第二回遼遠小説大賞ここまでの振り返り④
第二回遼遠小説大賞の募集期間も今日を入れて残り3日となった、参加作が続々と集まってきていて、とても嬉しい、どうか今書いている方も締切に間に合わせてほしい。
さて、恐らく募集期間中最後の振り返りである。ここまでエントリーしている19作品目まで振り返る。
振り返り
杜松の実さん『ドキュメンタリー』はかなり変なことをしている。お気付きになっただろうか。語りの順番が普通あり得ないのだが、そのあり得ない語りを成り立たせる工夫が丁寧にされていて、うっかりするとすんなり読めてしまう。通常の語りの規律から離れようという強い意志を感じるが、それだけで終わらないのが本作の面白いところだ。
真狩海斗さん『三位一体の実験』は非常に野心的な作品だった。ここまでの参加作中でもトップクラスの野心と、それを形にするに十分な筆力でもって読み応えに満ちた小説になっている。どうか未読の方は、最終盤の光景を目の当たりにしてほしい。そこまでに至る語りも表面的にはニュートラルな歴史記述でありながら、大衆小説的なデフォルメでもって退屈させない。
堕なの。さん『千五百秋』は「幻想」やある種のトリッキーさが多くなりがちな遼遠小説大賞参加作の中で、珍しくそういう仕掛けのない作品だ。しかし、鋭い感性によって切り取られる一瞬一瞬の積み重ねによって、ありもしない永遠性を垣間見たような気がした。十分な遠さを持った作品で、私はすっかり魅了させられてしまった。
五三六P・二四三・渡さん『テレパスもどきと』は、私にとって蜃気楼のような小説である。読もうとして、解釈しようとして文字面を追うと、小説の本体はズレて更に先に揺らいでいるようなそんな小説。要するに私はまだ捉え切れていないし、他の評議員が比較的クリアな感想を呟いているのを見て驚いている。
ここで誤解がないように言っておきたいが、私は小説が「分からない」ことを悪いことだとは全く思っていない。読み手側(私)の力量不足を感じる一方で、分からないからといって、その小説が悪いとは全く思わないのだ。分からないが良い小説というのは山ほどあるし、一般読者ならともかく賞企画をやる立場の人間が「分からなかった」という言葉を作品を切って捨てる護符のように使うのは見るたびに軽蔑を新たにする。私は絶対にそれだけはするまいと決めている。
問題は分からないならどう分からないかであるし、分からなさの先に何がありそうかであるし、そしてそもそも、私はなるべく分かりたい。私は、『テレパスもどきと』と向き合ってまだやることが沢山ある。
石田くん『プラトニック・スウィサイド』は「ポスト青春時期」の心の揺らぎを書いた作品だった。もう外形上「大人」にはなってしまっているけれども、「自立」はできていない時期の腫れぼったい心の蠢きと、一話読み切りが緩くつながるという形式はとてもよくマッチしていた。どの程度作者を反映しているか知らないが、こういう作者と作品の一期一会的な作品でエントリーしてくださったことが嬉しい。
佐倉島こみかんさん『葵先生の『作り話』』は、繊細な内容を扱った作品で、その問題に触れる手付きと書きようがあまりに丁寧なので、涼やかな風が吹き抜けるような読み心地の小説だった。「物語がどこまで遠くに行けるかは、受容する側にもかかっている」というスリリングな提起は、葵先生の『作り話』を聞く四者四様のあり方で見事に描かれていた。個人的には「聞き落していた部分」の描写がドキドキとした。
立談百景さん『ヤバき者』は、スゲーでっかい肉をスゲーでっかい包丁でゴンゴン切って行って、最終的になんかびっくりするほど旨い料理が出て来たみたいな小説だと思った。「ヤバい」が繰り返される一種「語彙貧」のような文章を包丁に見立てているのだが、その非常識なまでにデカい包丁でこそ生み出せる味わいがある。最終的には巨編叙事詩を読んだような読後感。なんだこれ。