救いの摂理とは/原理講論研究(39)
原理講論の第三章「人類歴史の終末論」の第二節「救いの摂理」という箇所を読んでみたいと思います。
この第二節の冒頭で、原理講論の著者は「神の悲しみ」に言及しながら、次のように述べています。
「この罪悪の世界が、人間の悲しむ世界であることはいうまでもないが、神もまた悲しんでおられる世界であるということを、我々は知らなければならない。」(p. 138)
この「神の悲しみ」の根拠として、著者は創世記6章6節を引用しています。そこで創世記6章5節以下を、新共同訳で読んでみたいと思います。
「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」
この御言葉は、ノアの箱舟の物語の中に記されています。神は地上に悪がはびこっているのをご覧になって、人間を創造なさったことを後悔し、悲しまれました。この御言葉を重視するのが、原理講論の際立った特徴です。家庭連合の信徒たちは、この神の悲しみの心情に対する共感を、繰り返し表明しています。
しかし、神がこの悪の世界をお救いにならなかったとしたら、神は無能な神となってしまいます。この点について、原理講論は次のように述べています。
「喜びを得るために創造なさった善の世界が、人間の堕落によって、悲しみに満ちた罪悪世界となり、これが永続するほかはないというのであれば、神は、創造に失敗した無能な神となってしまうのである。それゆえに、神は必ずこの罪悪の世界を、救わなければならないのである。」(p. 138)
この救いについて、著者は使徒言行録26章18節を引用しています。この御言葉は、パウロが直接啓示を受けた時に、イエスがお語りなった御言葉です。イエスはパウロに向かって、次のようにお語りになりました。
「それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」
ここでイエスは、パウロをユダヤ人以外の人々に遣わすことを明らかにした後で、その目的をパウロに告げておられます。その目的とは、ユダヤ人以外の人々をサタンの支配から神に立ち帰らせることでした。
原理講論は、救いの摂理とは復帰摂理であると述べています。たとえば、病気にかかった人を救うということは、病気になる以前の状態に復帰させることです。「罪に陥った者を救うということは、その者を罪のない創造本然の立場にまで復帰させる」(p. 139)ことを意味しています。
このように、罪に陥った者を救う神の働きは、その者を罪のない創造された時のままの立場にまで復帰させる働きです。では、この復帰摂理の目的は何でしょうか。それは天国をつくることです。この点について、原理講論は次のように説明しています。
「元来、神は人間を地上に創造なさり、彼らを中心として、まず地上天国を建設しようとされたのである。しかし、人間始祖の堕落によって、その目的を達成することができなかったので、復帰摂理の第一次的な目的も、また、地上天国を復帰することでなければならないのである。」(p. 140)
さらに原理講論は議論を進めて、人類の歴史とは復帰摂理の歴史であると断言しています。「人類歴史は、堕落した人間を救い、彼らをして創造本然の善の世界に復帰させるためになされた摂理歴史であると言わなければならない」(p. 140)と著者は述べています。
原理講論は宗教の歴史の観点から、次のように指摘しています。
「宗教を迫害した国は滅び、宗教を保護し育成した国は興隆し、また、その国の主権は、より以上に宗教を崇拝する国へと移されていったという歴史的な事実を、我々は数多く発見することができるのである。したがって、宗教を迫害している共産主義世界の破滅の日が必ずくるであろうということは、宗教史が実証的にこれを裏付けているのである。」(p. 142以下)
さらに闘争の歴史の観点から、原理講論は次のように述べています。
「それでは、この最後の闘いというのはどのようなものであろうか。それは理念の闘いである。しかし、今日の世界を脅かしている唯物史観を完全に覆すことができる真理が現れない限り、民主主義陣営と共産主義陣営の二つの世界の闘いは、永遠に絶えることがないであろう。それゆえに、宗教と科学とを、統一された一つの課題として解決することのできる真理が現れるとき、初めて、宗教を否定して科学偏重の発達を図ってきた共産主義思想は覆され、二つの世界は一つの理念のもとに、完全に統一されるのである。」(p. 144以下)
以上のように、神は人類の歴史を通して、救いの働きをしておられる御方です。たとえ世界がサタンの支配する悪の世界であったとしても、私たちは歴史を通して救いの摂理を遂行しておられる神に依り頼みながら、希望を持って力強く生きることができます。この希望を抱きながら、たとえどんなことが起ころうとも、信仰の歩みを続ける者でありたいと願います。
🟦 世界平和統一家庭連合『原理講論』光言社、1994年。