記録したものだけが真実ではない
GW最後の旅行先は宮城・気仙沼でした。
震災から8年。まだまだ整備は途中で、ところどころ震災の爪痕が残っている街でした。
ペーパードライバー二人旅だったので、目的は食べ物メインで、市内を少し車でドライブ。
車を借りたおかげで、少し遠くまで足を伸ばすことができ、震災の爪痕を見に行きました。
海のすぐ近く、震災で倒壊しなかった高校をそのまま保存し、中を歩けるように少し改修をした記念館でした。
その高校のすぐ横に新設された建物では、震災発生当時、被災された方が録画した津波の映像や、ご家族を亡くされた方のインタビュー動画を上映していました。
動画で切り取ったものからさえも自然の恐ろしさを感じたけれど、校舎の中を歩き、見たものの方が力強く印象的でした。
校舎の3階の教室にひっくり返っている車や、屋根がなくなってしまった体育館。
曲がってしまった窓の桟、手すり。
流れてきた他の建物の壁剤もそこかしこに落ちていました。
動画は、事柄を記録するのに一番のメディアです。
今やインターネットにアップロードすれば気軽に見れて、世界の裏側のことも知ることができる。
でもそれは切り取られたものだということを覚えていないといけないな、と、記念館を歩いて思いました。
震災後、漏れ出た重油で燃える港の映像は、そこで火傷をしたり、亡くなられた方を映していません。
津波の映像に関してもそう。
もしかして動画はあるのかもしれないけど、上映を憚られた可能性もあります。
こういう話をすると誤解を生むかもしれないけれど、もちろん、なんでも上映すべきだとは思わないし、そういった話ではなくて。
こうして公開されているもの、見ているもののの裏側を想像することを忘れてはいけないのでは、ということです。
ジャンルは違えど映像の作り手としては、少なからず、実際に自分の目で見て考えることを常に一番としておくべき。
気仙沼の潮風に吹かれながらそんなことを考えていました。
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