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十字架の贖罪による救いの限界とは/原理講論研究(44)
前回に続いて、第四章「メシヤの降臨とその再臨の目的」の第一節「十字架による救いの摂理」の後半を読んでみたいと思います。
ルカによる福音書1章31節から33節までの箇所で、天使はマリアに次のように告げています。
「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
このように、天使はイエスが永遠に存続する王国を打ち建てることを、マリアに告知しました。この天使の告知について、原理講論は次のように説明しています。
「これによって、神がアブラハムからイスラエル選民を召し、二〇〇〇年間も苦難の中で導いてこられたのは、イエスをメシヤとして降臨させて、永遠に存続する王国を打ち建てるためであったことが了解できるのである。イエスがメシヤとして来られてから、ユダヤ人たちに迫害され十字架で亡くなられたのち、彼らは選民の資格を失い支離滅裂となって、今日に至るまで民族的な虐待を受けてきたのである。それは、彼らが信奉すべきメシヤをかえって殺害して、救いの摂理の目的を成し遂げることができないようにした、その犯罪に対する罰であった。そればかりでなく、イエス以後数多くの信徒たちが経験してきた十字架の苦難も、イエスを殺害した連帯的犯罪に対する刑罰であったのである。」(p. 185以下)
イエスが母マリアからお生まれになったのは、永遠に続くイスラエルの王となるためでした。ところが、イスラエルの民は、イエスをメシヤとして受け入れることができませんでした。
原理講論の著者は、キリスト教徒たちが完全に救われていない理由を、次のように説明しています。
「ユダヤ人たちがイエスを信じないで、彼を十字架につけたので、彼の肉身はサタンの侵入を受け、ついに殺害されたのである。そのため肉身にサタンの侵入を受けたイエスを信じて、彼と一体となった信徒の肉身も、同じようにサタンの侵入を受けるようになったのである。/こういうわけで、いくら篤信者であっても、イエスの十字架の贖罪では、肉的救いを完成することができなくなったのである。」
ここで、イエスの肉体がサタンの侵入を受けたと言われていることについて、考えてみたいと思います。伝統的なキリスト教においては、イエスは罪のない方としてお生まれになりました。イエスが罪のない方として来られたのは、私たちの罪を背負ってくださるためであったと、既成教会では説明されることが少なくないと思います。したがって、伝統的なキリスト教の考え方によれば、イエスの肉体にサタンが侵入したという解釈は、受け入れ難い主張です。では、この原理講論の主張をどのように理解することができるのでしょうか。
イエスの使命は、イスラエルをサタンの支配から解放し、神の支配する国に転換することでした。しかし、神の支配する王国を完成させることができなかったので、イエス御自身もサタンの支配の下に置かれることになってしまいました。イエスの肉体がサタンの侵入を受けたということは、イエス御自身がサタンの支配の下で殺されてしまわれたということであると思われます。
イエスの肉体がサタンの侵入を受けた結果として、イエスと一体となった信徒も、サタンの侵入を受けるようになりました。だから、いかに信仰の篤い信徒であったとしても、心では神に仕えていても、肉体は罪の法則に従ってしまうのです。そのような意味で、イエスの十字架の贖罪は、肉的救いを完成することができませんでした。それゆえ、イエスは救いの摂理の目的を完成させるために、地上に再臨されなければならなくなったのです。
原理講論は、イエスに関する預言に両面性があったことを指摘しています。イザヤ書53章は、メシヤの受難を予告していますので、イエスの十字架の苦難は、預言されていたと考えられます。その一方で、イザヤ書9章は、イスラエル王国を永遠に統治する王が誕生することを預言しています。
この預言の両面性について、原理講論は人間の責任分担の観点から、次のように説明しています。
「メシヤを遣わすことは、神の責任分担であるが、来られるメシヤを信ずるか否かは、人間の責任分担に属する。それゆえに、遣わしてくださるメシヤを、ユダヤ民族が神のみ旨のとおりに信じることもできるが、神のみ旨に反して信じないということも起こり得ることだったのである。したがって、人間の責任分担の遂行いかんによって生ずる両面の結果に備えて、神はイエスのみ旨成就に対する預言を二通りにせざるを得なかったのである。」(p. 190)
人間の責任分担という考え方も、原理講論に特有のものです。この考え方は、どちらの結果になるかは、人間が責任分担を遂行するかどうかにかかっているという問いかけです。私たち一人ひとりが、神の前で問いかけられています。イエスをメシヤとして受け入れるかどうかの決断が求められています。イエスをメシヤとして受け入れ、イエスの時代に完成されなかった地上天国の建設のために貢献する者でありたいと願います。
🟦 世界平和統一家庭連合『原理講論』光言社、1994年。
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