〈愛の減少感〉とは何か/原理講論研究(29)
原理講論は、エデンの園でエバを誘惑した天使のことを「ルーシェル」と呼んでいます。一般的には「ルシファー」と呼ばれるこの天使が、なぜ「ルーシェル」と呼ばれるようになったのか、先日、家庭連合の韓国人の教会長さんに尋ねてみましたが、よくわかりませんでした。私が思うに、「ルシファー」という名前は、日本人にとっても韓国人にとっても発音しにくい単語です。たとえて言えば、それは英語を話す時のモードに切り替えないと発音できないような名前です。それに対して、「ルーシェル」と発音する時は、日本語を話す時のモードのままで声に出して言うことができます。おそらく、韓国人にとっても、「ルーシェル」の方が発音しやすいのではないでしょうか。たとえば、日本人がエンジェルのことをエンゼルと言っているのと同じようなことだと思います。前置きはそれぐらいにして、本題に入りましょう。
天使長の位を与えられたルーシェルについて、原理講論の著者は次のように述べています。
「それゆえに、あたかもアブラハムがイスラエルの祝福の基となったように、ルーシェルは天使世界の愛の基となり、神の愛を独占するかのような位置にいたのであった。しかし、神がその子女として人間を創造されたのちは、僕として創造されたルーシェルよりも、彼らをより一層愛されたのである。事実上、ルーシェルは人間が創造される以前においても、以後においても、少しも変わりのない愛を神から受けていたのであるが、神が自分よりもアダムとエバをより一層愛されるのを見たとき、愛に対する一種の減少感を感ずるようになったのである。」(p. 108以下)
ここでは興味深い指摘がいくつかあります。まず、天使長ルーシェルがアブラハムになぞらえられている点です。ルーシェルは天使世界におけるアブラハムのような存在であったと言うのです。このような指摘は非常に興味深いです。残念ながら、その天使長が堕落してサタンになってしまいました。次に興味深いのは、天使が僕として創造されたと書いてあることです。伝統的なキリスト教会では、神と人間の関係を主人と僕の関係と呼ぶことが多いのですが、原理講論は神と天使の関係を主人と僕の関係と理解しています。さらに興味深いのは、天使ルーシェルがアダムとエバを妬んだと指摘していることです。
ここでは「愛の減少感」という表現が用いられています。神はルーシェルのことを愛しておられました。アダムとエバが創造される以前においても、以後においても、神はルーシェルを変わりなく愛しておられました。しかし、ルーシェルは神がアダムとエバを愛しておられるところを見た時、自分に対する神の愛が減少したと感じてしまいました。つまりルーシェルはアダムとエバを妬んだのです。
「愛の減少感」という表現は、家庭連合の方がよく使う独特の用語です。この用語は一般的ではありません。私も家庭連合の信者と交流するまでは、この用語のことを知りませんでした。ひとことで簡単に言えば妬みのことなのですが、「愛の減少感」と言った方が、「妬み」という言葉を使うよりも、さわやかな印象を与えることに気づきました。私はもう10年ぐらい前から、自宅でテレビを見ることはないのですが、かつてはよくドラマを見ていました。そのドラマにたとえてみると、「妬み」という言葉は午後1時からの泥沼にはまった物語が展開されるドラマを思い起こさせます。それに対して、「愛の減少感」という言い方は、さわやかな青春ドラマを思い起こさせます。
ここで原理講論の著者は、マタイによる福音書20章1節から15節までの箇所を引用しています。この箇所を読んでみたいと思います。
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 それで、受け取ると、主人に不平を言った。 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』」
この箇所で、イエスはぶどう園の労働者のたとえ話をお語りになりました。このぶどう園の主人は、夕方の1時間だけ働いた労働者にも、朝早くから夕方まで一日中働いた労働者にも、同じ一日分の賃金を支払いました。朝早くから一日中働いた労働者は、「愛の減少感」を抱いて、主人に対して不満を言いました。原理講論の著者は、ルーシェルにこのたとえ話を適用しています。つまりルーシェルは、一日中働いた労働者の立場だったと言うのです。
一日中働いた労働者は、夕方に来て1時間だけ働いた労働者が一日分の賃金を受け取って喜んでいるのを見たとき、「良かったね」と声をかけて、一緒に喜ぶことができたら良かったのです。神がアダムとエバを愛しておられた時、ルーシェルはアダムとエバに対し、「良かったね」と声をかけて、アダムやエバと一緒に喜ぶことができたら良かったのです。しかし、ルーシェルは喜ぶことができませんでした。それが、エバを誘惑して堕落した原因だったと、原理講論は指摘しています。このことは、愛の減少感が大きな問題であることを示しています。愛の減少感というのは、軽々しく扱ってはならない感情なのです。この感情に気づいたら、大きな問題になる前に、事前に対応する必要があります。この感情を敏感に察知して、適切に対応する者でありたいと思います。
🟦 世界平和統一家庭連合『原理講論』光言社、1996年。