますし、「できたら苦労しないんだよ」でもあるのは分かるので、しんどいなあと思いながら読みました。読み終わった後思ったのは、(主語が大きくならないように気を付けると)私は「母」か「父」にしかなれないんだろうなということで。要するに表面上「あなたの味方ですよ」という素振りをしながらその実的外れで残酷で本当の味方でもなんでもないか、想像力に欠ける正論を吐くことしかできないんだろうなということでした。それは、少し意外ではありました。なんというか、これはむしろこの作品に対して評価しているところなのですが、共感できる言葉は随所に散りばめられているものの、トータルで肩入れできない主人公でした。「生きづらい人やマイノリティーの味方ですよ」なんてことをふんわり思っていながら、実際のところそういう人たちの中で肩入れしたい人を選んでいるんだというのを突き付けてきたという点で力のある作品だったなと思います。
今から書くことを私の自己弁護と捉えられるとすごく厭なのですが、私は「死にたい」に類することをそれなりの頻度で呟く人間なのですけど、余程奇跡的な出会いでもない限り、結局そういう人間の救いは自分の中に用意するしかないというのがここ数年の結論ではあります。作中こうあってほしかったお母さんに思いを馳せる場面がありますが、そういう「こうあってほしかった人」は自分の心のうちに住まわせるしかないのです。まあ、これこそ、「できたら苦労しないんだよ」ではあるのですけど。
多分私は作者にとっていい読者ではないんだろうなと思いながらも、パワーを感じた作品でした。
姫乃只紫:はじめまして、押田桧凪さん。姫乃只紫と申します。「二足歩行をやめた」という選択そのものは社会から排他されやすくなるという可能性等を踏まえ、マイナスな選択であると考えられる一方、その選択に至った経緯は決してマイナスではないところが面白いなと。
単純にハイハイになると移動スピードは二足歩行より落ちるじゃないですか。どう考えても二足より遠くに向かうには適さないじゃないですか。だから、読者から見ると、件の作品に登場する"わたし"は明らかにここではないどこかを求めている類の人なのだけれど、そのどこかを目指す気概はそんなにないのですよ。むしろ、「ここじゃないどこかなんてねぇよ」とでも言いたげな、力強ささえ感じます。体育の先生はそれを逃げると評したけれど、はたしてハイハイは逃げなのでしょうか。ハイハイなんぞで一体何から逃げ切れるというのでしょうか。ここじゃないどこかなんてねぇよ。逃げるどころか、コレむしろ戦っているだろうと。でも、誰にも理解されない戦いってあるよな──とも。
ラスト──自転車を運転している人に"わたし"が見えなかったというシーン。一瞬、なぜ自動車ではなく、自転車なのだろうと思ったのですが、"わたし"の立場になってみると自転車に気づかれない、そこにいることを認識されないってちょっと恥ずかしいのですよね。自動車よりも。まさか自転車に"さえ"気づかれないのかよという屈辱感あるじゃないですか。そういう締まりの悪さ、"わたし"の人生の半端さがこの自転車に表れているようで秀逸だなぁと。
一方でこの自転車にさえ気づかれなかったというシチュエーションと前述したわたしをこの世界に繋ぎ止めている鈴がもうないことを結びつけると、何やら本当にここにいながらここではないどこかに行けてしまった(あるいは偶々迷い込んでしまった)ような解放感もあり──。非常に力強く素敵な作品でした。
和菓子辞典:押田桧凪様、今回は『不揃いな足』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
ただ本作は本企画趣旨に対する回答というより、押田様ご自身のテーマが強く出ているのかなと思いました。そのため今回は推薦を見送り、あくまで内容に対して感じたことを書いていきます。
まず、乖離というべきか自立というべきか、青春期の反抗の行き着くところを感じる一方で、強い自己防衛・臆病さを描いた作品であるように思いました。
劣等感を感じること、意志を主張して自分を「覚悟のあるマシな人間」にすること、その結果として惨めな気分になること、それらについて自虐的になる・自覚的になる・怒るなどの手段で回復するサイクル。そして、それらは決して解決されえないものであるという閉塞感(あるいは解決されえないものであれかしという願望)こそが描かれるものであり、青春から成年期にかけての懊悩の残像を見ました。
多くの場合、至るところは諦めであり、至ってしまうと「これ」は書けなくなります。未だ諦めず戦っているか、そのかつてを刻明に記憶している書き手としての素質が素晴らしいと思います。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:押田桧凪さん、ご参加ありがとうございます。
どうして「もうどこにも行けない気が」するのに「どこまでも遠くに行ける気がした」のでしょうか。考察を試みてみますね。
まず私、この作品の結末は或る意味、ハッピーエンドと言えるのではないかと思うんです。交通事故の何がハッピーだと思われるかも知れませんが、主人公と彼女に大きな影響を与える両親の要求が一致する瞬間ではあるんですよね。彼女はこれからずっと、二足歩行をせずに生きていられる。きっと彼女が望む赤ちゃんのように、何をすることも求められず、ただ庇護されるだけの存在になることができるでしょう(足を失った彼女が望むのであれば、ですが)。一方、父親は娘が生き恥を晒さず、悲劇の少女として生きていけることに安堵するでしょう。母親は変わりないでしょうが、少なくとも彼女の無理解も見た目上は減るでしょう。(それとも娘を襲った突然の悲劇に取り乱すでしょうか?)そうすれば、彼女は母親の歪さにも縛られず、父親の怒りにも縛られず「どこまでも遠くに行ける」のではないかと思うのです。
ですが、後ろ足を失ったとて、彼女を取り巻く状況が本質的に変わるようには見えません。彼女の本質が変わるようにも思えません。寧ろ足を失うことによって、彼女は息苦しいこの世界から這い出す力を失ったようにも見えるのです。四足歩行は消極的なものとはいえ作中数少ない彼女の「意志」によるものだからこそ、それができなくなることの意味は大きいです。だからこそ、彼女は「もうどこにも行けない」のではないでしょうか。
また、徹底的に「動き」のない小説だな、と思いました。目立つ変化と言えば、物語冒頭、主人公の女の子がまるで限界まで擦り減った糸が切れたかのように二足歩行をやめようとすること、そして父親が彼女の変化に娘の奇行に心から激昂するくらいです。他にはあまり大きな心の反応は見えません。もし他にあるとすれば母親への絶望くらいでしょうか。少なくとも、一人の少女が二足歩行をやめたと言うのに、誰も大した変化や反応を見せないんですよね。精々が奇異の目を向けるか、無理解のままでいるかです。そこに作者様の徹底した絶望を感じました。
それとですが、題名とキャッチコピーが魅力的ですね。直立二足歩行は人類の特権です。それを捨てるということは人間であることをやめることの象徴として扱われてもよさそうなものです。ですが彼女はそれ以外の点においては理性的な人間であり続けた。彼女がやってることって、徹底的に合理主義的なんですよね。二足歩行を「やめる」ことは、彼女が感じている「息苦しさ」を打破するための方法として、少なくとも彼女の中では最も妥当である手段です。それに彼女が望んだことは、獣になることより、赤ちゃんになることでした。それがまたこの作品を象徴しているようで……。
素敵な作品をありがとうございます。
あきかん:
80/100 合計点
内訳
20/20 文章
20/20 構成
10/20 テーマ
30/40 面白さ
総評
文章が上手い。一人称をここまで軽快に扱えるのは羨ましい限りです。リズミカルな文章に従って読み進めていくと、そこには重い話が展開されていました。
足取りが重くなる、などと時たま言うこともございますが、まさに今作はそういったお話でございまして、立って歩くのが辛いならハイハイで歩けば良いじゃない、と思い切りの良い主人公が何やかんやと悩みながら、最後に歩きだします。
これからどうなるのかしら、と不安いっぱいになりながらも、主人公のこれからに幸多いことを祈りたくなりました。
27.高橋 白蔵主『暗室と結婚詐欺師』
辰井圭斗:高橋さん、こんにちは! 滅法面白かったです。最初から最後まで興味の持続がすごい。ぐいぐい読ませられてしまいました。
「すごく近くてすごく遠い」というタグを拝見して、私も一時期この賞向けに「すごく近い」話を書こうとしていたので、似たようなことを考える方もいるんだなと思いました。本作の「すごく近くてすごく遠い」はどこだったのかなと少し考えて、心情との距離や、人間同士の距離に言及してくれている人もいますが、私は案外夜と夕の距離なのではないかなと思いました。あまりによく似た、ほとんど鏡写しのような二人だけれども、どうしようもなく違う、そのことを指しているのではないかと思いました。
昆虫やイカの話が印象的です。天井がうるさいであったり、霧が濃くなる音がすると言うあたり、夜も人とは違う感覚を持っているんですよね。夕も同じで、だからこそ彼女は優秀な結婚詐欺師です。彼女の暗室は彼女が彼女の感覚のまま彼女である場所だと思うのですが、彼女はいわば自分の〝ホーム〟と言うべきそこに朝を連れてきてもなお、夜の代わりにはなれないんですよね。
初読は、ノーマルな結婚詐欺パートと、朝夕夜の物語が浮いていないかなとちょっと気になりましたが、改めて読むと、夕の振る舞いや考えを知るほど、夜の解像度も上がるつくりになっていて、この小説はきちんとあの別荘と暗室に辿り着く話なんだなと思いました。全体として、しっとりとした綺麗な作品でした。
姫乃只紫:はじめまして、高橋 白蔵主さん。姫乃只紫と申します。
人間を繊細かつ丁寧に描いた一作。何気に「危険さよりも名前の対称性に対する興味が勝ってしまった」ところに"私"の特性がよく表れているなと思っていて。あくまで私の感覚ですが、この「名前の対称性」という引っかかりさえなければ、彼女は申し出を断っていそう感あるんですよね。この他の人からすれば些末なことをそれなりに重要であろう意思決定の基準の一つとするあたりが、いかにも生得的に「人の心を感じるセンサーがない」人っぽいなぁと。
結婚詐欺師である"私"は、しかし相手にしている男性を破滅させたい、意のままにコントロールしたいというサディストでなければ、駆け引きをゲーム感覚で楽しんでいるわけでもなく、それこそ昆虫が持つ習性のように、相手の意思で支払わせては、ただただ使い切れない財貨を貯め込んでいます。そんな彼女はそれまで比較的好感触なターゲットに過ぎなかった由比朝が、夕の姿に夜を見ていた──朝のことを分かったつもりでいて、何一つ分かっていなかったことを知り、奇妙な爽快感に包まれます。
恐らくですが、この瞬間まで"私"にとって他人とは特別コントロールしたくなくとも、コントロールできてしまう存在だったのでしょう。特別見透かしたい欲はないのに、見透かせてしまう──ような気がする。だからこそ、彼女は孤独を感じていたわけですが、朝の件を通じて自分は何もわかっていなかったこと、これまで見透かしてきた(ある種そういう気になっていた)"他人"の一員であったことを知り、奇妙な解放感を覚えます。この感覚を「雨の上がる音」と描写する感性が美しい。
ラスト──二人は闇の中でひとつになり切れない、嘘に酔うに酔えない(恐らく酔いたいという欲求そのものはいくらかある)わけですが、思うにこの「嘘だとわかってはいるのだけれど離れ難い」という心境は案外人間にとってあるあるで。
"私"は自分が何もわかっていなかったという気づきを与えてくれた朝と夜を特別な存在と見なしているかもしれないけれど、正直彼女がこれまで騙してきた男性の中にも騙されていると薄々察してはいたけどどうにも離れ難かったという人フツーにいそうだよねと考えると、先に触れた名前の対称性──朝と夜という思わず「うん?」となる一風変わった名前がこの物語を創ったんやなぁと感心した次第です。
