まとめる系と作業系
課題について思うことを書いていく。まず、自分が困るのは、「まとめる系」と「作業系」だ。それぞれについて話していこう。
まとめる系
これは、課題で〇〇についてまとめなさい系だ。これ、本当にやる側困る。大学生ならインプットもほとんど自分でやるから、図書館でインプットしながら課題をまとめていく。このときに評価されるイメージを持っておく。予めこの先生の好みを聞いたり、課題のポイントなどを話して欠席している人と差をつけたりするので、やる気が出るのだが、高校まではそうとはいかない。大学以上の知識を使っても???となるし、かといって、持ってるものは教科書と資料集のみ。「ワクワク」して調べるのもないし、つまらん。そして、教科書と資料集でまとめたとしても、それの何を評価するというのだろうか?大学はリポートなのでその報告の質が高ければ高いほど評価されるのが明白であるものの、高校までだとそうとはいかない(横並び主義)。大学以上のレベルをやっても評価されなければやる意味がない(ここではその内容自体に意味がないということでない)。課題が評価対象なのかどうか、そして評価対象なのであれば何をもって評価するのかを提示しなければならない。内容なのかまとめ方なのかなどやる側にとって気をつけなければならないことが山ほどある。森の中をただただ彷徨わせることになっていないだろうか。
作業系
これも困る。特に多いのが、英単語10個系だ笑。大学の後輩の弟たちに冬休みの課題を一緒にやったことがあったが、未だに英単語10個系は残っていた。中学の英語の先生はなぜこれほどまでに英単語10個系が好きなのであろうか。おそらくこれも評価に関係していると思う。課題を出す側としては、当たり前だが、「何かに残っている」ことでその課題を確認できる。でも、やる側は、読めない、意味わからないのに、ひたすら「記号」を書く作業をしてしまう。書いているときに、読んでみて?とか、意味何?とか聞いても???となってしまっていた。まずは、インプットが先であろうが、特に英語と数学は、補助者がいないとやる側はマジで辛い(その気持ちわたしにもあります、大学で慣れます)。できる人がどんな思考で、どうやってるのかのエッセンスを直接言葉で語りかけること以上の上達はないように思う。そもそもが未知だから未知に慣れていない高校までの子どもはほんと大変だとおもう。
結論
結局のところ、小学、中学、高校で何ができるべきかとできたことをどう評価するのかの両軸が同時に回らないと先生も生徒も不幸になる。限られた時間の貴重な若い世代に何を学ぶのか、何に時間をかけるのかの取捨選択を再考する機会となればと思う。ここからは個人的意見だが、学習指導要領をこの際無くしてみるというのを提案したい(独り言です)。何をもって教育の平等というのか、それぞれの個々に合わせた学習にシフトする中、一律の授業で教えることで、生徒がわかろうかわからまいがお構いなしに学習を提供していた。これも一つの平等である。このむかしっからの授業スタイルが限界に差し掛かっているのかもしれない。(引きこもってここの学習に合ったものを家で勉強してさえすればいいことに対する批判を妨げるものでもありません。)
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