監禁された信者は、脱会屋の指示の下で自分を監禁した親との関係を修復できるのか
赤の他人である牧師や脱会屋の言いなりになって子を監禁した親と、監禁された子との関係は、どのような条件の下で修復されるのでしょうか。
牧師の指示の下で拉致監禁された経験を持つ川嶋英雄(仮名)さんは、監禁された時の体験を次のように表現しています。
〈私は自分の監禁を思い起こすとき、何か、銭湯に入っているシーンを連想します。ただし、一人だけ裸になっているのが私、そして周囲が服を着ているのです。
裸の付き合い。それは自分の弱いところも何もかも、さらけ出して、お互いがそれを認めあう関係です。反対に、裸の付き合いをしようと言いつつ、実際は周囲が全員、「自分達は一切間違っていない。弱点や、改めるべき欠点などまったくない」と服を着たまま、本人だけを強引に裸にして、他人も呼んできて皆で「お前の○○は、、、貧相だな。」などと責め立てる。そんな、おぞましいことが実際に起こってきたのです。〉
監禁された統一教会の信者は、家族や元信者に取り囲まれて、精神的な虐待を受けます。信者が信仰を捨てると宣言するまで、監禁は続きます。
川嶋さんは、監禁された信者を責め立てる親たちや牧師の心の内を、次のように言い表しています。
〈自分は一切間違っておらず、相手が間違っているのであり、自分の正しさを相手に認めさせれば全てが解決するのだ。自分は一切変わる必要がなく、相手が変わるべきなのだ。相手が変なものに関わった、相手がヘマをしたために、私がこんな余計なことをさせられているのだ。。。
畢竟、監禁を監禁だと認めず、親子の話し合いであり善だと主張する親達、そして監禁が本人問題だと決めつける教会担当者達、どちらもその意識から抜け出られていないのです。〉
このような精神的な虐待を受けた信者と、我が子を監禁して虐待した親たちとの関係修復について、川嶋さんは次のように述べています。
〈監禁後の関係回復というのは、本人だけで進められるものではなく、実行側の反省と謝罪が必要条件です。まず監禁実行側は、監禁だったこと自体を、なかなか認めようとしません。その辺りの手順を無視して、和解した振りをするのは関係修復とはいいません。相互理解は相手と自分の対等な関係間で成立するのであって、絶対的な条件として、まず監禁をした側に、自らの過ちを認め、当人の許しを乞う素直な姿勢、その「気づき」がなければ、成り立ちません。〉
川嶋さんは、牧師という赤の他人の言いなりになる形で親が子を監禁する行為を「親子関係への裏切り」と表現しています。
〈監禁は人間の尊厳に対しての裏切り、親子関係への裏切りです。大切な相手と理解しあうことをあきらめるのは許しではなく、ただの「馬鹿」です。
監禁は、「お前を人間と認めない! お前を信じない!」という宣言です。それが、赤の他人の言いなりになる形で起こった。だから、家族関係への裏切りなのです。〉
資料:https://plaza.rakuten.co.jp/kokoronet/diary/201807270000/
よろしかったら、サポートをお願いします。今後の活動に生かしていきたいと思います。