それでは、良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:
高橋 白蔵主様、今回は『暗室と結婚詐欺師』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
ひとまず僕の中では「小説はどこまで遠くに行けるか挑戦した作品」ではなく「小説はどこまで遠くに行けるかをテーマにした作品」として評価しました。物書きと結婚詐欺師、どちらも嘘つきが仕事ですが、彼女の男に対する様々な騙し手・演出とそこに含まれる人間観のドライさが書き手の絶望とシンクロするような気がしました。しかし、結末が「そんな嘘であっても生きるためには必要なのだ」と言ってくれるようで、どうにも喜んで善いのか悲しんでいいのかわかりません。
なにせ、「遠くに行かない、ただの嘘であってもそれこそが必要なのだ」とテーマに対するNOを突きつけられた感覚でした。しかし、この回答をする作品は他にもあって、創作者らしいなと思わされています。
具体的な内容について、すごく絶妙な「心情との距離」を考えさせました。別にそういう情緒がわからないわけじゃない、けど自分にはない、という微妙なしかしよくある人間性を、こんな風に解釈することも出来るとは思いませんでした。僕自身は「感じなくても、純粋に統計値として知ることが出来る」と思っている程度でしたが、なんだか本作の解釈の方が素敵だと思います。
豊かで綺麗な作品でした。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:高橋白蔵主さん、ご参加ありがとうございます。
この小説は幾つかの比喩で貫かれています。一つは昆虫の比喩、イカの比喩、もう一つは林檎の比喩。どれも視覚、ひいては感覚に纏わるものです。主人公である結婚詐欺師には、彼女が美しい思い出を見せてきた男達の習性が、手に取るように分かります。けれど人の心を受け取るセンサを持ちません。一方、朝は彼女が夜に似ているから(視覚、聴覚的にそう感じたから)近づきました。けれど夕と夜のどちらの思惑も知りえないのです。また、夜には常人には見えない何かが見えているようです。皆、他の登場人物には見えないものが見えて、他の登場人物には見えているものが見えてないのです。
その上で、登場人物達の「遠さ」が彼らの視覚聴覚痛覚を通じて描かれていくのです。
とても小説を書くのが上手い方だな、と思いました。主人公の人物造形を、昆虫やイカに重ね合わせることで「人の心が分からない」という設定の嫌味らしさが打ち消されていますし、一つの比喩に縛られないことで、比喩によるイメージへの影響を巧みに操作していらっしゃる。他にも色々あるんですが、幾つかの比喩を組み合わせることで、作品にその何倍もの効果を生み出していらっしゃる。
また、本小説大賞において、文体や構成を工夫することによって「文学的挑戦」をする作品は多々ありましたが、心情の描写や人間同士の「遠さ」だけで「小説はどこまで遠くに行けるか」という裏テーマに挑む作品は本作を含めて二つ、三つくらいしかなかった、と記憶しております。
ある意味トンチめいた回答ではあるんですが、それ以上に「遠くに連れて行ってくれる」小説ではあるんですよね。その点においてはこの小説を高く評価したいと思いました。
素敵な作品をありがとうございます。
あきかん:
70/100 合計点
内訳
20/20 文章
10/20 構成
10/20 テーマ
30/40 面白さ
総評
これは、新たな性癖に目覚めそうな一作でした。究極の寝取らせプレイ。なるほど、これは、エモいなと唸らせました。
誰も幸せにはならない。しかし、誰もが相手の幸せを望んでいる。
なにはともあれ、末永くお幸せに。
28.杜松の実『ゴールデンムーン』
辰井圭斗:杜松の実さん、こんにちは! 最初なんで文体が綻んでるんだろうと思ったんです。別にプロローグに比べて1がどうとか、1に比べてエピローグがどうという話ではなく、プロローグだけで見ても文体が綻んでいる。古めかしい文体の中にスマートフォンが出てくるとかそういう表面的なレベルではなく、この文体では使わない言葉遣いが出てくる。なんでだろうな、杜松の実さんは書こうと思えば整い切った文体でも書ける人のはずなのになと不思議に思っていました。
でもふと気付いて、これ僕の心の動きに合わせて文体が綻んでいるのかな、と思いました。主に莉茉をめぐって心が動けば動くほど、文体がいわば現代に振れるというか。だとすれば、面白い試みだなと思いました。話の筋自体は割とありふれている印象ですが、その分文体の挑戦を邪魔しない話ではあります。個人的にはもうちょっと話の筋が面白くていいかもとは思いましたが。
さすがの上手さの描写の中ではプロローグの最後、莉茉の登場とそこからの描写が白眉でした。ああ、これは心囚われるのも無理はないなと、一言も喋らせずに納得させる力量には感嘆しました。総じて水分を含んで薫るような作品でした。
姫乃只紫:はじめまして、杜松の実さん。姫乃只紫と申します。
改行と句点を削りに削ることで形成された"文字の壁"が特徴的な本作。恐らくはそれが本企画の裏テーマである文学的挑戦に当たるのでしょうが──とはいえ、何の意図も無しにこの文字の壁を採用したとは考えにくいので。私なりに考察してみる所存。
思うに、滾々と湧き出る言葉の束を傍観しているのかなと。頭の中に源泉とでも呼ぶべき箇所が複数あって、そこから溢れ出し、合流して一筋の川を成しているそれを「あー、いまこんなこと考えてるなぁ、こんなものが目に映っているなぁ」と"僕"が眺めて書き留めている。兎角そんな印象を受けました。
それゆえ、全体の雰囲気は静謐なのにどこか"僕"の余裕のなさを感じる文体が続くのだけれど、"僕"の心持ちが静かになってからは句点が出現──読み手を意識した読みやすい文章が浮上してきます。
と、一見気持ちの整理がついたのかと思わせておいて、ラストにはまた句点を置き忘れたかのようなちらっと覗く。そうは云っても心の片隅ではまだ──みたいな(笑)。心の機微を文体を使って変則的に演出した作品であると思います。
台詞が抑えめであるにもかかわらず、お互いがお互いにクソデカ感情を抱いていることがありありとわかる、お洒落な作品でした。良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:杜松の実様、今回は『ゴールデンムーン』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
文がずっと繋がっていて、めちゃくちゃ読みにくかったというのはそうなんですが、描かれている情景の鮮明さは確実に伝わってきました。そしてこれは、ただの挑戦であるのみならず、1個の演出であるようにも感じられました。
というのも、エピローグで途端に普通の、区切れのある文章になったのが、なんとも青年の心情をあらわしていて、読んでいて「もたついちまったなあ」と口から出ました。そういうある種のとんちの効いたやり方だったと思います。
長い文章が書きたい気持ち、とてもわかります。なので、好きなことをしながら演出にもしたというこの推測で正しいなら、非常に優れた挑戦であると感じます。
具体的な内容について言うと、物語として大きな動きがあるわけでもなく、そうであるからこそいいシーンであったと思います。勿論切ないのですが表面上波立たず、描き方の派手さに適合する穏やかなシーンでした。「すぐに立ち上がることはできなかった」で締められるものですから、小説の構造が巧いなあと終始思わされました。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:杜松の実さん、ご参加ありがとうございます。
本作では、後半になるにつれて文体が始めの緊張を失っていきます。言い換えれば、次第に文体が柔らかくなっていくんです。(これは最後の最後、文体が大きくシフトされるのとは別で、です)これが「めっちゃ凄い文体で書くぞ~!」と意気込まれた後の息切れであるならちょっとアレなんですが、そうではなくて、意図してそうなさった可能性の方が高いなと思いました。というのも、文体の変化が語り手の彼の緊張が次第に緩んでいく様を表してる、というのならしっくり来るな、と。それにしては少し時代がかった、前近代の日本文学に範を取っていそうな感じが作品の現代的(モダン)な雰囲気とミスマッチしているんですが、そこはもう作者様の好みや癖であると解釈すれば矛盾しません。
また、物語自体はとても静かなんですが、シチュエーションがとてもロマンチックで、それだけで十分人を惹き付けることができるものとなっています。その上で、過去など、登場人物が抱える背景を、回想の物語として現在に解凍することによって、小説の推進力にしていく。静かな物語の中ではよく見られる技法ですが、シンプルに上手かったです。
文体も、それ単体として見れば大変耳障りが美しく、楽しませていただきました。素敵な作品をありがとうございます。
あきかん:
80/100 合計点
内訳
20/20 文章
20/20 構成
10/20 テーマ
30/40 面白さ
総評
今作の最も優れた点は何処か、と問われれば描写と答えます。畢竟、これは耽美小説の類なのかなと私は思うわけですが、耽美小説とは何ぞや、と問われると言葉が詰ります。
しかしながら、何処か退廃的な雰囲気を帯びており全編にわたり美しい描写に溢れた今作を、私は耽美小説と呼びたいと思いました。
29.おくとりょう『黒猫の夢』
辰井圭斗:おくとさん、こんにちは! 優しい作品でした。リズム的なことに関しては、私は体系だったことが述べられないのですけど、特に「雨の夜に」は見事でした。リズムに関しては多くの方が触れるかなと思いますが、私がここもすごいなと思ったのは色彩で。非常に沢山色が出てくる作品ですね。しかも〝クリーム色〟や〝青〟など直接的な言葉で。でもそれぞれの色が混ざり合って黒ずんでしまうということもなく、割と楽しくぺたぺた塗っているように見えるのに、トータルで見た時にどこか風通しのよい余白というか透明感があるという不思議な作品でした。どうやってるんだこれ……。今思えば私が読んだおくとさんの作品は、子供みたいな無邪気さで塗っているように見えるのにいつもきれいだった気がします。リズムや色彩といい、耳や目がいいのか何なのか、なかなか言語化されないかもしれませんが、とても良い書き手だなと思いました。
ストーリー的には、視点が変わったり、時系列が素直でなかったり、いきなり透が出てきたりで、分かりにくくはあるのですけど、そこはこちらへの信頼なのかなと思いました。
作品の中心部分に〝死〟はあるけれども、全体としておくとさんらしい優しい印象の作品でした。
姫乃只紫:はじめまして、おくとりょう様。姫乃只紫と申します。
一口に云って、描写が素直。何てことないいつもの景色をぶらぶら歩いているとき、頭に浮かんだ文字列をそのまま書き起こしているかのような、良い意味で飾りっ気のない、軽妙且つ独特のリズムが可愛らしさを覗かせながらも、どこか大人びた作品です。大人のようで子どもでない。まさに「ふわふわ漂う私の気持ち」というコピーがぴったりの読み心地であると思います。
一読した時点で(恐らく)言葉選びと文章のリズムに注力されたことは明白であった為、「いや、自分が作者ならここでこの『嗤い』は使わないかなー」など一歩間違えずともそこそこお節介な楽しみ方もできました(笑)。そういう意味では、読み手を没入させやすい作りであるとも云えるかもしれません。ストーリー的には正直やや不親切設計であると感じたものの、前述した通り文学的挑戦として注力された箇所は明白であるため、その辺りをつっつき過ぎるのは野暮かもなぁなどと思う次第。
それでは、良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:おくとりょう様、今回は『黒猫の夢』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
