神の愛とは何か/原理講論研究(12)
原理講論は四位基台という独自の概念を使って神の愛を説明しています。既成教会のキリスト教では、神の愛の受け皿となるのは、ひとりひとりの人間です。神の前に立つ孤独なひとりの人間が、神の愛の受け皿になります。このような既成教会の考え方に慣れているキリスト教徒は、原理講論の説明に戸惑いを覚えるかもしれません。私も原理講論を読み始めたばかりの頃は、四位基台という概念が何を意味しているのか、よくわからなくて戸惑いました。
では、原理講論の著者はどのような目的で、四位基台という概念を発明したのでしょうか。その目的のひとつは、神の愛の受け皿を個人から家庭へと拡大することにあります。考えてみれば、人類最初の人間であるアダムとエバは、神によって創造されましたが、その後は、人は誰でも父と母から生まれてきます。現状はどうであれ、この世に生まれて来る時は、誰でも両親から生まれてきます。この現実に即して、神の愛の受け皿を説明するためには、四位基台という概念は非常に便利な道具です。
神を中心として、父と母と子という四つの点から成る四角形を描いて、ひとつの点がそれぞれに、三つの対象を持つことになります。ひとつの主体はそれぞれ、三つの対象と授受作用を行います。この授受作用は、子を愛する父母の愛、男と女が互いに愛し合う夫婦の愛、親を愛する子の愛を表しています。この四位基台が神の愛の受け皿となるのです。
原理講論の著者は神の愛の受け皿について、次のように説明しています。
「このような四位基台の三対象の愛において、その主体的な愛が、まさしく神の愛なのである。それゆえ、神の愛は三対象の愛として現れ、四位基台造成のための根本的な力となるのである。したがって、四位基台は神の愛を完全に受けて、これを体恤できる完全な美の対象であり、また、完全な喜びの対象であるから、創造目的を完成した善の根本的な基台なのである。」(p. 73)
つまり、神の愛とは、四位基台を完成させるための根本的な力なのです。まず神の愛が先にあって、及ばずながら私たちも、神の愛を思いやりながら、父母を愛し、夫や妻を愛し、子を愛する者となります。
次に原理講論は、善と悪についても四位基台によって次のように説明しています。
「主体と対象が愛と美を良く授け、良く受けて合性一体化して神の第三対象となり、四位基台を造成して、神の創造目的を成就する行為とか、その行為の結果を善といい、サタンを中心として四位基台を造成して、神の創造目的に反する目的のための行為をなすこと、または、その行為の結果を悪というのである。」(p. 73)
この説明によると、善とは、神を中心とした四位基台を完成させる行為や、その結果のことを言います。神を中心とした個人、神を中心とした家庭、神を中心とした世界を完成させる行為や、その行為の結果のことを、原理講論は善と呼びます。それに対して、悪とは、神の創造の目的に反する行為であり、その行為の結果のことを言います。つまり、神を中心とした家庭を築くことができるかどうかに関する事柄が、善悪の基準に関係しているのです。
さらに原理講論は、義と不義についても次のように説明しています。
「善の目的を成就していく過程において、その善の目的に役立つ生活的要素を義といい、悪(サタン)の目的を成就していく過程において、その悪の目的に役立つ生活的要素を不義という。それゆえに、善の目的を成就するためには、必然的に、義の生活を必要とするようになるので、義が善の目的を追求する理由は、すなわちここにある。」(p. 74)
ここで大切なのは、義というのは生活に関する事柄であるということです。既成教会のキリスト教では、義というと、法廷で無罪の判決を受けることであり、信仰によって罪を赦されて義とされることとして説明されることが多いのですが、原理講論の著者はあえて、義という用語を善の目的に役立つ生活に関する事柄として説明しています。簡単に言えば、神を中心とした生活をすることが、義ということです。それに対して、神に逆らう悪を目的として生活することを、原理講論は不義と呼んでいます。
既成教会のキリスト教は、どちらかと言うと、頭の中の理念を信じることだけになってしまう傾向があります。それに対して、原理講論は日常の生活に強調点を置いています。四位基台という概念は、キリスト教を私たちの現実の生活に密着させることを可能にしています。四位基台によって、キリスト教は生活に密着した教えとして再解釈されることになります。既成教会のキリスト教徒は、原理講論のこのような独創的な取り組みから多くのことを学ぶことができるのではないでしょうか。
🟦 世界平和統一家庭連合『原理講論』光言社、1996年。