韓鶴子総裁の母・洪順愛(ホンスネ)の信仰に学ぶ
統一教会が韓国で誕生し、日本や米国で伝道して信者を増やし、アフリカでも学校を建設し、短期間の内に世界各地で新宗教運動を展開してきたことは、驚嘆に値します。この運動の背後には、前段階があったはずです。このような爆発的な発展の前段階の歴史は、どのようなものだったのでしょうか。そこには、韓鶴子総裁の母、洪順愛の信仰の歩みがありました。
韓鶴子総裁は『自叙伝 人類の涙をぬぐう平和の母』(光言社、2020年)の中で、「独り娘を迎えるためのキリスト教徒たちの精誠」という表題の下で、前段階の歴史を詳しく述べておられます。
「神様が、御自身の最初に愛する独り娘を韓国の地に送るための摂理を進める中、植民地の韓半島には既に、その兆しが見え始めていました。キリスト教の多くの神霊集団では、再臨のメシヤが平壌を通して来ると信じており、1900年代の初頭から、神様の摂理を知る篤実なキリスト教徒たちの間で、神霊運動が燎原の火のごとく広がっていました。
その神霊運動は、牧師の李龍道(イヨンド)を中心とした新イエス教、金聖道(キムソンド)の聖主教(ソンヂュキョウ)、許浩彬(ホホビン)(孝彬)の服中教(ポクチュンキョウ)へと続いていきました。彼らはあらゆる弾圧に耐えながら、神様の摂理を引き継ぐ独り子と独り娘を迎えるための基盤を築いたのです。」(p. 67)
この自叙伝の素晴らしいところは、統一教会の前段階の歴史をしっかり記述している点です。ここを読むことで、統一教会が生まれた背景を理解することができます。特に私が感銘を受けたのは、韓鶴子総裁の母親である洪順愛(ホンスネ)の信仰です。
「母の洪順愛は長老教会に通っている時、祖母を通じて様々な神霊集団と縁を持ちました。」(p. 68)と韓鶴子総裁は述べています。
洪順愛は故郷の安州(アンジュ)で新イエス教に出会い、李龍道牧師の教会で信仰生活を始める決意をしました。もともとメソジスト派の牧師だった李龍道は、33歳の若さで亡くなりました。新イエス教は、李浩彬(イホビン)牧師を中心として新たに出発しました。
洪順愛の新イエス教での信仰生活について、韓鶴子総裁は次のように記しています。
〈祖母と母は、1933年から3年間、安州の新イエス教で信仰生活をしました。母は、再び来られる主を迎えるために、もっと清くなければならないという一念で、毎日痛哭しながら祈りを捧げていました。そんなある日、天から啓示が降りたのです。
「喜びなさい!あなたの赤子が男の子であれば宇宙の王となり、女の子であれば宇宙の女王となるであろう」
母が数えで21歳となる1934年の早春、月が煌々と照る夜の出来事でした。ただ、天の啓示だといっても、その言葉を信じることのできるような現実的要素は整っていませんでした。しかし、母は心を落ち着かせながら、その言葉をそのまま受け入れたのです。〉(p.69)
天から啓示が降りた数日後の3月5日、洪順愛は李浩彬牧師の司式により、当時数えで26歳の青年だった韓承運(ハンスンウン)と結婚式を挙げました。韓鶴子総裁の父親となる韓承運の職業は教師でした。洪順愛は家庭を切り盛りしながらも、教会の活動を熱心に行いました。
その頃、鉄山(チョルサン)というところに、金聖道(キムソンド)という女性が率いる神霊集団があって、新イエス教の信徒たちがそこへ行って、恩恵を受けてくるということがあったそうです。韓鶴子総裁は、金聖道について次のように述べています。
「金聖道は、夫やその実家から迫害を受ける中でも信仰の道を歩んだ女性ですが、やがてその信仰に感服した信徒たちが一人、二人と集まって家庭集会を開くようになり、つくられたのが、聖主教(ソンヂュキョウ)です。1936年頃、母は祖母について初めて鉄山に行き、金聖道に会って、新しい信仰生活を出発しました。」(p. 70)
聖主教の信徒たちは熱心に伝道して、平壌やソウルにも礼拝堂を建てました。しかし、1943年、金聖道と信徒十数人が日本の警察に連行され、監獄に収容されてしまいました。金聖道は三カ月後には出監しましたが、1944年、61歳で他界してしまいました。
その後、金聖道に仕えていた許浩彬が啓示を受けて、服中教をつくり、信者を集め始めました。日本が戦争に敗れ、終戦を迎えましたが、韓半島の北はすぐに共産党の統治下に入り、激しい宗教弾圧が始まりました。1946年8月頃、許浩彬と信徒たちは連行され、監獄に入れられてしまいました。服中教の信徒たちは拷問によって命を落とし、残った人々も韓国動乱で散り散りになってしまいました。
このような混乱の中で、韓鶴子総裁は祖母と母と共に南に逃れることになります。1948年の秋、3人は安州から38度線まで200キロはある道のりを、ひたすら歩き続けました。ソウルに落ち着くことができた時、聖主教の金聖道の長男である鄭ソクチョンが南に来ていることを知り、3人は彼に会いに行くことになりました。大邱(テグ)で、3人は鄭ソクチョンとその家族に会いました。「無事に会えた喜びは、大変なものでした」(p. 86)と韓鶴子総裁は記しています。
鄭ソクチョンは金聖道の遺言を実践しようとしていました。それは次のような遺言でした。
「神様から任されたみ旨を私が成し遂げられなければ、他の人を通してでも成し遂げるだろう。主が来られる団体は、淫乱集団だと誤解され、迫害を受けて投獄もされるはずだ。そのような教会が現れれば、真なる教会だと思って訪ねていきなさい」(p. 91)
1955年5月、鄭ソクチョンは梨花(イファ)女子大学退学事件に関する記事を目にしました。それは、統一教会は淫乱集団の疑いがあるというものでした。鄭ソクチョンは大邱の統一教会を訪ねて「統一原理」を聞き、すぐに信徒になりました。文鮮明先生が無罪で釈放されると、鄭ソクチョンは大邱での生活をすべて整理して、ソウルに上り、み旨の道を献身的に歩むようになりました。
洪順愛も14歳になった娘の韓鶴子総裁を連れてソウルに行き、統一教会に入会しました。あえて淫乱集団だと誤解された統一教会に行く決断をした洪順愛の信仰は、本当に素晴らしいと思います。真実の教会を探し求めることは、厳しく険しい道であることを、洪順愛の信仰の歩みを通して教えられました。
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