どのような挑戦をなさったのかと読んでみたら、なるほどこのリズムかと思いました。ここらへんは藤田さんの得意分野なので詳しい言及はお任せしようと思います。ただ、これによって接続詞の違和感が拭えなかったところはあります。少女の語り口だから省略はよくあるという感覚もありますが、それでも違和感はあるかなと思います。
どうあれ、可愛らしい描写でした。本編の内容をきちんと把握できている自信はありませんし、多分「繰り返し」まで全部夢なのかな? というくらいの感覚ですが、とにかく描写が可愛かった。先述のリズムのおかげなのでしょうか。
総じて不思議な読後感を残し、それでも愛しさの残る作品でした。講評としては少し短くなりましたが、以上とさせていただきます。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:おくとりょうさん、ご参加ありがとうございます。
かなりの比率で文章が七五調・七七調ですね。私こういうの大好きですよ。自分でやろうとしたことがあるくらいには。ですから、おくとりょうさんがめっちゃ苦心してお書きになったであろうことは分かります。字数を韻律に添うように整えるのって、慣れたら即興でもできるようになりますが、流石に五千字近い文量でやろうとするのは大変ですから。で、おくとりょうさんが凄いのは、日本語が不自然になっていないこと。小説の雰囲気が殺されていないこと。どこで韻律を手抜きするか程良い塩梅を引き当てていることです。
ほんとに、これ凄かったです。韻文小説・または小説詩というジャンルにおいて、数々のWEB小説家・詩人が挑んでは敗れてきた「丁度いい塩梅」を引き当てているのですから。もし、この企画が小説大賞ではなく詩大賞だったら、私の大賞推薦作に選んでいてもおかしくはなかったです。そのくらい凄い技術力でした。七五調をどう操れば軽快さ、コミカルさを醸し出せるかを完全に理解しているのも、ポイントが高いところですね。
ただ、ストーリーは少し入りづらかったです。一気に色々な情報が明かされていくのですが、それが逆に音数律とアンチシナジーを起こしていました。七五調というのは読者に四拍子のリズムで文章を読ませるための技法です。それはつまり、一定の速度で文章を絶えず脳内再生させるということですから。「これは一体どういうことだ?」と種明かしを楽しもうと立ち止まれば快いリズムから脱線してしまい、リズムに乗ったまま読み進めようとすれば「何かよく分かんなかったな」に終着せざるを得ないのです。
その点、この『黒猫の夢』はどんでん返しに拘らずとも、一つ一つ情報を明かすだけで充分に楽しめる作品だと思います。読者を唸らす構成よりも、せっかく考えた面白い展開を分かりやすく読者に示すことを意識されてみてはいかがでしょうか。少なくとも、彼女が(ネタバレ)になったことと、彼女が一度(ネタバレ)でいることは別々に明かしていた方が分かりやすかったかなと思いました。
あともう一つ、気になることがあるとすれば、文章記号の使い方があまり良くなかったことです。例えば演劇の台本作りにおいて、やたら三点リーダーやダッシュが多いのは悪い台本だと言う共通認識が一部界隈にあります。必ずしも全ての作品に適応できる原理ではありませんし、小説というジャンルにおいても無条件に適応される原理だとも言いませんが、『黒猫の夢』に関しては当てはまるように思えました。細かく読者に指示を出さなければ正しいリズムが伝わらないのではないか、という危惧があるかもしれませんが、もう少し我々を信じてください。あれでは字面が冗長になるばかりです。
ともあれ、その企図の興味深さと技術力の高さには目を見張るものがあります。素敵な作品をありがとうございました。
あきかん:
90/100 合計点
内訳
20/20 文章
20/20 構成
10/20 テーマ
40/40 面白さ
総評
シリアスな作品が多いこの企画において、明るく前向きになるこの作品は清涼剤でした。
真面目な作品を書こうと思うと、どうしてもシリアスになってしまうのは人の常だと思っていますが、本作は真面目であっても軽妙さを失わず屈託のない読み心地は特筆すべきものだと思います。
素晴らしい作品を投稿いただきありがとうございました。
30.なんようはぎぎょ『頭に花咲いてる』
辰井圭斗:なんようはぎぎょさん、こんにちは! 彼女は、或いは彼女たちは遠くに行けたのか。悲観的に捉えれば行けなかった話でしょうし、一方で行けたと捉えてもいいのかもしれない話。距離的には東南アジアですが、恐ろしくリアルな(と思わされる)異国を肌感覚で感じさせられるという意味で、本企画に集まってくださった作品の中でも忘れられない一作になりました。
読みにくいのではと心配していらっしゃいましたが、全く読みにくくありません。むしろ、物語の視点となる人物が、よく分からない状況に巻き込まれていく上に、言葉もあまり通じないという読者の理解が難しくなる要素が多い中、よくここまで読みやすいものを書かれたなと思いました。
本作、最後まで行って最初に帰ってくる構造なのだと思っていますが、どうなっちゃったんだこれと思っています。これまでの経緯なら何とかなりそうでもあり、同時に不吉です。
本作の白眉はK王国の「人」かなと思っています。優しく接してくれることもあるけれど、その「優しさ」は日本人の優しさとは違う人々。価値観も、人との接し方も。それを書ききっていた、しかも浅い賞賛でも拒絶でもなく、かなりニュートラルに書いていたということがすごかったと思います。
非常に印象的な作品でした。
姫乃只紫:ご無沙汰しております。姫乃只紫です。
まず、タイトルのセンスが凄い。恐らくは"私"の元恋人である彼女の名前に因んでいるのでしょうが、自分が同様の思考過程に至ったとして、このタイトルには辿り着けない。何よりタイトルの抜け感と"私"の人柄、彼女を取り巻く風土のマッチ具合が絶妙です。
"私"は元恋人に会うために、元恋人の故郷を見てみたいとK国を訪れるのだけれど、まずこの行動を起こすに至れた理由のひとつに、"私"がかねてより胸の裡に抱えている、ここではない遠くへ欲求があるのではないかと思います。
この遠くへ行きたい欲求は、何かとネガティブに解釈されがちと云いますか、事実自身を取り巻く現状を、その人間関係も含めて図らずも否定してしまうわけだから、まあ幸せになりにくい思考パターンではあるのだろうけれど。云うて、この場合はそもそもここではない遠くへ欲求の持ち主でなければ、多分「長く願っていた土地」を踏む機会もなかったと思うので。とどのつまり、遠くへ行きたい欲求さえあれば、人間凡そ行けるところまでは行けるのだという意味で、読んでいて何かと勇気をもらえる作品でした。
作中において遠くへ行きたい欲求は、何も"私"だけの稀有なそれではなく、K国の人々もまた少なからず裡に抱いているもので。そう考えると、ここではない遠くとは人類普遍の夢と云いますか、魔性なんだなぁなどと思った次第。
余談。以前にも同作者の他作品を読ませていただいたことがあるのですが、隕石のスコールに降られるなどして早々に滅んだ方が良いのでは? という疑念をチラつかせる一方、その人たちなりの価値観に基づくやさしさをチラ見せ、まあ仮にそういうのなかったとしても実際滅ばれたら滅ばれたで凹むよね──的な集団を描くのが巧いと思います。人間って面白くて、愛しい。
それでは、良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:なんようはぎぎょ様、今回は『頭に花咲いてる』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
本企画趣旨に対する回答として、文学的挑戦の側面よりも純粋な面白さが強い作品だったと思います。主人公も異国の人々も遠くに何かを求めて、その結果がいいものかと言ったらそうではなくて、それでもはっきり悪いというわけでもない。「隣の芝は青い」といえば乱暴ですが、そんな理想と現実のあわいを描かれた、異国情緒溢れる良作であったと思います。ただ、大使館に着く・帰国するなどのわかりやすいゴールが具体的に描かれなかったことは大きな弱点であると思います(空港から迎えが来ることは書いてありましたが)。それでもなお魅力的なのは、まったくの別世界がしっかり描かれている作品出会ったからだと思います。共感のための作品ではなく、どこか別世界へ連れて行ってくれる作品というのは、必要な力のベクトルが違うというべきでしょうか。
ここまで書いて、こじつけですが、本企画趣旨との関連を思いました。もちろん先ほど書いたように「遠い国にやってきた」という話もそうですが、それ以前に「小説が遠くに行ってみたとしても、必ずそれ以前の創作を懐かしむことになる」というような示唆を感じます。しかしそんな遠い世界が、快適かどうかは別として面白いことも本作に描かれています。そんな異国情緒の深まるレシピも楽しみにしています。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:なんようはぎぎょさん、ご参加ありがとうございます。
読みにくい文章ではないかと心配されていますが、普通に読みやすかったです。少しぶっきらぼうな語り口ではあるかもしれませんが、作品の雰囲気と非常にマッチしており、下手にいじくるよりは、本作のように現在の文体を活かす方向性を続けられてはいかがかと存じます。
本当に、作中ずっと主人公は酷い目に遭いますね。踏んだり蹴ったりではないですか。それでもこの作品の読後感が爽やかなのは、多分、この小説には悪意がないからなんだろうなぁと。
情緒のない言い方をするならば、彼女とK王国の文化との摩擦が、巧みにコントロールされて書かれている、ということでしょうか。K王国の人々のほとんどは優しく、行く先々で彼女を助けてくれます。その優しさが本当に美しいか、その助力が彼女に理解あるものかどうかは全くもって別の問題ですが。でも、だからこそ、終盤に少女と『凄い風』、と言葉がダブり、屈託のない笑顔を目の当たりにするシーンが映えます。
ただ単に「異文化って衝突することもあるけれど、同じ人間なんだから分かり合えるよね~」に堕さず、それでいて絶望に到るでもない、非常に前向きな、それでいて健全な小説だと感じました。
素敵な作品をありがとうございます。
あきかん:
80/100 合計点
内訳
20/20 文章
20/20 構成
10/20 テーマ
30/40 面白さ
総評
ルポルタージュ的な面白さが光る今作。東南アジアのどこかの国に訪れた主人公が厄介事に巻き込まれながら流されるまま運ばれていく。
諸行無常。それでも個人の意志は失われないのは主人公の強さなのか。
好きなジャンルの話でした。続編を待っています。
31.ムラサキハルカ『縄』
辰井圭斗:ムラサキさん、こんにちは! 細い縄がよりあわさって1本の縄を構成する時、細い縄ってめぐって見える範囲から消えて、また出て来てを繰り返しますけど、そんな作品でした。もちろん、縄はそれだけでなく作中でも印象的に登場するのですが。場面の途中で丁寧に関連性を持たせながらも大胆に場面を変えていくのには、最初面食らったものの、好きな書き方だなあと思いました。場面の切り方、接続の仕方が丁寧かつ意外で、ドキリとする場面もあり、特に前半部翻弄されながら読みました。あと、とても読みやすいですね。
読後感は私にとっては「どういう感情を持てばいいんだ」でした。人生は続いていく感はとても感じた一方で、「これ、書かれていない次はネガティブなイベントが来るんじゃないか」という気がして、最後が結婚でめでたいのですけど、良くも悪くもポジティブな読後感ではありませんでした。別に全ての小説がポジティブに終わらなければならないなんて馬鹿な話はありませんが、この小説の場合、敦志が割と状況に流される人(この小説の書き方向きではありますが)なので、「大丈夫かなあ……」とは思うのです。この人は果たして次に来るものを乗り越えられるんだろうか、という心配が先立ちます。後半部はポジティブなイベントが続いて弛緩するので、なお一層どういう気持ちでいたらいいのか分からない。「人生なんてそんなもんだよ。他人の人生にクリアな感情なんて持てると思うなよ」と言われたら、「そうかもね」とは返すのですが。どんな気持ちでいたらいいのか分からない小説は色々とある中、評価されやすいタイプの作品かと言われると、私はちょっと頷きづらいところがあります。
