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熊澤義宣牧師がキリスト教と統一教会のエキュメニカルな対話の可能性を示唆していた

 1975年10月4日のキリスト新聞の記事によると、日本キリスト教協議会は1975年9月18日、「統一教会に関する見解」を発表していました。この見解の成立には、我が恩師、熊澤義宣牧師が深く関わっていました。特にこの見解の第Ⅲ項である「エキュメニカルな交わりの可能性」には、熊澤牧師の深く広い思想が表明されています。熊澤牧師が多用した<神の世界>という概念が取り上げられていることから、熊澤牧師自身によって書かれた文章であることが推測されます。

 「この世界の中に存在する一切のものが、神の支配のもとにあり決してサタンの支配のもとにあるのではないということを信じる限り、この世界は<神の世界>であり、この基盤の上に立って、たといどのような見解の相違をもつものであってもエキュメニカルな対話の可能性を持つことが認められなくてはならないでしょう。統一教会と私たちの場合でも同様です。」と表明することによって、熊澤牧師はキリスト教と統一教会の間でエキュメニカルな対話の可能性が開かれることを意図していました。

 このキリスト新聞の記事によると、日本キリスト教協議会の信仰職制委員会のメンバーであった熊澤牧師は、統一教会とのエキュメニカルな対話について次の6項目を指摘しました。

 ①組織拡大に利用される危険性もあるが、そのようなことが起こらないように配慮する必要がある。
 ②キリスト教会の伝道集会や講演会などに原理の青年たちが来るが、話を聞くというより仲間を引っぱり込もうとすることは対話にならない。
 ③種々の集会に、費用は向こう持ちで招待をしてくれるが、対話の基盤はそれではできない。
 ④教会の経験を出し合いながら、一つ一つをていねいに取り上げながら対話の可能性をもたねばならない。
 ⑤エキュメニカルな対話は、日本キリスト教会協議会が閉鎖的団体であるという誤解を解消する。
 ⑥エキュメニカルな対話は、統一教会がこの世をサタンの支配、つまり共産圏諸国と、神の支配、つまり自由主義諸国との二つに分けて、共産主義諸国を敵対視するという見解に対する相違を明らかにする。

 残念ながら数年後にはこの見解は見直されることになり、キリスト教会と統一教会のエキュメニカルな対話が進展することはなかったようです。

 以下に「統一教会に関する見解」の全文を掲載します。

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【統一教会に関する見解】

 日本キリスト協議会は近年「エキュメニカル」、「世界教会」、「キリスト教会」など本協議会および加盟教団の諸活動とまぎらわしい名称のもとに活動をしている「統一教会」(世界基督教統一神霊協会)について、加盟教団ならびに教会の内外から多くの質問を受け、見解を問われて参りました。一九七五年三月十二日開催の第八回常議委員会は、これらの要請に応えて、見解を発表すべく決議しました。その後、信仰職制委員会、常任常議員会等の検討を経て、本日の第九回常議員会は以下の通り見解を明らかにいたします。

 統一教会(世界基督教統一神霊協会)の主張に対して、私たちは以下のような見解を明らかにいたします。(*1)

I 私たちの基本的な立場

 日本キリスト教協議会規約にのべられた<綱領>(第一章第三条)で明らかにされているように「聖書に基づき、イエス・キリストを神とし、救い主として告白」し「父と子、聖霊なる神の召しにともにこたえることをめざす」のが、私たちの基本的な立場です。

II 統一教会の教理的な主張と私たちの立場との根本的な相違点

 1 統一原理がいわゆる<新しい教理>であるというその主張に対して(*2)私たちは聖書において証しせられたイエス・キリストの真理こそ古くて新しい唯一の真理であることを信じています。

 2 従って私たちは統一教会が「私達は旧、新約聖書を教典とする(『統一教会の信条』)」と主張しながら、実際には『原理講論』を聖書以上に重んじ、原理講論がその宗教活動のきわめて本質的な部分を形づくっていることをみるときに、統一教会が<聖書に基づく>ものでなくて、<原理講論に基づく>団体であり、聖書をとりあげる場合にも、原理講論に基づいて聖書を問題にしているといわなければなりません。

 3 このようないわゆる<新しい真理>が与えられる時代は<旧約時代><新約時代>に続く<成約時代>の到来を意味するとして「イエスが再臨されて、新約のみ言が成就し」「新しいみ言(すなわち新しい真理)によって」「イエスと聖霊による新約のみ言が光を失うようになる」(*3)という主張も同じ理由によって私たちの立場とは全く相違するものです。
 私たちは<旧新約聖書>のほかに、いわば<成約聖書>(つまり『原理講論』)といったものの存在を認めないし、また認める必要もないのです。救いに関する必要な全ての事柄が、旧・新約聖書に証されていると信ずるからです。

 4 私たちはその他『原理講論』にみられる統一教会の神論、堕落論、救済論、復活論、キリスト論、再臨論、サタン論など多くの点に関してなお根本的な相違があることを認めざるをえませんが、以上の諸点をあげるだけで、統一教会と私たちとの決定的な違いは明らかであろうと思われます。私たちは統一原理のような<原理>によって人類が救済されるとは思いません。そうではなくて、人となり給うた神の子、その十字架と復活のみ業をとおして救いの業を完成されたイエス・キリストをとおして救われることを信じるがゆえにそれ以外のなに人に従うことも私たちの信仰の良心が許さないところです。

III エキュメニカルな交わりの可能性
 1 この世界の中に存在する一切のものが、神の支配のもとにあり決してサタンの支配のもとにあるのではないということを信じる限り、この世界は<神の世界>であり、この基盤の上に立って、とといどのような見解の相違をもつものであってもエキュメニカルな対話の可能性を持つことが認められなくてはならないでしょう。統一教会と私たちの場合でも同様です。
 2 ただし、そこにはすでにあげられた教理的な立場の相違のほかに、統一教会の受けているさまざまな社会批判の問題や、さらに国際勝共運動などのかかわりにおいて考えられる種々な背景について十分慎重な検討がなされなくてはならないでしょう。

*1 この際、統一教会の教理的な主張の主要な典拠としたものは『原理講論』(著者「世界基督教統一神霊協会」、発行所「光言社」昭和42年10月2日発行)であり、その主張の全てについて網羅的に取り扱うのではなくて、とくに重要だと思われる諸点についてとりあげることにしました。

*2 『原理講論』P30ff168ff、596fなど参照、以下とくに明示しない場合にはページは全て『原理講論』のページを示す。

*3 引用は全てP155、他にP276参照

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