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被造世界における人間の位置とは/原理講論研究(15)

『原理講論』第一章「創造原理」の第六節「人間を中心とする無形実体世界と有形実体世界」を読んでいます。今回は「被造世界における人間の位置」という箇所を読んでみたいと思います。

「第一に、神は人間を被造世界の主管者として創造された(創一・28)。」(p. 83)

ここで「主管者」とは、中心となって管理する者のことを意味しています。原理講論の著者は、創世記1章28節の御言葉に重点を置いています。改めてこの御言葉を新共同訳で読んでみましょう。

神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

‭‭この神の御言葉はアダムとエバに対する祝福であると同時に、命令でもあります。アダムとエバは世界を統治し、あらゆる生き物を支配することを命じられました。原理講論の著者は、この命令を自分自身に語られたこととして受け止めています。原理講論の読者もまた、この命令を自分自身に語られたこととして受け止めることを求められています。

原理講論が地上天国の建設を目指しているのは、この命令を大切なこととして受け止めているからです。伝統的な教会のキリスト教徒にとって、この命令は単に環境問題に取り組むことでしかないかもしれません。しかし、それだけでは不十分です。この命令に誠実に取り組もうとする時、私たちはやはり、家庭を大切にすることから始めて、世界の救済へと進まなければなりません。家庭連合(旧統一教会)が家庭を尊重することを出発点にして、世界の救いを目指していることは、創世記1章28節の神の命令に対する誠実な応答であると言えると思います。

原理講論の著者はここで、イエスの山上の変貌の出来事を取り上げています。マタイによる福音書17章1節から3節までの箇所を読んでみたいと思います。

六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
‭‭
‭‭この箇所は、高い山の上で、イエスのお姿が変化したことを伝えています。イエスの顔が太陽のように輝き、服が光のように白くなったと表現されています。高い山の上で、このようにイエスのお姿が変化したので、この記事は伝統的に「山上の変貌」と呼ばれています。

‭‭このイエスの前に、モーセとエリヤが現れたと伝えられています。イエスの時代から見て千六百年前に亡くなったモーセと、九百年前に亡くなったエリヤが、イエスの前に同時に現れたというのです。モーセは、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民をエジプトから脱出させた指導者です。エリヤは神の御言葉を取り次ぐ預言者です。イエスはモーセとエリヤのふたりと語り合っておられました。原理講論の著者は、この時、イエスが語り合ったのは、モーセとエリヤの霊人体であったと指摘しています。

霊人体とは、霊界で生活する人間の体のことです。原理講論においては、人間は肉身、すなわち肉体と霊人体によって構成されています。この人間は、この世と霊界の双方を管理することを求められています。モーセとエリヤはイエスの前に現れた時、霊界とこの世の橋渡しをする役割を果たしていたと思われます。

次に進みます。

「第二に、神は人間を被造世界の媒介体として、また和動の中心体として創造された。」(p. 83)

ここで「媒介体」というのは、普通は「媒体」と言いますが、媒介するものを意味する言葉です。たとえば、音の媒体は空気です。空気を構成する無数の分子が振動することで、音は伝わります。

人間の肉体と霊人体が互いに働きかけ合って一体となる時、この世と霊界もまた、その人間を中心として一体となります。このような意味で、人間はこの世と霊界の間の媒体なのです。

さらに読み進めて行きます。

「第三に、神は人間を、天宙を総合した実体相として創造された。」(p. 84)

ここで「実体相」という難しい用語が使われています。これはおそらく、この世と霊界の双方を総合した現実を目に見える形で表す存在という意味であると思われます。人間は、この世と霊界の双方の総合を、目に見える形で表す存在なのです。

この人間が堕落して、被造世界を支配することができなくった時、被造世界は主人を失った飼い犬のようになります。ローマの信徒への手紙8章19節には、次のような御言葉が記されています。

被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。

この御言葉は、主人を失った被造世界が、人間の復帰を待ち望んでいることを表しています。さらにローマの信徒への手紙8章22節には、

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
‭‭
と書いてあります。人間という主人を失った被造世界は、主人を失った飼い犬がうめくように苦しんでいます。この世と霊界との関係が断絶したからです。

原理講論の著者は、イエスについて次のように述べています。

「イエスは霊人体と肉身をもつ完全なアダムとして降臨された方である。したがって、彼は天宙を総合した実体相であったのである。それゆえに、万物をキリストの足もとに従わせたと言われた(コリントⅠ一五・27)。イエスは堕落人間が彼を信じ、彼と一体となって、彼と共に完成した人間とならしめるために降臨されたので、救い主であられるのである。」

このように、原理講論の著者は、この世に来られたイエスが、霊人体と肉体の双方をもつ完全な人間であられることを強調しています。霊人体と肉体をもつ完全な人間となってくださったからこそ、イエスは救い主であられるのです。

🟦世界平和統一家庭連合編『原理講論』光言社、1996年。

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岩本龍弘
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