でも、特に前半部はかなり楽しみながら読みました。
姫乃只紫:ムラサキハルカさん、はじめまして。姫乃只紫と申します。
この手の場面転換を多用した作品に『縄』と命名するセンスが秀逸。タイトルが先か、本文が先かは定かではありませんが、いずれにせよ。
まさに人生の断片をより合わせて作った"縄"のような構造こそ、本企画の裏テーマに応える部分なのでしょうが、各断片が一見無造作に繋がっているようで、その内容に緩急があるところが面白かったです。
とはいえ、緊張感のあるイベントのあとには必ず弛緩的なイベントが用意されているかと云うと然してそんなこともなく。その変に物語めいていないところも努めて人生のより合わせを真摯に描いているなぁと思います。読み手の読解力──と云うよりは、読み手の人生観によって読後感が大きく変わる作品ではないでしょうか。
余談。私事ですが、大学時代海外ドラマにどっぷりだった私はこの手の場面転換に憧れ(少なくとも私の観ていた作品では多いイメージがある)、自作に用いたはいいがどうにもしっくり来ず、断念したという記憶があるのですが、件の作品に触れて「ああ、こうすればよかったのね」と納得致しました。もしまた執筆する機会があれば、ぜひ参考にさせていただく。それでは、良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:ムラサキハルカ様、今回は『縄』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
まさに文学的挑戦というか、これよく一編になったなと思います。各話が単語の近さによって縄のように、なめらかに接続していきながら、時系列バラバラに人生一つ描き出していました。
多分これは、相当うまくやらないと意味不明に終わってしまうものだと思います。しかし本作は敦志の人生を十二分に描いているのみならず、それが理解できる配列であるところに技量を感じます。これだけの文章の壁ですが、読み返しが苦になりません。ただ、ピエロの話が最終的にどういう意味をもつのか。そのあたりがよくわからなくて、方針が決まらないまま書いている時の名残か、あくまでスタート地点として書いたものなのか今でもわかりません。
他に難点はなく、時系列をこれほどバラバラにしているのによくこれほど綺麗に収まったものだと思います。あるいは、この順にしたことで、決定的に物語的というわけでもない人生を物語風に仕上げてあるのかもしれません。
それと、緊張と緩和の使い方が大変素晴らしいものでした。いじめから赤ん坊の拳、告白から別離、破局から激辛チャレンジ、本当にこの順番が最も適切だったんだろうなと思います。物語の構造に挑むというのはこういうことなのだなと感動しました。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:ムラサキハルカさん、ご参加ありがとうございます。
なんで題名が『縄』 なんだろうと思ったんですが、多分これ、物語の構造についても言及している題名なんですね。この作品において、主人公の人生はダイジェストで、かつ絶え間なく描写されていきますが、それは一方向から平面的に見た「縄」に似ている。短い斜線を繰り返すように捻じられた縄、それが作品のモチーフなのでしょう。きっと私達には見えない向こう側で繋がっている。けれど、この作品においては描写されない。
これが私のこの作品の題名に関する解釈です。
さて、やはりこの小説で目を引くのは、この特徴的な「ぶつ切りにされた時間を再び溶接する」という構造ですが、いったい作者様は小説にこの構造でどんな効果を齎した、または齎そうとしたのでしょうか。少し考えてみますね。
もし効果があるとすれば、読者の彼の人生に対する見方を操作することができるということでしょう。本作においてムラサキハルカさんは、断片のシーンを繋ぐ際、アイテムや状況をシンクロさせることによって、一瞬だけ固定された映像を軸にして転換を行っています。作者様としては、題名にそぐう構造を与えると同時に、展開をなだらかに、自然に繋ごうと意図されただけなのかもしれませんが、まだ何かありそうな気がして……。
恐らく本作は、彼の人生の中から特に「印象的な」部分を編集したものなのでしょう。文章は三人称で描かれていますが、視点は基本瀬田敦志さんにあります。言うなれば、彼の記憶を作者や読者が覗き込んで、追体験しているような感じでしょうか。
ストーリーとしては「いじめられたり、失恋したりもしたけれど、今では家族と幸せに平穏な暮らしを送っています」という類のものです。けれど御堂良太君の下りなどを見ると、彼の人生はきっとそんな単純なものじゃなくて、ちゃんと表現が多元的に分かれるようなものだったのだろうな、とは思うのです。
文字数上限が二万字もあれば、彼の人生をぶつ切りにせずとも綺麗に描写することは可能だったと思うのですよ。けれどムラサキハルカさんはそれを選ばなかった。七千字ほどでコンパクトに、かつ断片的に纏めることをお選びになった。
それは結果的に物語の外にある人生を読者に思わせることとなり、表し切れないものを表し切った振りをするのではなく、読者にも分かる形で「表さない」、とても誠実で真面目な作品を生み出すこととなったように思うのです。
真っ直ぐで、かつ挑戦的な作品をありがとうございます。
あきかん:
60/100 合計点
内訳
20/20 文章
20/20 構成
10/20 テーマ
10/40 面白さ
総評
これは意図した文章なのかというのがわたしのもっぱらの関心事でして改行ルールはどうなんだといった面白いポイントに終始気持ちが持っていかれた気もしていますが結局のところの文意はつかめませんでした。申し訳ありません。
32.@Pz5『シャーロット恒星間飛行船』
辰井圭斗:Pzさん、こんにちは! 参加作の中でトップクラスにハードSFしていると思いつつ、同時に古風さを感じました。一つの作品の中に複数の時代を感じます。遥か遠くの未来を、古典SFの時代のSFの香りを、マリーアントワネットの時代を、そしてもちろん『オデュッセイア』や『アルゴナウティカ』を。なんとも言えない読み心地の作品でした。
非常に丁寧な作品です。終盤の展開に至る原因に時間のずれがありますけど、それまでにシャーロットの言葉遣いなど、言われないと意識しない微かな違和感を忍ばせているので、驚きはありつつも唐突な印象はありませんでした。終盤の展開は「悲劇」といってもいいものですが、殊更な嘆きを見せない。大人でビターな、しかしどこか爽やかな読後感でした。
和菓子さんがルーカスの言葉を引いていますが、音で言えばスターウォーズ的な賑やかさではなく、ハインラインやクラークなどの作品を読んだ時の音を想起しました。宇宙は無音だと言いたいんじゃなくて、あの都度シンプルに一曲流れているような感じと言って、あまりに感覚が個人的過ぎるでしょうか。事程左様に、古い香りはする作品だけれども、決して古臭くはない、生きた古典を今生きている書き手が書くならばこうなるのかもしれないというような、魅力的な作品でした。
姫乃只紫:@Pz5さん、はじめまして。姫乃只紫と申します。
当方SFビギナーなのですが、すんなり読み進めることができました。思うに、「バミューダトライアングル」「セイレーン」といったそちら方面に詳しい読者でなくとも何となく知っている、見れば何かしらを連想できてしまうワード選び、加えて良い意味でどこか古風な展開がビギナーにも受け入れやすかったのかもしれません。他の評議員の方も触れておりますが、複数の時代の調和を感じる一作でした。
取り分け凄いと思ったのが、ラークの船員たちとシャーロットの関係にそれほど多くの文量が費やされていないにもかかわらず、ラスト──端末から流れる「We’ll Meet Again」の歌詞がグッとくるところでして。スマートな文量なのに、関係の密度がきちんと伝わる。「残念ながら、最も見せたいであろう箇所はカメラに近づけ過ぎて、焦点が合わず、却って不鮮明にしてしまっていたが」という一文からも感じたのですが、過不足ない描写で伝えたいことを伝えるのが巧い(この一文だけで、シャーロットの人柄が掴める)。改めて書けば書くほどイイってもんじゃないな──という当たり前を思い知った次第です。
それでは、良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:@Pz5様、今回は『シャーロット恒星間飛行船』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
あくまで僕の予想に過ぎませんが、本企画趣旨に先ず「いやどこにも行けないね!」をつきつけて来たのはPzさんが二人目です。しかしその一方で、それに抗う未来が暗示されていたと思います。遠い宇宙の果てへの旅も、シャーロットのことも、不可能と思われる困難に向かうことをやめない様がEp.末にあらわれていて、とてもクールだと思いました。
具体的な内容について、真っ先に思ったのが「俺の宇宙では音がするんだよ」でした。Pzさんにとってそれが端緒であったかはわかりませんが、それとは別に、僕はどうしても意識してはしゃいでしまいました。「ドラえもんの足は3ミリ浮いているんだよ」並に強いなと思いました。
加えて3の最後がとても怖くって、決定的な破綻が起こってしまったという印象を強く与えてきました。映画『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』の最後辺りが近い感覚です。
色々な他作品を引き合いに出しましたが、やはりしっかり纏まっているからこそ、こういう類似があらわれると思います。より大枠でまとめると、知性と技術が十二分に尽くされた作品でした。そうであるからこそ、「遠くへ行く」ことの難しさを重々承知していらっしゃって、それでもという思いを感じられる作品でした。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:@Pz5さん、ご参加ありがとうございます。
とてもよかったです……。最後、歌詞を読んで目がうるっとしてしまいました。
使われている技法に関してはリフレインによる和声とシンプルかつ分かりやすいものなんですが、それが「セイレーンの歌声」という物語の主題や描写と重なり合うことによって、その効能を何倍にも増しています。すごかった……。
物語の展開も、これ橋守のおじさん当時の生き残りか何かなんだろうなあ……と思わせつつ、ああ、やっぱりそうだった、っていう起伏自体は少ない構成なんですが、処理の仕方がとても素敵なんです。「ええ、今でもずっと、彼女と共にいるんです」とか「あら、ごめんあそばせ?」の下りが本当に良い……。格好いい小説でした。
雰囲気の作り方もうまいですよね。宇宙空間での暇つぶしにわざわざオペラを持ってくるのとか。全員、ネットで時間を浪費するだけの人間になっててもおかしくないんですが、そういう、喜劇的な名詞を持ち込まずに、シリアスな語彙だけで作品世界が成り立っている。読み終わって、余韻に浸り終えたところでようやく「何でそんな遠回りな娯楽ばかり選ぶんだ?」とは疑問に思うんですが、いやでもそういうこともあるか……ってなるくらいの塩梅で。
あと、印象的だったのが、登場人物が絶望に取り乱さないということです。緊急事態に慌ただしくなることはあるんですが、オットーやシャーロットにあんなことがあっても彼が取り乱す描写をせず、ダッシュによる省略によって、作品をどこか静かなままに進行させていく。そんなところもクールだと思ったのかも知れません。
あきかん:
80/100 合計点
内訳
20/20 文章
20/20 構成
10/20 テーマ
30/40 面白さ
総評
