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新渡戸稲造の『武士道』から読み解く、現代を生きる指針

武士道とは何も国や主君に忠節を尽くす道だけを指すのではなく、
弱き己を律し、強き己に近づこうとする意志、
自分なりの美意識に沿い精進するその志をさすのです

吉田松陰


SHOGUNがエミー賞で話題ですね!(遅ればせ過ぎながら)
今回は武士道についてです。実は僕の人生のテーマでもあります。

武士道というと古臭いイメージをお持ちかもしれません。今日では役に立たない思想、いやむしろ悪しき歴史と感じている方も中にはいらっしゃるかも。

否!断じてそんなことはない!

というわけで今回は武士道の概略と自分なりの解釈などを書いていきたいと思います。僕としては日本が誇るべき大切なマインドセットだと思っており、本当におすすめな本です。生きる指針が見えにくくなった今だからこそむしろ学ぶことが必要だと感じています。ぜひエッセンスだけでも持って帰ってくれたらうれしいです。

武士道とは

有名な新渡戸稲造の『武士道』という本があります。旧五千円札の人ですね。

それが武士道の語源ともいわれています。

しかし、そもそも武士道とは、新渡戸稲造が成文化する前に、不文律として日本人が古来から育んできたもの。侍のあるべき姿のことです。それは日本固有のものとして他国にはない独自の文化でもありました。

なぜなら、武士道の拠り所は神道」「儒教」「仏教」が入り混じったものだからです。これは地理的な要因も大きいかもしれませんね。殆ど外圧にさらされずに醸成されてきた日本独自のブレンドでつくられた規範だと思います。

ここでよく言われているのは中世ヨーロッパの騎士道におけるノブレス・オブリージュ(高貴な者の義務)」と近い概念だということです。つまりは武士道とは、武士が階級が下のものに「あるべき姿」を示したものということでしょう。もちろんその側面もあるとは思います。武力で台頭してきた人々が、秩序を形作るために生成されてきたという起こりとしては確かに近い。ですが、価値観のルーツにある部分は全く異なると言っていいと思います(キリスト教や仏教、神道、儒教ももっとも本質的には近しいものだと自分的には思いはするものの)。

さて、武士としてあるべき姿とは何でしょうか。

それを端的に言えば「徳」のある人です。

では「徳」とは何か?武士道における徳目は、新渡戸稲造の『武士道』によると、7つ挙げられています。ここではそれを順に(深い概念過ぎて語ろうと思えばいくらでも語れそうなので軽くですが)解説していこうかと思います。

あくまで僕の私見や解釈が多分に含まれますので、学術的な裏付けというよりはその辺を楽しんでいただけると嬉しいなと思います。

まずは「義」についてです。日常生活ではあまり使わないかもしれないですね。なじみがある言葉でいうと正義に近いでしょうか。

ただ、正義というとどうしても正と誤の二元論的な関係が生まれてしまいます。どちらかが正しく、どちらかが誤りであると。

しかしそれでは争いを生んでしまう。立場が違えば正義も異なりますもんね。ホモサピエンスなんてどうせ自分の都合のいい正義を確証バイアスで見つけてきて行動してしまう気もしています。

今も続く宗教戦争や民族紛争、冷戦などのイデオロギーの対立、果てはSNSでの誹謗中傷合戦……。大体はこの二元論的な考えから端を発していると言える気もしちゃいますね。

ただし、武士道の言うは違う。

つまり、両方の立場から見て理があることが義です。ジンテーゼに近いものかもしれないし、もっと言えば、啓蒙主義的な理性とも近いものかもしれませんし、ルソーの言う一般意思も近しいと思ってます(これは僕の感覚ですが)。

人間としてどうふるまうべきか。天に背いていないか。

日本(中国でも言えそう)ではよく「天」という言葉を使います。マジで僕の感覚なのですが、これは西洋的な価値観であえて言うならば天なる父である「神」に近しいかもしれません。仏教でいえばダルマ(法)や、ネイティブアメリカンのグレートスピリットにも同じ雰囲気を感じます。常にお天道様が見ているということですね。

