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有形世界と霊界の関係とは/原理講論研究(14)

家庭連合(旧統一教会)の方々と交流するようになって、半年以上が経過しました。この間、非常に戸惑ったのは、いわゆる霊界の話です。家庭連合では、この世で生きている人と霊界との交流が行われています。今日の伝統的なキリスト教の教会においては、霊界についての話をほとんど聴いたことがありませんでした。改めて考え直してみると、宗教においては、霊界についての知識は非常に重要な要素です。霊界についての知識を提供できない宗教は、人々に十分な満足感を与えることはできないでしょう。では、原理講論は霊界をどのように説明しているのでしょうか。

原理講論は霊界を「無形実体世界」と呼んでいます。被造世界は、有形実体世界と無形実体世界から構成されています。有形世界は人間の体のようなものであり、無形世界は人間の心のようなものです。原理講論はこの無形世界を、霊界と呼んでいます。

私たちの生理的な五官では、無形世界を知覚することができません。それを知覚することができるのは、霊的な五官です。霊的な五官がどのようなものであるかは、よくわかりませんが、霊的な体験をした人の話によると、この無形世界、すなわち霊界は、霊的な五官によって、有形世界と全く同じように知覚できる実在世界です。

原理講論の著者は、「この有形、無形の二つの実体世界を総合したものを、我々は天宙と呼ぶ」(p. 82)と述べています。つまり、天宙とは、有形世界と無形世界からなる被造世界の全体を指す言葉です。

大切なことは、神によって創造されたのは、有形世界だけではなく、無形世界、すなわち霊界も神によって創造されたということです。この有形世界と無形世界の関係を、原理講論の著者は次のように説明しています。

「無形世界は主体の世界であり、有形世界は対象の世界であって、後者は前者の影のようなものである(ヘブル八・5)。」(p. 83)

ここで原理講論の著者は、ヘブライ人への手紙8章5節を引用しながら、有形世界は無形世界の影のようなものであると述べています。この聖書の箇所には、次のように書いてあります。

「この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。」

ここで「この祭司たち」というのは、地上でいけにえを捧げる儀式を行うユダヤ人の祭司たちことです。このようなユダヤ人の祭司たちは、有形世界で犠牲を捧げる儀式を行っていました。このような地上で行われる儀式というのは、天上で、すなわち霊界で行われる儀式の影のようなものであると、ヘブライ人への手紙の著者は述べています。

この手紙の第7章24節以下には、次のような御言葉があります。

「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」
‭‭
つまり、イエスは霊界で永遠に生きておられて、祭司の務めを果たしておられるというのです。イエス御自分を通して神に近づこうとする人々のために、イエスは霊界で執り成しておられる御方であり、この御方の執り成しによって、私たちは救われるのであるという信仰を、ヘブライ人への手紙の著者は伝えています。

では、有形世界で生活した人間は、どのようにして霊界に行くのでしょうか。

原理講論の著者は、次のように述べています。

「有形世界で生活した人間が肉身を脱げば、その霊人体は直ちに、無形世界に行って永住するようになる。」(p. 83)

つまり、人間は肉体と霊人体から構成されていて、肉体を脱ぎ捨てると直ぐに霊界に行って、霊人体として永住するようになると原理講論は‭‭説明しています。

今日の伝統的なキリスト教の教会では、「霊人体」という用語が使われることもなく、霊界についての話を聴く機会もほとんどないと思います。それに対して、原理講論は霊界について大胆に教えています。既成教会のキリスト教の弱点は、霊界について確信を持って語ることができないことであると言えると思います。

🟦世界平和統一家庭連合編『原理講論』光言社、1996年。

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岩本龍弘
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