SF×セイレーン。複素空間、つまり愛なんですね。彼女の愛に捕らわれた哀れな男の物語なのだと。
といった具合に解釈しましたが、数学には疎く果たしてどんな座標軸なのかと頭を悩ませながら読ませていただきました。これぞSFの醍醐味です。ありがとうございました。
33.藤田桜『花は頽れ、思いは届かず、僕ら互いに傷つけ合って』
辰井圭斗:藤田さん、こんにちは! 藤田さんのマヤものですね。想い想われと時間の複層のなか、刹那通じ合ったかに思われる瞬間は総て大事なものへの背信に繋がっている物語。1の序盤は少しカメラが寄り過ぎです。1はイツィ目線で、彼に周りをゆっくり見る必要も余裕も無いのは分かりますが、牢とあるだけで周りの情景の情報に乏しいので頭の中で画を作れない。だらだらと情景描写するべき場面ではありませんが、引きの画で見せる文章が一文入っているだけで読みやすさが違います。最後と対照させるロケットスタートを切る分、そのあたりの読みやすさを担保する小技は必要だったのではないかなと思います。二度目だと気にならないんですけど、初読では気になりました。
後は――言うことが無い。見事でした。2で〝君〟がイツィからシホムに移り変わることで、バラフ・チャン・カウィールが心を向ける相手が変わったことをどうしようもなく分からせる描写には恐ろしい心地がしましたし、シホムはあまりに可憐で、舞う彼の〝青の粉を引いた瞼が照らされ、陰り、照らされ、翡翠鳥の羽根のように表情を変えていく〟場面はうっとりとするような鮮やかさでした。そして各々の想いの複層が厭な重みをもたずに書かれていく。感情自体はそれぞれ所謂〝重たい感情〟なのですけど、きれいであり続ける。重たさを持ちながらも相手と自分の関係において決して越えない一線がある感情でした。そのあたり、もう作者自身の感覚なのかなと思ったりはしますけど、推し量るのも僭越ですね。
今後書き手としてぶつかる壁があるとすれば、(ユクノーム・チェーンをメインキャラに数えないとして)メインキャラが全員真面目で善人で思いやりがあって感受性に優れるところかなとは思いますが、この作品単体で見た時に評価が下がるポイントではありません。
変わらず、あなたの作品が、そして書き手としてのあなたが好きですよ。好きなところが沢山ある作品でした。
姫乃只紫:こんにちは、藤田桜さん。姫乃只紫です。
こと小説なるものに並々ならぬこだわりを持ち、書き手としてすでに洗練されていながら、なお伸びしろを感じさせる一作。いや、こだわりを持っているのはこの企画に参加している人たち皆そうやろというツッコミはごもっともなのですが、殊更伸びしろの部分を強く感じた次第でございます。『2』の後半──「俺達ふたりが互いのためだけにする、ささやかな儀式」に至っては、美しいものを書きたいという書き手としての気概が透けて見えるようで色々凄まじかったです。
余談。手が届かないものの象徴として「星」が選ばれる度に思うのだけれど、その決して届かない星の輝きに万に一つ手が届いたところで、輝く星そのものは疾うに失われているかもしれないって話、ロマンチック極まってて好きなんですよね。
それでは、良き作品をありがとうございました。
和菓子辞典:お疲れ様です。あきかんさんも辰井さんもそうですが、よく評議員やりながら書くなキャパどうなってんだと思います。というわけで藤田桜様、今回は『花は頽れ、思いは届かず、僕ら互いに傷つけ合って』をお寄せいただき誠にありがとうございました。
描写の妙とかもう通じあうことのない結末とか色々見所たくさんで、全体としてきれいに纏まった作品だったんですが、一番の見所は2の「君」だったと思います。こんな惨くてシンプルなやり口があるかと舌を巻きました。花を弟と間違えるんじゃなく弟を花と間違えるのとか、まったくもう。
それと、最初最後に対比があるせいでどうしても読み比べてしまって、「兄ちゃん君悪い男だよ」という感傷を抱きつつもどうにもならない思いがあったんだろうと、読後感のやりきれなさを強調してきます。
欠点と言えば情景を想像しにくいことでしょうか。物体は描かれているがそれをまとめて出来た風景は存在しない、といった感覚です。それと、本企画趣旨に対する回答としては精神的距離の話であるのでしょうが、僕の感覚(解釈)とは少しずれていて、違和感を覚えました。
あとはまったく素晴らしい、やりきれない一作でした。改めてご応募ありがとうございました。
藤田桜:自作です。詳しくは座談会にて。
あきかん:
評議員の方の作品なので、勝手気ままに語らせていただきますと、まず持って美しい作品だな、と思いました。
まあその点は置いておくとして、「兄さま」呼びが好きです。「お兄さま」とどちらが良いのか悩ましかったのですが、これからは「兄さま」呼びを推して行こうかと決意しました。
それほどまでに弟さんが可愛かったです。
選考会議
辰井:大変だったねとか裏テーマどうだったとかの座談会は後ろに回すとして、早速選考会議をしましょうか。今回5人いますので、5人が3作ずつ挙げてはカオスになりますから、それぞれ2作大賞候補とそれを推薦する理由を言ってください。イメージとしては大賞1作、金賞1、2作、銀賞1、2作です。では、「せーの」と言いますので、候補作2つお出しください。せーの。
辰井:椎名蝶太郎さん『ごし』、ポテトマトさん『青い繭のなかで』
姫乃:候補作は椎名蝶太郎様の『ごし』・押田桧凪様の『不揃いな足』です。
和菓子辞典:和菓子辞典の大賞推薦は偽教授様の『絶望に捧げる挽歌』とムラサキハルカ様の『縄』です。
藤田:ポテトマトさん『青い繭のなかで』
狂フラフープさん『重さのない瓶にきみを詰めよう』
あきかん:私が推薦するのは以下の2作です。
@dekai3『【紡がれる星の物語 ~the sp[u]n star story~】』
柴田 恭太朗『文学コラージュ・衝突する文豪たち』
辰井:おお……。
藤田:これは……割れましたね。
辰井:みなさんありがとうございます。ここから各々推薦理由を言って頂こうと思うのですが、まずは私から。(ここ、入力に時間かかっても全然いいですからね。ゆっくりでいいので、丁寧に書いてください)
辰井の候補作は『ごし』『青い繭のなかで』です。『ごし』はとにかくバランスがよかった作品なのですけど、やはり全作振り返ってもギリギリを攻めた上でのバランスのよさでは一番だったかなと。「小説はどこまで遠くに行けるか」でバランス? と思われるかもしれませんが、誰にも分からないものを書いても「遠い」とすら認識してもらえないので、賞に出す、つまり誰かが読むという前提の上では、挑戦しながらも読める作品を成立させる力は重要だったかなと思います。『ごし』は読めるギリギリまで遠かった。なので、この賞の大賞としてまず『ごし』を推します。
次に『青い繭のなかで』は何層にも読み甲斐のある作品で、とてもストレートに「文学的挑戦」をしてくださった作品だと思っています。私は講評の中で、「これは小説を書く人間の話じゃないか」と言っていて、端的に言って燃えました。これは妄想じゃないと思っていますが、例えこれが妄想だったとしても、作品が持つ圧倒的な音楽的感覚とストーリー、そしてそれを仄めかす文章の美しさで十二分に推せる作品だと思っています。
以上により『ごし』『青い繭のなかで』を大賞に推薦します。
姫乃:椎名蝶太郎様『ごし』
前半にエントリーして下さった作品は後半になるにつれてどうしてもいくらか印象が薄れてしまうのだけれど、件の作品にはそれがなかった為。全作品を読み終えてなお味わった読後感が鮮烈でした。あとは講評に書いたことをほぼほぼなぞる形になってしまいますが、企画の裏テーマである「遠い」の捉え方が独創的だと感じました(私は本作の細やかな描写力から記憶と幽霊、果ては日本の怪談話を連想したため)。
押田桧凪様の『不揃いな足』
純粋に刺さる部分が多かった。また、自分が件の作品の書き手になった場合、たとえばラスト──まぶしい光の正体が「自動車」ではなく「自転車」であるところとか、細かな選択に共感できる部分が多い(簡潔に述べるとここでやって来たのが自転車だからこそ「わたし」の"人生"の読後感は良い意味で締まらないのである)。「二足歩行をやめた」という選択からは諦めのイメージがつきまとうけれど、単に諦めと呼ぶには「わたし」の意志力が半端なく、万人受けとまでは行かずとも(元よりそこを目指された作風ではないでしょうが)刹那的な解放感もあってバランスの良い秀作であると思います。
以上により『ごし』『不揃いな足』を大賞に推薦します。
和菓子:まず『絶望に捧げる輓歌』は、本企画の裏テーマに対する最もスマートな回答であり、なおかつ普遍的な可能性を示唆している点が評価のポイントになりました。書き手の望みや世間の需要が変われば創作のありようも変わる、この発想は非常にスマートであるうえに、社会も大きく変化しているであろう未来に創作の希望がありうることを示してくれたと思います。むろん、枠組みは変わらず描かれるテーマだけ変わるかもしれませんが、可能性が示されたことだけでも素晴らしく思います。
もう一つ『縄』は、挑戦的であることが最もわかりやすく伝わってくるとともに、それを優れた手腕でうまくまとめ上げていたところを強調したいと思います。物語の構造に反抗すると破綻するのはよくあることですが、本作は展開の緩急が非常に優れていて心地よく読み切れました。挑戦的であるが故に理解から離れてしまう、これもひとつの面白みではありますが、僕は大衆性と意地の両立が大好きなので本作を支持しようと思います。
藤田:私が大賞に推薦させていただく二作は『青い繭のなかで』と『重さのない瓶にきみを詰めよう』です。まず、『青い繭のなかで』は、文学的挑戦としての回答が非常に優れていたという点が大きいです。たった四千字とは思えないほどの満足感、そして広がり。青い薔薇というモチーフが繰り返し用いられますが、そのひんやりとした、それでいて生暖かい、甘ったるい香りが伝わってきそうな様は、もう凄まじいとしか。やっていらっしゃることは独特の構成、複雑な情報配置と、結構王道な感じは受けるのですが、そういったことをやった作品の中でトップクラスの完成度だったことも(つまりレッドオーシャンを制したと言いますか)一因です。
次に『重さのない瓶にきみを詰めよう』ですが、裏テーマへの回答として相応しくないのではないかという意見もあると思います。それでも私がこの作品を大賞に推薦するのは、この作品が見せた回答が非常に真っ直ぐで切実なものであったからです。というのも「小説はどこまで遠くにいけるか」という問いに対して、表テーマ的な回答の仕方で「どこにも行けないんだよ」と答えるという姿勢、一見「ズレている」答えのように思えますが、私は逆に裏テーマに真っ直ぐに向き合った結果であると解釈しました。「非模範解答」ではなく「反模範解答」というべきか。この作品は、そういった答えを見せてくださった作品群の中でも断トツにクオリティが高く、かつ美しかった。
以上が、私がこの二作を大賞に推薦する理由です。
あきかん:私が大賞候補を選んだ基準を最初に話します。
裏テーマの「小説はどこまで遠くに行けるか」と「文学的挑戦」を分けて選考しました。
まず、「小説はどこまで遠くに行けるのか」を基準に@dekai3さんの『【紡がれる星の物語 ~the sp[u]n star story~】』を上げさせていただきました。こちらの作品は、投稿いただいた全作品の中で、作中で最も遠く(物理的距離!)へ小説を飛ばした作品だからです。また、何処の誰かも知らない何処かのあなたへ物語を届けたい、という気概、気位の高さが作品の主題にも表れており、この企画に最も相応しい作品であると思い、今作を推薦しました。
続きまして、「文学的挑戦」を基準に選考したのが、柴田 恭太朗さんの『文学コラージュ・衝突する文豪たち』です。
「文学的挑戦」と言っても、投稿いただいた作品はどれもが作者にとって挑戦的な作品であったのかもしれません。その中で、客観的にわかりやすい基準で「文学的挑戦」をしていたのがこちらの作品だと思いました。
一言で述べれば、ポストモダン。文章自体のオリジナリティの否定。物語をつむごうとすることに対する関心のなさ!!