また、天には先祖や神がいて、僕たちの行いを見ている。だからそれに恥じない行いをしようぜ!的なところからルーツ来てるんかなあとも思いつつ、「天」って自分の良心のことでもあるだろうな~みたいにも思ってます(他人が見ていなくとも自分だけは自分の行動を知っており、それによって良心の呵責だったりを感じるわけなので)。

有名な言葉で言えば夏目漱石「則天去私」西郷隆盛敬天愛人」。

福沢諭吉も『学問のすすめ』で「天は人の上に人をつくらず…」というあまりにも有名な言葉を残しています。

武士の中では、天を敬い、天に恥じないための行動が義という徳だったのです(どこまで実践できていたのかはめっちゃくちゃ人によりけりだと思いますが)。

こう聞くとめっちゃ本質的だなあって思いませんか?思いますよね?
まあ、実践はめちゃムズイです。でもここに向かって努力し続けることは一つの指針になると確かに思います。



勇とは読んで字のごとく、勇気のことです。

義とは双子の徳と言われています。

「義を見てせざるは勇無きなり」

孟子

この孟子の言葉に見られるように、義を実行に移すために必要な徳が勇であったのです。

ちなみにこの言葉は吉田松陰が、書き起こして常に身に着けていたと言われています。

正しい!と思ったことや、あんなのは間違ってる!と思ったことも、勇気をもって言葉や行動に示せなければ、それは義とは言えないのです。

かくすれば かくなるものと 知りながら 已むに已まれぬ 大和魂

吉田松陰

たとえ殺されるとわかっていようとも、それが義であり、天の道に沿っているならば勇気を持って行動に移す。いや、行動せずにはいられない。吉田松陰って黒船に単身で乗り込もうとしたり、友達との約束のために脱藩したり、自分が義であると信じたことは罪と言われようとも堂々と告白したりとマジでクレイジーですが、まさに武士道の権化ともいえる気がします。

そういう「勇」を持ちたいなあと思いつつ、本当の「義」を探している日々です。



この徳目が一番イメージしにくいかもしれません。

仁とはもともとは儒教の中で、義とならんで最高の徳です。仁義という言葉もありますね。

キリスト教でいうならば「愛」。仏教でいうならば「慈悲」。そんな概念に被っていると思います。

つまりは、思いやる心です。

孟子は仁義について

「仁は人の心なり、義は人の道なり。」

と表現しています。いやあ的確な感じ。義は男性的、仁は女性的とも言っています。なんとなくイメージがついたでしょうか。

僕の解釈としては仁とは自他の区別をなくすことです。

子曰く「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」

キリストの黄金律しかり、相手の立場に立ちその求めを知り、慮った行動や言葉かけること。これはどの文化圏でも共通して徳の高い行動として言えるんでしょう。

個人的には悟りを開いたときに真の仁を達成できる感じがしています。自我の範囲を広げ文字通り自他の差が取り除かれること。差別をなくそうとして、マイノリティや果ては動物までも人権の適応範囲が広がってきている昨今は社会的に「仁」を目指しているとも言えるのかも。

礼とは、礼儀作法などや法律など、行動規範を守ることです。

本来的には、仁や義などを見える形として示したものと言えるでしょう。孔子は礼を最も重んじたことで有名ですね(そりゃあ権力者から見たら使いやすいよなあとも思いつつ)。

ですが武士道においては、あくまでも仁や義といった心構えが根本、大前提であり、表面的な礼は枝葉にすぎません。

新渡戸稲造もこのように述べています。

「真実性と誠意がなければ、その礼は道化芝居か、見世物のたぐいである。」

どんなに形が正しくとも心がこもっていないならば、それは見せかけの礼にすぎず、何の意味もない。

まあ、形式だけでも整えるというのは場面によっては必要かもしれません。社会で円滑なコミュニケーションを行うには、身体的な儀式のようなものはとても有用だなあと最近は感じています。合理的でないと切り捨てられてしまったそういったものの中で、本当は結束を強める効果だったり、合理性を超えた感情的な結びつきが生まれるとも思うんですよね。

