見出し画像

終末の意義とは/原理講論研究(40)

第三章第三節「終末」というところを読んでみたいと思います。

原理講論は、人類の歴史が復帰摂理の歴史であるから、サタンの支配する悪の世界が、神の支配する善の世界に転換される時代があると主張しています。

「悪によって始められた人類の歴史は、事実上、神の復帰摂理歴史であるがゆえに、サタン主権の罪悪世界はメシアの降臨を転換点として、神を中心として三大祝福が成就される善主権の世界に変えられるようになるのである。/このように、サタン主権の罪悪世界が、神主権の創造理想世界に転換される時代を終末(末世)という。したがって終末とは、地上地獄が地上天国に変わるときをいうのである。」(p. 147)

つまり原理講論において、終末とは、サタンの支配する悪の世界が、神の支配する善の世界に転換する時代のことを言います。言い換えると、地上地獄が地上天国に変わる時代のことです。このような時代は、すでに幾度もありました。

①ノアの時も終末であった(p. 148)
神は堕落した世界をご覧になり、洪水によって人類を滅ぼし、ノアの家庭だけを生かそうとされました。したがって、ノアの時は終末でした。しかし、ノアの次男ハムの堕落行為によって、人間の責任分担を遂行できなかったために、目的は達せられませんでした。

②イエスの時も終末であった
神は預言者を遣わして、信仰の土台を築き、イエスを送ることにより、サタンの支配する世界を滅ぼして、神の支配する世界を取り戻そうとされました。したがって、イエスの時も終末でした。しかし、ユダヤ人たちがイエスを信じようとしなかったので、目的は達せられませんでした。

③イエスの再臨の時も終末である
イエスが再臨なさる時には、地上天国が復帰されることになります。したがって、イエスの再臨の時も終末です。

原理講論は終末の徴候に関する聖書の御言葉を解説しています。

①新しい天と新しい地

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」(ヨハネ黙示録21章1節)

最初の天と最初の地を滅ぼすということは、サタンの支配を滅ぼすことを意味するのであり、新しい天と新しい地をたてるということは、イエスを中心とする神の支配下にある新しい天と地を復帰するということを意味するのです。

②火の審判

「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。」(ペトロの手紙第二3章12節)

ここで「天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去る」と言われています。終末の時には、火の審判が下されると書いてあります。では、火による審判とは、いったいどのようなことでしょうか。ヤコブの手紙3章6節には、「舌は火です」という御言葉があります。つまり、火というのは言葉です。だから、火による審判というのは、御言葉による審判のことです。

③墓から死体がよみがえる

イエスが十字架につけられて、亡くなられた時、「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」とマタイによる福音書27章52節に書いてあります。これはいったい、どのようなことだったのでしょうか。

原理講論の著者は、これは腐敗した肉体が生き返ったということではなく、旧約時代の霊人たちが、地上の信徒たちに現れたのであると説明しています。ちょうどモーセとエリヤの霊人体が、山の上でイエスの前に現れたように、旧約時代の霊人たちが信徒たちの前に現れました。ここで「墓」というのは、文字通りの墓ではなく、旧約時代の霊人たちが留まっていた霊界の場所のことです。イエスによって開かれた楽園から見れば、少し暗い場所であったので、墓と呼ばれたのです。

④地上の人間たちが引き上げられて空中で主に出会う

「それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」(テサロニケの信徒への手紙第一4章17節)

ここで「空中」とは、文字通りの空中ではなく、神の支配する善の世界を意味しています。空中で主に出会うということは、イエスが再臨されて、サタンの支配を倒し、地上天国を復帰されます。その地上天国、すなわち神の支配する善の世界において、私たちが主と出会うようになるということを意味しています。

⑤日と月が光を失い星が空から落ちる

「その苦難の日々の後、たちまち
太陽は暗くなり、
月は光を放たず、
星は空から落ち、
天体は揺り動かされる。」(マタイによる福音書24章29節)

原理講論の著者によると、太陽と月はイエスと聖霊を象徴しており、星はキリスト教徒たちを象徴しています。したがって、太陽と月が光を失うということは、新約の御言葉が光を失うことを意味しています。御言葉がその光を失うということは、新しい時代が来ることによって、その御言葉の使用期間が過ぎ去ることを意味しています。また、星が落ちるというのは、終末において、多くのキリスト教徒たちがつまずき、落ちるようになるということを意味しています。

以上、終末についての聖書の御言葉を見てきました。終末というのは、最後の審判が下されて、世界の歴史が終わる時であると理解されることが多いと思いますが、原理講論はそうではありません。原理講論においては、終末とは、サタンの支配する世界が滅ぼされて、神の支配する世界がたてられる時のことです。今まさに私たちは、神の支配する地上天国が建設される時を迎えています。地上天国の建設に参加する者でありたいと願います。

🟦 世界平和統一家庭連合『原理講論』光言社、1994年。

いいなと思ったら応援しよう!

岩本龍弘
よろしかったら、サポートをお願いします。今後の活動に生かしていきたいと思います。