感動しました。文章はまだまだ新しい遊び方があるのだと、そう思わせてくれる作品でした。ですので、私は最も文学的挑戦をしていたと感じ、今作を大賞に推薦したいとおもいました。
辰井:ありがとうございます。
2票集まったのが椎名蝶太郎さんの『ごし』とポテトマトさんの『青い繭のなかで』。
1票だったのが押田桧凪さんの『不揃いな足』、偽教授さんの『絶望に捧げる挽歌』、ムラサキハルカさんの『縄』、狂フラフープさんの『重さのない瓶にきみを詰めよう』、@dekai3さんの『【紡がれる星の物語 ~the sp[u]n star story~】』、柴田 恭太朗さんの『文学コラージュ・衝突する文豪たち』でした。
2票集まった2作から決選投票で大賞と金賞を選び、1票集まった6作から銀賞を選ぼうと思いますが、異論はありますか?
姫乃:私は異論ありません。
和菓子:ありません。
藤田:異論はありません。賛成です。
あきかん:異論ありません。
辰井:では、『ごし』と『青い繭のなかで』で決選投票をします。1人1票でどちらか選んでください。選んだら、その理由もあわせて言って頂くのでご準備お願いします。同時に書き始めましょうか。
辰井:私は非常に悩ましい。非常に悩ましいです。両方推していましたから。強いて言えば……ちょっと考えさせてください……コントロールしきっている感じを評価するなら『ごし』です。あれは「書けちゃった」ではなく「書いた」作品だと思っています。ただ、作者にとっての文学的挑戦、自分の書いて来たものの更新という意味では(どちらも挑戦してくださったとは思いますが)『青い繭のなかで』の方によりそれを感じました。うーん……今すごい悩んでいるんですけど……決めました。『青い繭のなかで』。
姫乃:一応──という前置きはアレですが、元より推した立場なので『ごし』を。『青い繭のなかで』は「文学的挑戦」というテーマに誰が見てもわかりやすい視点から挑まれた作品として素晴らしいと思いますが、生憎色々わかりにくい方が好きな読み手なので(笑)好みの問題ですね。
和菓子:『ごし』に投票します。本作の、身体感覚を追体験させようとする書き口が非常に心地よかったからです。
(全員Googleドキュメントで同時に書いているので、みなさんが悩み悩み書いている様子がとても楽しいです。ぜひご想像いただけると……)
藤田:『青い繭のなかで』です。『ごし』と比べた時にこちらを選ぶ理由としては、作品の持つ「ひろがり」があります。行間に含まれる情報量というか、香気というか、そうしたものが圧倒的でした。言うなれば好みにはなってしまうのですが……。『ごし』はきっかり一万字分の満足度に収まってしまった、という感じがしたので。また「あなたの行く先を祝う、遼か遠くに向かう小説の産声を聞けますように」という私の挨拶文に忠実に従うならば、こちらだな、と感じたことも一因としてあります。
あきかん:その二作からならば、大賞には『青い繭のなかで』を推薦します。私の感覚のみの基準で申し訳ないのですが、『青い繭のなかで』は物語を語るよりも文章の表現を優先しながらも、その中でギリギリ小説という形を保っていたように読めました。文章として繋がっていたか判断できなかったのですが、何か物語を読み終わったような読後感があったので、投稿作品の中でも印象に強く残っています。
辰井:決まりましたね。
姫乃:うむ(何が「うむ」なのか)
和菓子:辰井さん揺れに揺れてましたね。
藤田:手に汗握る展開でしたね……! 心臓破れるかと思った。
あきかん:白熱した展開でした。
辰井:では大賞はポテトマトさんの『青い繭のなかで』です。おめでとうございます!
姫乃:おめでとうございます(*´з`)
和菓子:おめでとうございまーす!
藤田:おめでとうございます! パチパチパチパチ(拍手)!
あきかん:おめでとうございます!!
辰井:金賞も決まりましたね。金賞は椎名蝶太郎さんの『ごし』です。おめでとうございます!
姫乃:おめでとうございます♬(ノ゜∇゜)ノ♩
和菓子:おめでとうございまーす!(姫乃さんの顔文字かわいい)
藤田:おめでとうございます! パチパチパチパチ(拍手)! いやはや、凄い瞬間に立ち会いましたよ私。
あきかん:おめでとうございます!
辰井:さて、銀賞なのですが、
押田桧凪さんの『不揃いな足』、偽教授さんの『絶望に捧げる挽歌』、ムラサキハルカさんの『縄』、狂フラフープさんの『重さのない瓶にきみを詰めよう』、@dekai3さんの『【紡がれる星の物語 ~the sp[u]n star story~】』、柴田 恭太朗さんの『文学コラージュ・衝突する文豪たち』
のうちから各々一作ずつ推薦する作品を選んで、蓋を開けてみましょうか。これでいいですか?
和菓子:もしかして各自が各自の選んだ作品に票を投げてぱっかり割れるのでは。どうしたものか。
藤田:少し、推薦作が二作とも残っている人が推している作品が不利になる気もします。一人二作? いや、三作くらいではいかがでしょうか。
あきかん:一人一作の推薦だとばらけて決まらないかと思うのですが。
辰井:ごもっともだと思いました。二作か三作かちょっと悩むな……。
藤田:二作だと、二作推している人の票が動かない説があります。
辰井:そうですね。
和菓子:自推1他推1とかどうでしょう。意味ないですかね。
辰井:それだと票が不自然な偏りをする気がします。本来作品の推薦に、自分が推しているか、他の人が推しているかの違いはあまり関係ないはずなので。
三でいきましょう。一人三作。
和菓子:了解です。
藤田:了解しました!
辰井:では、みなさん、三作選んでください。
私は『重さのない瓶にきみを詰めよう』『不揃いな足』『縄』
姫乃:『不揃いな足』・『重さのない瓶にきみを詰めよう』・『【紡がれる星の物語 ~the sp[u]n star story~】』
和菓子:『絶望に捧げる輓歌』、『縄』、『重さの無い瓶にきみを詰めよう』です。
藤田:『不揃いな足』『縄』『重さのない瓶に君を詰めよう』を。
あきかん:『【紡がれる星の物語 ~the sp[u]n star story~】』『重さのない瓶にきみを詰めよう』『文学コラージュ・衝突する文豪たち』
辰井:全員から票が入ったので、狂フラフープさんの『重さのない瓶にきみを詰めよう』が銀賞ですね。おめでとうございます!
姫乃:おめでとうございます₍₍ (ง ˘ω˘ )ว ⁾⁾
和菓子:おめでとうございまーす!(満場一致!)
藤田:おめでとうございます! とても魅力的な作品でした……!
あきかん:おめでとうございます!まさかの満場一致!
辰井:さて、続いて個人賞を選んでください。大賞に推していた作品の中から選んでもいいですし、全然別の作品を選んでもいいです。私はなんようはぎぎょさんの『頭に花咲いてる』で。
姫乃:私は柴犬ニ成乃さんの『半日分の述懐』です。
和菓子:偽教授さんの『絶望に捧げる輓歌』に個人賞を授与させていただきます。
藤田:私は繕光橋 加さんの『もはや食後ではない』を個人賞に選ばせていただきます。
あきかん:私はラーさん『あのラカンパネラは遼遠に』です。
辰井:ありがとうございます。では、それぞれ理由を書いて頂けると嬉しいです。
辰井:『頭に花咲いてる』は、距離的には東南アジアの話なんですけど、身体的に小説を読ませる感覚が飛び抜けていて、「遠さ」を〝実感させる〟という点で優れていました。挑戦としても、主人公にとってよく分からない状況が続き、言葉もあまり通じない、よく分からない状態のままぐいぐい読ませるという難易度の高いことをおやりになったと思います。
姫乃:『半日分の述懐』は、「手が届かないほど遠くにある遠さ」を描いている作品が多くを占める中、件の作品は「手元にある遠さ」を描いていると思えたので。「ああ、確かに人って社会のつながりから切り離された(実際には当人がそう思い込んでいるだけなのだけれど)とき、周囲にありふれた何でもないものがひどく眩しく見える、遥か遠くに思える瞬間ってあるよなと。新たな気づきを与えてくれた──というより、かつて味わった感覚を思い起こさせてくれた作品と云う意味で個人賞に推させていただきたく。あと、大賞に推薦しなかった理由としては、大賞に推すというスポットライトを当てることで件の作品を形成する何かが損なわれてしまうように感じたためです。まあ、個人的にはそういう引っ掛かりを覚える作品が一番好きなわけですが。
和菓子:『絶望に捧げる輓歌』の推薦理由は先述の通りですが、特に、今後の希望を示唆する点から個人賞としたく思います。
藤田:『もはや食後ではない』、これを個人賞に選んだ理由は作品世界が非常に魅力的だったことが挙げられます。あと、これは消極的な理由なのですが「マルチエンディング」の効能について疑問を示される他評議員さんが多かった中、藤田はその技法が成り立っていると認識したこともあるでしょう。
あの「旧約聖書の時代の蛇がそんな現代的な喩えのチョイスはしないだろう」とか色々気になるところはあるんですが、それさえ巻き込んで魅力にしているのが凄かったです。蛇が回顧するという形式を取るなら、記憶が彼の中で改竄されたり変化しててもおかしくはないですからね。結果、蛇の胡散臭さ、キャラクターとしての魅力を引き立てることとなったと思います。
いや、物凄く好みでした。言葉遣いとかそういうのも含めて。二万字めいいっぱい使った作品の中で、一番満足感が高かったです。
あきかん:推薦理由は、単純に投稿作の中で一番好きだからです。裏テーマ関係なしに選ぶのならば、ラーさんの『あのラカンパネラは遼遠に』です。細かいことは置いておくとして、個人的に今作が一番好きです。
辰井:個人賞も出揃いましたね。これで賞は全部揃いました。選考会議はここまでとしたいと思います。お疲れ様です。
姫乃:お疲れ様ですლ(´◉❥◉`ლ)
和菓子:お疲れ様でした。一仕事完結させた満足感ありますね。
藤田:お疲れ様ですー!! いやぁ……すごかった(語彙喪失)
あきかん:お疲れ様でした。
辰井:このあと座談会をしようと思いますが、みなさん、話したい話題とか、もっとみんなで話したい作品とかあります?