時の試練を経てきたものは、やっぱすげえなと色んな事例を見て思いますね。頭で考える合理性を超越して、身体的な感覚を通じて心にも作用しているそれを捨ててしまうと何か大事だったものを失ってしまう感覚が強くあります

礼は時代とともに移り変わるものでもあるとは思いますが、だからこそ本質にある心に作用する部分だったりを意識していけたらいいなと僕は思います。



誠とは、簡単に言うならば誠実さのことです。

自分にも他人にも嘘偽りのないこと。心に曇りのないことです。
現実問題として捉えると本音と建前とも言いますが、いろいろコンフリクトを起こしそうですよね。

それを乗り越えていくことが「誠」に生きるということなんだと思います。個人的には自分の弱い部分も含め認めながらも、逃げることなく理想へと進みたいというのが理想論です(本当に誠になれたならこんな迷いみたいなのはないんでしょうが、僕は単なる一般ピーポーなので)。

至誠にして動かざる者はいまだこれあらざるなり。誠ならずして、いまだこれ動く者はあらざるなり。

孟子

誠になったならば、見て見ぬふりなどできない。また、誠でなければ動き始めることもできない。

道理を知ればもはや嘘偽りなどできない。自分の心に嘘をつかず、理に向かって迷わず行動をする。考えと行動を一致させることでしょうか。そういう意味では僕はやはり道理にたどり着けていないなあ。

陽明学ではこれを、「知行合一」と呼んでいます。

嘘偽りなく、考えと行動を一致させ、徳を実践できる人こそが本当の武士なのです。

がんばろう…

名誉


武士は、自分の命よりも名誉を重んじました。

家名を汚さないこと。美しく死ぬこと。

そこに武士道らしさを感じますし、強く心を打たれます。個人の利己心を超えたものを感じるからかもしれません。

命より 名こそ惜しけれ もののふの 道をばたれも かくや思わん

花は桜木、人は武士

武士道とは死ぬことと見つけたり

どれも武士の死生観が表れていますね。命よりも、全てに恥じない死に方を選ぶ。桜のように儚く。しかし美しく。武士は死ぬことを意識して生きていました。

当たり前かもしれませんね。戦国時代なんていつ死んでもおかしくない大混乱時代ですから。それに、今とは比較にならないくらい死というものが身近であったことは、純粋に出生後の死亡率の高さや、医療的な面で見ても明らかでしょう。

だからこそ死ぬことに対する覚悟も私たちとはまったくもって違う。僕らは当然、人と命のやり取りをすることも殆どないですし、食べ物もすでに加工されたものをよく食べているし、死というものから距離を持って生きています(まあ、平安時代の貴族とかも穢れとして死を遠ざけたりはしていたようですが、そこはやはり武士との差分でしょう。僕らもみな貴族的になっているのかもしれません)。

ラテン語メメント・モリ(死を忘れるな)」という言葉もあります。

旧約聖書においてアダムが最初に感じたのは「恥ずかしい」という羞恥心でした。

また、ほかの社会でももちろん家名に誇りを持ってもいましたし、戦って死ぬことで(十字軍やジハードのように)天国へ行けるという考えや、北欧でもヴァルハラへ行けるなど、潔く死ぬことは誉とされてきました。最近(といっても世界大戦とか)ではナショナリズムが勃興し、国のために死ぬことが名誉であるとされてきましたね。

