創造本然の価値はどのように決定されるのか/原理講論研究(9)
原理講論は第一章の創造原理の中で、創造本然の価値について論じています。創造本然という用語は、原理講論に特有の言葉です。本然とは、ありのままの存在のことを意味しています。創造本然とは、神によって造られた人間や動物や植物それ自体のありのままの存在を意味しています。したがって、創造本然の価値とは、人間やあらゆる生き物のひとつの存在それ自体の価値のことを表しています。
では、ひとりの人間の存在そのものの価値は、どのようにして決定されるのでしょうか。
普通に考えると、大抵の場合、ひとりの人間の価値は、他の人との比較によって決定されます。世間一般では、横軸の関係の比較が、ひとりの人間の価値を決定します。たとえば学校では、生徒は試験の成績で比較されます。会社員であれば、会社の利益のためにどれぐらい貢献したかという成績によって、その人の価値が決められてしまいます。
このように、他の人との比較や成績によって人の価値を決める方法のことを、相対基準と言います。
では、原理講論は人間の価値を、どのように説明しているでしょうか。
「創造本然の価値は、ある対象と人間主体とが、神を中心として、創造本然の四位基台を完成するときに決定されるが、この四位基台の中心が絶対者であられる神であるから、この価値基準も絶対者なる神である。」(p. 70)
つまり、原理講論では、四位基台を完成した人の場合、その人の存在そのものの価値を決める方法は、神との関係における絶対基準なのです。
たとえば、神を中心とした家庭の四位基台で考えてみましょう。神を中心として、夫と妻がいて、その下に子どもがいる四位基台では、夫から見た場合、神と妻と子どもが三つの対象となりますが、妻も神と授受作用の関係の中にあり、子どもも神との授受作用の関係の中にあります。妻は他の家庭の奥さんとは比較することのできない絶対的な価値を持つ存在です。子どもも、他の家庭の子どもと比較することのできない絶対的な価値を持つ存在なのです。
原理講論は、人間の存在そのものの価値が相対基準で決定されてしまうのは、神を中心とする代わりに、神に敵対する目的や欲望を中心としているからであると説明しています。神に逆らう者たちの目的や欲望が中心となっている人間関係においては、人間の価値は相対基準で決定されてしまいます。しかし、神を中心とした家庭が完成されているところでは、ひとりひとりの存在は、それ自体で絶対的な価値を持つことになります。たとえ教会での働きが少ない人であっても、その人の存在そのものに絶対の価値があるのです。
さらに言えば、四位基台が完成された社会においては、認知症の高齢者であっても、寝たきりの病人であっても、神との関係においては絶対の価値を持つ、かけがえのない存在なのです。
原理講論では引用されていませんが、ルカによる福音書9章46節から48節までの箇所を読んでみたいと思います。
弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」
この御言葉は、誰が偉いかということで人間の価値が決まるのでなく、最も小さい者の存在そのものに絶対の価値があることを指し示しています。神の国では、最も小さい者が最も偉い者です。この神の国の完成を目指して、歩み続ける者でありたいと思います。
🟦世界平和統一家庭連合『原理講論』光言社、1996年。