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善悪を知る木とは何か/原理講論研究(19)

前回と前々回では、エデンの園の生命の木は何を象徴しているかを見てきました。原理講論においては、生命の木は創造の理想を完成した男性を象徴しています。では、エデンの園のもう一つの木は、何を象徴しているのでしょうか。エデンの園の中央には、生命の木と善悪を知る木が立っていました。

原理講論の著者は次のように述べています。

「神はアダムだけを創造したのではなく、その配偶者としてエバを創造された。したがって、エデンの園の中に創造理想を完成した男性を比喩する木があったとすれば、同様に女性を比喩するもう一つの木が、当然存在してしかるべきではなかろうか。(中略)善悪を知る木というその木は、創造理想を完成した女性を象徴するものである。ゆえに、それは完成したエバを例えていった言葉であるということを知ることができるのである。」(p. 97)

このように述べて、原理講論の著者は善悪を知る木が、創造の理想を完成した女性の象徴であると断定しています。原理講論においては、善悪を知る木は完成したエバの象徴なのです。過去二千年間のキリスト教の歴史において、さまざまな聖書の解釈が行われてきました。一人の人間が、それらをすべて調べ尽くすことは到底不可能です。カトリック教会の場合には、教会が聖書解釈の基準を定めています。カトリックの信徒は、教会の定めた解釈に従って聖書を読むことを求められます。それに対して、プロテスタント教会の場合には、信徒ひとりひとりが自由に聖書を解釈することを許されています。牧師が百人いれば、百通りの聖書解釈があります。原理講論は、このプロテスタント教会の流れの中で、極めて独創的で画期的な聖書解釈を提示しています。そのような意味で、キリスト教徒は原理講論から学ぶべきことがたくさんあるように思われます。

聖書においては、人間がしばしば木にたとえられます。原理講論の著者は、例としてヨハネによる福音書15章のぶどうの木のたとえと、ローマによる信徒への手紙11章のオリーブの木のたとえを挙げています。

ヨハネによる福音書15章5節には、次のような御言葉があります。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

これはイエス御自身がお語りになった説教の一部分です。ここでイエスは御自分をぶどうの木にたとえておられます。イエスを信じる人は、イエスにつながって、養分を受け取って、豊かな実を結ぶことができます。しかし、イエスから離れてしまった人は、養分を受け取ることができなくなって、実を結ぶことができません。

原理講論の著者はもう一つの例として、ローマの信徒への手紙11章17節を挙げています。この箇所を18節まで通して読んでみたいと思います。

しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、 折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

ローマの信徒への手紙の著者であるパウロは、この手紙の11章全体を通して、ユダヤ人とキリスト教徒の関係を議論しています。17節で「野生のオリーブ」と呼ばれているのは、ユダヤ人ではないキリスト教徒のことです。パウロはユダヤ人を「栽培されたオリーブ」にたとえています。ユダヤ人ではないキリスト教徒は、栽培されたオリーブの木に接木されたオリーブの枝であり、この接木されたオリーブの枝は「野生のオリーブ」です。ユダヤ人は栽培されたオリーブの木であり、キリスト教徒はこのオリーブの木に接木された枝です。つまり、栽培されたオリーブの木はイスラエルであって、キリスト教徒は後からこの木に接木された野生のオリーブの枝なのです。このことはユダヤ教とキリスト教の関係をわかりやすく説明しています。キリスト教はユダヤ教を土台としています。キリスト教がユダヤ教をないがしろにする時、キリスト教は豊かに実を結ぶことができなくなります。キリスト教が豊かに実を結ぶことができるのは、土台であるユダヤ教から養分を得ている時なのです。

原理講論の著者は、この箇所について、イエスがオリーブの木にたとえられていると解釈しています。このような解釈が過去にあったかどうかはわかりませんが、おそらく原理講論の著者は、ユダヤ人の国イスラエルの代表としてイエスを見ていたのではないかと考えられます。イスラエル全体が預言者であり祭司であるという考え方は、キリスト教の中に確かにあります。この考え方に基づけば、イスラエルとイエスは一つなのです。

いずれにしても、聖書においては、人間が木にたとえられる事例があるのは確かです。このことは、エデンの園の中央の二本の木がアダムとエバの象徴であるという解釈に説得力を与えています。

今回は、善悪を知る木が完成したエバの象徴であることを見てきました。特に原理講論の第二章の堕落論に関しては、聖書の引用が的確に行われているかどうかを、可能な限り検証しながら、少しずつ読んでいきたいと思っております。では次回は、エデンの園の「蛇の正体」についての議論を取り上げます。

🟦 世界平和統一家庭連合『原理講論』光言社、1996年。

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岩本龍弘
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