和菓子:裏テーマに対する各自の解釈が知りたいですね(藤田さんと被ってる!)。あと、評議員の皆さんにも企画参加された方が3人いるので、参加者としての感覚などお話を聞きたいです。……裏テーマに対する解釈は言わず秘すべきところかもしれない、というよりこれ以上言葉を尽くしてはいけないところかもしれませんが。
藤田:和菓子さん、いいですね、参加者側! 藤田も話したいし聞きたいです。藤田は、裏テーマへの各評議員の解釈とか聞きたいです(えへへ、和菓子さんとおそろですね)。話題に上げたい作品としては『十四歳』『風』『クヮヰド』『蚕は空に羽ばたけない』『暗室と結婚詐欺師』『シャーロット恒星間飛行船』、あと『∃h∈楽園,年代記(n)∧神不在(n)』も(正直言うと全部話したいし聞きたいんですが、キリがなくなってしまう)。
辰井:了解です。途中で話題追加してもいいので、それぞれ話していきましょう。まず裏テーマの解釈なんですが……よく聞かれるんですよね。どういうことですかって。でも私はあれで謎かけをしたつもりは一切無くて、限りなく正確に考えていることを伝えたら企画概要に書いているあれだったんです。だから、どういうことですか? と聞かれてもあれ以上答えられない。答えてしまうと正確でなくなるから。
ただ、来た作品に関しては、最大限それぞれの遠さを感じ取ろうとは思いました。遠さを見出せないと切り捨てるのは、遠くない行為だなと思うので。みなさん、いかがでした? あ。順番ばらばらで大丈夫ですよ。
藤田:分かりました! じゃあ次私行きます! 初期段階で藤田がつまりこういうことなんだろうな、と思っていたのが、辰井さんが『首吊りいふか』でだったでしょうか、姫乃さんに語っていらっしゃったことで「誰も行かない野原に行って、こっちにいい匂いの草があるよと伝えるみたいな作品を書きたい」みたいなことを仰っていたのが、まずありました。あと、『風』を読んで「それ以外の」という言葉、これがキーだな、と。あとは、それが参加作品読んでいく中で解釈が醸成されていった感じです。
最終的には参加された作品の中にその境地まで辿り着けた作品があるのか分からないくらい難しいお題だったとは思うんですが、すごく有意義な戦いだったとは思います。
あと、一時期「読者をどこまで遠くに連れて行ってくれるか」を基準にしようと考えたことがあるんですが、それじゃ狭すぎるな、と。
辰井さんが「限りなく正確に考えていることを伝え」ていらっしゃるというのは同意です。そもそもテーマが非常に言語化しにくいというか、最適な形で口にしても伝わりにくいというか……その概念を共有するとか伝える、という意味でも意義のある企画だったと思います。
姫乃:自分は本企画に作品を投稿した立場ではないので、当然評議員としての裏テーマの解釈に留まるのですが──「文学的挑戦」というワードから所謂型にはまらぬ、というより型から脱しようとあがくような作風を求めているのかなと。この場合、あがきの末に出来た作品というより、あがきそのものを見せてほしいという熱量が強かったのやもしれませんが。そう考えると、コントロールされている感が達者な作品より、粗削りな部分はあるもののその余白に可能性を感じさせる、今後を期待させる作品が高評価を得やすい(この傾向自体は恐らく本企画に限った話ではない)のは暗にそういうことなのかもしれません。色々なあがきにお目にかかることができて、良き企画だったのではないでせうか。
和菓子:僕も藤田さんと同様『首吊りいふか』からの考えで、割と解釈が「物語らしからぬ物語が読みたい」なのかなと思っていました。なのでどうにも明確に遠い遠くないがありましたね。話が新規性に集約されていた感じです。(講評ではなるべく様々な解釈をしましたが、僕個人の基準はこのようでした)
しかし講評を書く中で、出力された作品の新規性はともかく、書き手の出力しようとする努力の方にフォーカスするべきなのかも知れないと思うようにはなりました。
あきかん:裏テーマについて語るのなら、大賞の推薦理由で書いた通り、小説をどこまで遠くへ飛ばせるか(物理!)と文学的挑戦を意識して投稿作品を読ませていただきました。
自分も本企画に作品を投稿したわけですが、最初に投稿しようと考えていたのが、砲丸投げのように小説をぶん投げる競技をする作品を考えていました。まあ、自分には書けなかったわけですが、小説をどこまで飛ばせるか(物理)のアイデアを出せていたなら大賞に推薦しようかな、と思っていました。
それともう一つ。文学的挑戦の前に文学の価値に重きをおいて読みました。文学の価値は、作者の興味や関心、インタレストがその価値だと桑原武夫『文学入門』には書いてあります。それを強く読み取れるかどうか。が本企画の裏テーマにそう評価かと思って作品を読ませていただきました。
藤田:あー。なるほど。私もコントロールを意識して「自分にできること」の中に収まってしまっている作品より、できないことさえどうにかやってみせる作品の方が評価高めに考えていました。藤田はそこまで辿り着けなかったので自作が「自分の全力ならどこまで届くか」という作品になった感はあります。もっと遠くに行きたかったです。
辰井:講評を書く人の間でもある程度解釈がまとまっていたり、バラバラだったりするわけで、つまり裏テーマの解釈が一致しないということは、評価基準も一致しないということなので、その点賞としてどうなんだという批判は当然あり得るかなとは思っています。それでもわがままで企画を始めたのですけど。
和菓子:それはそれで面白かったです。ミステリアスでいい企画でした。
藤田:わがままとしてこんなに素晴らしいわがままはそうそうない気もします。評議員の基準が一致しないのは、寧ろよかったんじゃないでしょうか。私はそう思っています。
姫乃:あくまで個人的な意見ですけど、何かしらの賞に自作を送る以上、その心境は挑戦者なので。各評議員の解釈が一致しない、評価基準が一致しないなどといった点は推して知るべしと云いますか、ある種の攻略ポイントとして、作品を書く側が頭捻る箇所ではないかなぁと思われ。
辰井:ありがとうございます。まあ、こういうところは講評書く人だけで言い合っていても仕方のない領域で、あとは参加して下さった方がどう思うかかなと思います。
和菓子:まさに次の話題ですね。
辰井:参加してみてどうだった? という話ですね。あきかんさんと藤田さんと私は参加した訳ですけど、いかがでした?
藤田:気概としては「評議員じゃなきゃ入賞しててもおかしくなかった」と言われるような作品を書きたいというのがありました。あと、大好きな辰井さんの企画なので、全力を絞り出せるだけ出して書こうという気持ちがありました。「辰井さんに読んでもらえるなら」ですね。なので、評議員として見本を早めに出そうとかそういう考えは一切なかったですね。ギラギラの野心で参加しました。ちなみにですが、講評の欄、自作語りしまくるつもりだったので、お二人とも「ノーコメント」とかそもそも名前消していらっしゃったりするの、潔くてびっくりしました。
辰井:ここで語ってもいいんですよ笑。
藤田:じゃあ、少しだけ。御言葉に甘えて。まず私は「新しい小説の“型”を作ろう」という思いで拙作を書きました。初期案では「サビ入りABサビABサビ落ちサビラスラビ」のJ-POP形式を小説に落とし込もうと。じゃあ使うべき技法はリフレインとパラレリズムだなと考えました。また、マヤとかネイティブアメリカンの文学って、反復の技法が中心として用いられているんです。そこも噛み合わせが良くなるので、よしそれでいこう、と。で、作品の主題である「通じなさ」とこの技法を組み合わせることで効果を何倍にも増幅できるな、と考えてますます志を固めました。「心理的遠さ」は、和菓子さんも指摘してくださっているんですが、辰井さんに『サデュザーグ』で感想頂いたことを活かそうと、九割勘でそこらへんは書きました。時系列を一旦分解して、情報が最適な順番で読者に提示されるように再配列する、というのは使い古された手ですが、藤田の苦手分野だったため、その技法を我が物にせんと企画参加作の一つ二つ前の作品から練習を重ねて、今回の作品で結実させたつもりです。一年くらいのWEB作家歴で積み重ねたことの集大成と、ささやかな一つのチャレンジを両立させる、というのが結果的な目標になりましたね。
和菓子:(少しだけといいつつガッツリ語り尽くすの物書きらしくて好き)
あきかん:私の参加動機は二つです。まず、自分が講評する基準として出しておこうかと考えました。端的に言えば、これより出来が良い作品なら、仮に主催の辰井さんが投稿作に怒っても私は全力で擁護できるかな、と。あとは、自分の中の文学を明確にするために書きました。文学的価値、自分の関心ごとは何処にあるのかを実際に意識して書くことで明確になると思い執筆しました。これもまた、文学的挑戦かな、と。
和菓子:僕は自分の中の解釈が固定されるのを恐れて参加しなかったんですが、なるほどそういう考え方もあるんですね。
辰井:私が参加してどうだったかという話は裏で500字くらい書いてたんだけど、「いらねーかな」って消しちゃった笑。まあいらないんでしょう。藤田さんが話したい作品を挙げてくれたので、順番に話しましょうか。まず、『十四歳』から。藤田さん、どうでした?
藤田:最初、ひらがな比率がだいぶ多い状態で埋め尽くされているの見て、ぎょっとしたんですが、思ってたよりずっと読みやすくて、なんでこんな読みやすいんだろうなーって思ったので、やっぱり文章のお話をしたいのと、
皆さんはこの作品の「文学的挑戦」がなんであるか、どうお捉えになったのか、(具体的に言うとやっぱり文体がそれなのか)、お話したいなーって思ってこの作品を挙げました。
辰井:藤田さん、ありがとう。そうなんですよね。あんなにひらがな多いのにすごい読みやすくて。漢字とひらがなの比重に多分とても気を遣ってらっしゃるのもあるけど、文章自体とてもうまい。私はジュージさんはファンが多いからわざわざピックアップしなくていいかなと思ってたんだけど、読んだらピックアップしちゃった。
藤田:ジュージさん、『みんなこわい話がだいすき』の時点からこういう文章に強いことの片鱗をお見せになっていらっしゃったんですが、このレベルでも出せるのが本当に衝撃的でした。文章が無駄に捻ったものがないのとか、句読点の使い方がうまいのもあるかなあ、とは思いつつ、やっぱり漢字やひらがな、カタカナなどの文字配置が凄すぎますよね……。
辰井:あの作品でやろうとしたことについては多分結果発表のあとにジュージさん自身が書いてくれると思うんだけど、正直私は分からなかったんだ。すごいうまいのは確かだし、講評で書いたように何ともいえないものが本当にうまいのだけれど。
和菓子:確かに、本企画の裏テーマに対してどうかというところは難しかったですね。ホラーのまま優しい終わり方をしたのが僕としては特徴的だったなと思うんですが、はっきりとしないところだと思います。
藤田:実はジュージさんホラーじゃなくて現代ドラマに分類してるのが興味深くもありましたね。ホラーをお書きになる時の筆致なんですが、タグは「現代ドラマ」っていうのが。
裏テーマについては、藤田はストーリーの構造面にも何かひと仕掛けあるのかなって思って読んで、実際あったように思うのですが……。
辰井:あまりみんな分からなかったのかな。『十四歳』が素晴らしかったのは前提として、だけれども。あと私はあの作品、ホラーだと思っていないんです。何人かがホラーって言っているのが不思議で。
藤田:姫乃さんが「他の小説大賞に出されても受け入れられそう」的なニュアンスのようなことを仰ってるの見て、私もそうだとは思ったんですよね。そのくらいレベルの高い作品でした。
ホラーについては、藤田は理屈ではこれがホラーではないことは分かります。でも、藤田は多分「お母さん」もしくは傍観者寄りの読み方をしてしまったので、そこでホラーの先入観を抱いてしまったんですかね……。
辰井:別にどちらが正しいということでもないと思うけれど。あと文学的挑戦部分に関しては恐らくこちらが読めていないだけではないかな。
藤田:「読めていない」はどうしても出てくるだろうな、とは思いつつ、でも凄く読めるようになりたいとは思うことですね……。私以上にレベル高い人達がガンガン参加しまくる企画だったので、できるなら全員分の作品解説を拝読したいとは思ってしまいます。
和菓子:そうですね、わかりませんでした……。ジュージさんの後語りが半分楽しみ、半分悔しげに読むことになりそうです。(わかりたかった)
辰井:時間的に制限があるので、もうちょっと語りたいですけど次いきますか。『風』? 飛ばす?笑
藤田:これは作中語られる「風」が何であるか、講評で書いた以上のことがありそうだな……読み切れなかったな、と思って、個人的に知りたいだけなので。皆さんが宜しければ、ものっすごく気になりますが、飛ばしていただいても、構いません。
辰井:冗談だけれども笑。えーと、「風」か……。大体藤田さんが読んでくれた通りなんだけどね。凶兆の風であり普遍の風なんだけど、確かに彼女と会った時に外で吹いている風はずれている。元々、過去と革命が起こった時に風が吹くのは最初から決めていたけれど、彼女と会う時の風は、その場で吹かせたので、一貫性は無いかもね。個人的には物語的道具立てに一貫性があり過ぎるのはちょっとあまりやりたくない。
藤田:なるほど……! ありがとうございます!
