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愛と美の関係とは/原理講論研究(11)

原理講論は、愛と美の関係によって、人間関係を再構築することを教えています。

「神から分立された二性の実体が、相対基準を造成して授受作用をすることにより四位基台をつくろうとするとき、それらが神の第三対象として合性一体化するために、主体が対象に授ける情的な力を愛といい、対象が主体に与える情的な力を美という。ゆえに、愛の力は動的であり、美の刺激は静的である。」(p. 72)

ここで原理講論は、主体が対象に与える力を愛と呼び、対象が主体に与える力を美と呼んでいます。愛に対して愛で応える関係という言い方で表現されることを、あえて愛と美の関係で表現するところに、原理講論の特徴があります。互いに愛し合う関係という言い方よりも、愛と美の関係という言い方の方が、より現実に即していると言えるかもしれません。

原理講論は、男と女の関係や親と子の関係を、愛と美の関係で説明しています。人と人との関係において、互いに同時に愛し始めるということは、ほとんどありません。どちらか一方が先に愛を与えることから関係は始まります。男と女の関係においては、もちろん例外はあるでしょうが、まず男が女に愛を与えるということがあって、その後で、女が男に美を与えるという順序があることを、原理講論は想定しています。親と子の関係においても、親がまず子を愛することが先にあって、その後で、子が親に美を与えるという順序が想定されています。目上の人と目下の人の関係においても、まず目上の人が目下の人を愛することが先で、その後で、目下の人は目上の人に美を与えるという順序が想定されています。

では、愛と美の関係における美とは、いったいどのようなものなのでしょうか。

原理講論は、目下の人が目上の人に与える美を「忠」と呼んでいます。忠というのは、忠義の忠です。今日の日本は封建制度の下にはありませんので、江戸時代のように家臣が主君に忠義を尽くすということはありませんが、会社などの組織においては、上司と部下の関係の中に置かれることになります。このような関係においては、まず目上の人は目下の人を愛することを求められます。それに対して、目下の人は誠意を持って尽くすことが求められます。今では、忠という言葉が使われることはほとんどありませんが、神を中心とした四位基台がつくられたところでは、目上の人が目下の人に愛を与え、目下の人が目上の人に忠を尽くすということが実現するというのが、原理講論の教えなのです。

家庭においても同様です。父母の愛に対して、子が親に与える美のことを、原理講論は「孝」と呼んでいます。孝というのは、親孝行という時の孝です。今では、親孝行という言葉も、ほとんど聞かれなくなりましたが、今から50年ぐらい前までは、「親孝行しなさい」とよく言われたものです。原理講論は、今では忘れ去られてしまった価値観の大切さを強調しています。

さらに夫婦の関係においても同様です。夫が先に妻を愛し、それに応えて妻が夫に与える美のことを、原理講論は「烈」と呼んでいます。烈というのは、貞操を守ることについての美徳です。このような美徳は、今では男尊女卑と見なされて、完全に否定されてしまうかもしれません。しかし、原理講論はあえて、忠と孝と烈という儒教の美徳を私たちに指し示しています。

既成教会のキリスト教徒は、西洋の平等の精神を尊重する余り、日本人が大切に守ってきた儒教の教えを拒絶する傾向にあります。その結果、既成教会のキリスト教徒は、個人の救いだけを求めるようになってしまいました。このようなことでは、地上に神の国を建設することはできないでしょう。

原理講論は、既成教会が西洋の平等の精神を尊重する方向に偏り過ぎてしまったこと、その結果として、個人主義が進み過ぎてしまったことを、反省するよう促しています。聖書もまた、権威に従うことを教えています。ローマの信徒への手紙13章1節で、パウロは次のように教えています。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」

私たちは今、儒教の教えの大切さを改めて学ぶことを求められています。愛と美の関係によって、私たちの人間関係を再構築する必要があるのです。

🟦 世界平和統一家庭連合『原理講論』光言社、1996年。

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岩本龍弘
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