霊人体はどのように成長するのか/原理講論研究(16)
原理講論の著者は、霊人体が成長するための土台はこの世の生活であることを強調しています。人間はこの世で生活するからだとしての肉身と、霊界で生活するからだとしての霊人体によって構成されていると考えられています。この世で生活するからだとしての肉身は、光や空気を吸収しながら、食事を通して栄養を摂取することで成長します。それに対して、霊界で生活するからだとしての霊人体は、この世の生活における善行によって成長します。地上の生活で良い行動をすることが、霊人体を成長させることになるのです。
「肉身の善行と悪行(あくぎょう)に従って、霊人体も善化あるいは悪化する。」(p. 85)と原理講論の著者は述べています。
つまり、地上における自分の行動自体が、自分に対する審判になっているのです。肉身を脱いで霊界に行った時、天国へ行くか地獄へ行くかを決めるのは、地上においてどのような生活をしたかにかかっています。地上の生活が自分の霊人体を善くしたか悪くしたかが、天国に行くか、それとも地獄に行くかを決定づけることになります。
「霊人体は肉身を土台にしてのみ成長する。それゆえに、霊人体と肉身との関係は、ちょうど実と木との関係と同じである。」(p. 86)
この世で生活するからだとしての肉身と、霊界で生活するからだとしての霊人体の関係は、木と果実の関係のようなものだと、原理講論の著者は述べています。この世の生活において結んだ成果が、霊人体の成長です。
原理講論の著者は、霊人体の成長がこの世の生活において完成されることを指摘しています。この世で悪人として過ごした人は、肉身を脱いでから霊人体を成長させようとしても、成長させることはできません。
「霊人体はどこまでも、地上の肉身生活においてのみ完成できるのである。」(p. 87)と著者は述べています。神を中心として、霊人体と肉身が授受作用をして四位基台が完成すれば、霊人体は完成します。
堕落した人間において、霊人体の悪化は肉身生活の犯罪行為に由来します。では、霊人体の善化は何に由来するのでしょうか。
堕落した人間において、「霊人体の善化も、肉身生活の贖罪によってのみなされる」(p. 87以下)と原理講論には記されています。イエスが肉身をもって地上に降臨されたのは、霊人体の善化によって、罪悪に染まった人間を救うためでした。
原理講論の著者は、イエスが天国の門の鍵を地上のペトロに授けたことを、霊人体の成長に関係づけています。イエスがペトロに天国の門の鍵を授けたことは、マタイによる福音書16章と18章に記されています。この箇所は、カトリック教会では特に、教皇の権威に関係づけて解釈されています。プロテスタント教会では、天国の鍵の権威は、説教を語る牧師の務めに関係づけられます。それに対して、原理講論は天国の門の鍵を、地上で善なる生活をしなければならないことに関係づけています。霊界の天国に行くためには、地上での生活で霊人体を完成させなければなりません。天国に行けるかどうかの鍵は、地上で善なる生活をするかどうかにかかっているのです。
それゆえに、原理講論の著者は次のように述べています。
「天国でも地獄でも、霊人体がそこに行くのは、神が定めるのではなく、霊人体自身が決定するのである。」(p. 88)
霊人体が天国へ行くか、それとも地獄へ行くかを決定するのは、神ではなく、霊人体自身であるというのです。このことを、原理講論の著者は次のように説明しています。
「人間は元来、完成すれば、神の愛を完全に呼吸できるように創造されたので、犯罪行為によってもたらされた過ちのために、この愛を完全に呼吸することができなくなった霊人体は、完全な愛の主体である神の前に立つことが、かえって苦痛となるのである。それゆえに、このような霊人体は、神の愛とは遠い距離にある地獄を自ら選択するようになる。」(p. 88)
地上で悪い生活を送ってきた人の霊人体は、神の前に立つことが苦痛になるので、神の愛に近い天国ではなく、神の愛から遠く離れた地獄を自ら選択するようになると説明されています。このようにして、霊人体は自分が霊界の中のどこに行くかを決めることになります。
このような考え方は、18世紀のヨーロッパで科学者として活躍したスウェーデンボルグの宗教思想にも見られます。我が国のキリスト教徒では、内村鑑三や賀川豊彦がスウェーデンボルグを高く評価しました。仏教では、鈴木大拙がスウェーデンボルグの思想を研究しました。今日の我が国のキリスト教徒が、スウェーデンボルグの宗教思想を通して、原理講論にも目を向けるようになることを期待したいと思います。
🟦世界平和統一家庭連合編『原理講論』光言社、1996年。