あきかん:『風』といえば、辰井さんの『風鳴り』に近い読み応えがあった気もします。比較するなら後者の方がわかりやすくて私は好きですが。
辰井:うん、作者も『風鳴り』の方が好きです笑。このくらいにしますか。次『クヮヰド』。『クヮヰド』は『頭に花咲いてる』とどっちを個人賞にしようか迷ったくらい好きですね。文章大好き。
藤田:『クヮヰド』は本当に凄かったです。
和菓子:世界観が……なぜ洋楽が……読み終えてから頭真っ白になりました。
藤田:そうなんですよね。評議員殺しの作品だとは思います。正直藤田も読み切れませんでした。
和菓子:でももう一回読んでみると本当に広がりというか、背景となる思考がどれだけのものか、という方向で圧倒してくるので、逆に語る部分が多すぎになる感もありました。
藤田:私、あの作品トランス状態に入る儀式とかを読者に体験させるような構造だなぁって風に思ってます。
辰井:個人的にはゆかりのある作者さんで、というか一方的に読んで頂いていたんだけど、割と私の周りにしては珍しく、いろんな評価をしてくれる方で、今回作品を読んで結構これまでの評価に納得した部分がある。
姫乃:儀式>
確かにキーボード打ってると云うよりかは石碑に刻んでますみたいな熱量を感じるそれではありましたね。個人的には遠くをモチーフとして書きました~と云うよりかは、遥か遠くの世にも残っていそうなものを目指して書きましたという印象を受けました。
藤田:凄く小説らしくない小説ではあったんですが、でもちゃんと小説だった。私はこの小説をけっきょく大賞にも個人賞にも推さなかったんですが、それでも評価されてほしいくらい「遠くに行った」と感じた作品ではありました。
あきかん:『クヮヰド』に関しては、これ一作では判断できないものがありました。独自の型を持っているようにも読めましたし、それは作者の他の作品を読まなければ判断できないと感じました。ちょっとこの一作のみで講評を具体的に書くのは、自分には出来ませんでした。
辰井:この一作で講評が書けるか問題はともかく、他の作品も読みたくなる作品でしたね。次は『蚕は空に羽ばたけない』ですね。
和菓子:あれ、「まゆちゃん」って呼びかけるシーンがなぜか文章に埋もれないの怖かったんですよね。それで、主人公がどういうキャラクターであるかを強く伝えてくる。
辰井:うん、あそこの名前のところははっとした。あと、母から娘への呪縛の物語だと思っていたんですけど、かなりの部分自分自身への呪縛の話だなと思って。
藤田:私、この作品を「どこにも行けない」と叫ぶ小説だと思ったんですが、多分そういう点を受けて思ったんだろうな、という風に思っています。狂フラフープさんのと競合しちゃって大賞には推さなかったんですが、でも、凄く好きな作品でした。
和菓子:「どこまで(も)遠くに行けるか」に「NO」と来る作品がいくつもあったのはなかなか刺激的でしたね。
姫乃:「蚕は空に羽ばたけない」というタイトルですが、そもそも「蚕は空に羽ばたきたいのか問題」にブチ当たってくるところが「あ~(声にならない声)」ってなるポイントですよね。講評でもちらと触れたのですが、羽ばたけない理由を探していると云うか、それらしい言葉を使うと現状維持バイアスフルスロットルみたいな。母親が極めてわかりやすい毒親という(物語として)"救い"がないところもミソかと。
藤田:あと、評議員によって、どの作品が「NO」と突きつける小説か、解釈が別れやすそうなのも面白かったです。私もまゆちゃんが自分自身を縛るのは、蚕が繭を張るみたいだなぁと思って、好きでした。
辰井:次『∃h∈楽園,年代記(n)∧神不在(n)』ですが、私この作品読んで宮塚さんほんと上手いなというか、上手い人は沢山いた賞なんだけど、エンタメ性というか娯楽性みたいなところとのバランスでいくと、宮塚さんが一番プロに近いんじゃないかと感じました。
和菓子:文体の切り替え方と乱れなさ、「こいつッ基本が違うッ」となりました。
藤田:私、講評で和菓子さんが「二つが併進して」って仰ってるのに対して、自分が「現世の物語は動かず、夢の物語ばかり進んでいく」って書いているのが面白いな、と思って。
和菓子:割と裏を読むというか、宮塚さんの書いている物を僕の中で補完していたところがあったかもしれません。かつそれでいいかなと思いました(そういう読み方想定なんじゃないかなと)。なので、動きの言及はまさにそうだと思います。
藤田:私、宮塚さんの作品たぶんまだ二三作くらいしか読めてなくて。他の評議員さんとそういう点でも読み方の違いあるの楽しかったです。夢の物語ばっかりサクサク進んでいくのが、あの作品の良かった点として考えていたので(これは思考停止で動きに違いを付ければいいという話ではなく、あの作品かつ宮塚さんだからできた、というのは私も思うのですが)。
辰井:『暗室と結婚詐欺師』はどうでした? めっぽう面白かったですけど。「すごく近くてすごく遠い」は私もやろうかなと思っていたので、来たなと思いました。
藤田:私あの作品を「心理的遠さ」一本で裏テーマに回答している数少ない作品だと思っていて。それであの凄さって言うのが、もう。めっちゃくちゃ印象に残りました。
「朝が望むなら、私は朝と結婚することができるよ」のそうじゃないよ、でも夕は痛いほどに「そうじゃない」と分かって言っているんだろうな感のあるラスト、本当に本当によかったです……(語彙喪失)。触れられる距離にあるのに、相手の奥底に決して触れることができないような感じ。
辰井:「心理的遠さ」でいくと、藤田さんがやろうとしていたことと、ちょっと似ていたりもする?
藤田:辿り着こうとした場所は近いのかな、とは思います。今回の自作は結果的に「書けちゃった」タイプなので……。この方ほど貫けてはいないんですが。
辰井:なるほど。あと『シャーロット恒星間飛行船』はどうでした? 私あれ、Pzさんが〝ジャンルは一応「SF」となっておりますが、センス・オブ・ワンダーは主眼になく、ゴシックロマンが主成分です。〟って呟いていらっしゃるけど、本企画トップクラスにハードSFしてるじゃんと思ってしまった。
和菓子:肉に染みついた知識と技術がある作品でしたよね……そのSFぶりはもう勝手に出来た部分なんじゃないかなくらいに思っています。ゴシックロマンについては、3のラストが本当に幻想的かつ怖かった。
藤田:私は「藤田はSFに詳しくないので(逃げ)」を連発してしまったんですが、本企画に投稿されたSFらしいSFの中では一番この作品が好きでした。
辰井:裏テーマがあれだからなのか、今回SF多かったですよね。
藤田:あきかんさんが宇宙関係の講評、物理的遠さでやってらっしゃるの見て、なるほどそいういう手段もあるのか、と。
あきかん:お恥ずかしい。それはそれとして、今回の企画のSFはどれも面白かったです。『シャーロット恒星間飛行船』のセンスオブワンダーはオチに強く出ていたと思います。
辰井:私追加で『サクラ・ザ・ギャラクティック』の話をしていいですか。話をしていいですかというか、「大好き!」って叫ぶだけなんだけど。
藤田:はい。むしろ私ばっかり「この作品語りたい」と要求してしまってすみません……!
辰井:いえいえ。いやー、好き。もう肩の力を抜いて楽しめてしまった。
あきかん:好きです!!
和菓子:もう最高でしたね。やー! どかーん! ばこーん! という感じでした。
藤田:作者様自身の「好き」もいっぱい詰まった作品でしたよね。怒涛のパロディが楽しかったです。
姫乃:うっとりハチベエで早くも笑ってしまったものだから、「ああこれ笑った時点で負け必至だから、かしこまったこと書いてもな(笑)」という意味で確かに肩の力を抜いて楽しめる作品だと思った(評議員にとっては有り難い存在であったと思われ)
藤田:私、時代劇要素とSFと忍殺の両立について気難しめの講評書いてしまったんですが、それはそれとして忍殺要素の導入、時代劇の化けの皮を自分から剥いで、正体表した感があって笑ってしまいました。
辰井:ほか話したい作品・話題がある方はいらっしゃいます? 無かったら終わるよ。
藤田:おくとりょうさんの『黒猫の夢』がしたいです。
辰井:追加は随時。『黒猫の夢』はもちろん講評を書いてから、おくとさんの自作語りを読んだんだけど、「こっちに行ってくれてありがとう!」と思った。ほんわかというか、優しい方に行ってくれてありがとうって。もちろん書き手が書きたいものを書けばいいんだけど、私優しい読み心地のおくとさんの作品大好きなので。
藤田:今回、七五調とその優しい読み心地のマリアージュが最高でした。好き。それと、私辰井さんの講評の「色塗り」の辺り拝読して、「わぁ本当だ!」となりました。
辰井:うん、直接的に色の名前が沢山出てくる作品でしたね。しかも色指定が細かいの笑。朱とか。でも講評で書いたように、色でぐちゃぐちゃにならずに、きれいだった。
藤田:多分、それも優しい語り口とのシナジーの影響を受けていると思うんですよね……藤田の中でもかなり綺麗な色で再生されたんですが、そういう印象を受けました。
辰井:さて、追加が無ければ終わりますが、終わりにあたって、宣伝ごとなどある方はいますか? 藤田さんはあるかな?
藤田:他小説大賞のお話していいんですか?
辰井:もちろん。
藤田:ありがとうございます! ……それでは、
今回七月一日から始まりました『第四回偽物川小説大賞』!
第一回遼遠小説大賞に『絶望に捧げる輓歌』を寄せてくださった偽教授さん主催による企画です。テーマは「愛」、アガペー・エロス・プラグマ・ストーゲイ・ルダス・マニアの合計六部門から、最大合計三作ご参加できます! よろしくお願いします! (藤田は今回評議員「偽のマヤ」として参加させていただくことになりました)
辰井:はーい! 後でリンク貼っておきますね。他宣伝ある人は? いない? 終わるよ? 終わります。お疲れ様でしたー!
和菓子:お疲れ様でした!
姫乃:お疲れさまでした。
藤田:お疲れ様です。ありがとうございました!
あきかん:お疲れ様でした。
おわりに
私が講評を書く時は毎回「読ませて下さりありがとうございました」と書きます。定型文のコピペではなく、毎回そう思いながら入力しています。今回は講評が一覧になっているので、都度書いているとくどいかなと思って端折っていましたが、本音を言えば毎回書きたかったです。
こちらで申し上げます。参加して下さった皆様、読ませて下さりありがとうございました。すごい作品ばかりでした。主催者はとても幸福な時間を過ごしました。もしまたご縁があればどこかでお会いしましょう。
え? 二回目? 辰井の文学観が更新されたらやります。その時の裏テーマが何になるかは分かりませんが。もっと強くなって戻って来るので待っててね。ではまた。
辰井圭斗拝