逆に言えばそういうモチベーションが無いと戦場なんてほとんどの人は行きたくないわけです。だからなにかしらストーリーを作って死ぬことと向き合ってきたんでしょう。

恥を抱えて生きるよりは、潔く散りたい。

そんな感覚は死ぬことを一種美化していることは今の僕たちからすると馴染みが薄いと思いますが、死ぬことを受け入れている人間というのはとても強い力を発揮するよなとは思います。

今は分断された時代ともいわれますね。確かに個人にフォーカスが向かい、その結果、家のためだとか後世へのつながりも薄くなっているし、公共のことを考えないで権利だけを主張するようなムーブメントも起こり、ポピュリズム的にもなっている。でも逆にそこへのカウンターとして、改めて何世代も先のことを考えた持続可能性の追求や、コミュニティや伝統を大切にしようとする伝統主義なんかも出てきてますが、僕としてはやはり先祖にも子供たちにも恥じないような生き方はしたいというのが結論でしょうか。むずいけど。


忠義

最後の徳目、忠義です。

もしかするとこの徳が一番理解しがたく、拒否反応を起こすのではないでしょうか。

藩などの領国内では君主のために、大戦時は天皇、国のために命をささげたといったイメージも根強いかと思います。

そんなことが徳だなんてあり得ない!

実際のところ僕自身も最初は納得できない部分も多かったです。忠義なんて時代遅れも甚だしいやろと。

しかし、読んで字のごとく忠義の本来の意味とは、天に対して、義に対しての忠なのです。

決して国家や人に対するものではありません(あくまで美化して突き詰めて考えればですが)。

それを、権威を持つ人たちが、忠義と称して戦争の道具にした。

悪く言うとそういうことです。だから悪徳とされ、戦後は徹底的に叩かれたのだと思います。

忠義とは、自分が本当にその人や考えに対してなら命を預けられる!という意志こそが何よりも重要なんだと思います。強制されるものではなく、誠を守り抜くこと、大切だと思うことを曲げずにやりきること。そんな意味でとらえると忠義のイメージが変わるかもしれません。

まとめ

以上、僕の大好きな価値観、武士道についてまとめました。

戦後はGHQによって日本の教育からは消えてしまった日本の道徳教育。

アメリカを追いかけ、知識に偏った暗記教育は、戦後の経済復興では大きく役立ちました。しかし、その成長の先である現代では、もはや通用しなくなっています。

それに学問の目的も不明瞭です。学歴や就職のために学ぶことは本質的ではないと思います。古くからの日本の教育は人格形成のために学問をしていたのですが、戦後のGHQによる精神の植民地化によって失われてしまいました。

今こそ、道徳に目を向け、明治期のような和魂洋才(日本人としての誇りや文化をと、他国の良い技術を両立すること)を発揮したい。

その魂が大和魂であり、武士道なのだと強く感じる次第。

ここで最初の吉田松陰の言葉に戻ろうと思います。

武士道とは何も国や主君に忠節を尽くす道だけを指すのではなく、弱き己を律し、強き己に近づこうとする意志、自分なりの美意識に沿い精進するその志をさすのです

吉田松陰

儒教の名著『大学・中庸』にも同じような概念があります。

簡単に言うと、己を修めることが最終的に天下を治めることにつながるということです。変えられるもの、コントロールできるものは極論自分以外にはありません。

いつまでも自分の徳を高め続け、高い志に向かっていくこと。自分にできることはそれだけなのかもしれません。

その過程で本物を見た人たちはその志に巻き込まれていくのでしょう。

最後に……伊達政宗

「義に過ぎれば即ち固く、仁に過ぎれば即ち柔く…」

と表現しています。

義に偏ると融通が利かない堅物になり、仁に偏るとなんでも受容してしまう優柔不断な人物になってしまうということです。

結論、何事も中庸をとることだと。

どの徳目も素晴らしいものだと思います。

しかし、過ぎたるは猶及ばざるが如し。

どれもが揃った本物の武士を目指したいなあと思う常日頃。

長くなりましたが、最後まで読んでいただいたこと、誠に感謝しております。一片の曇りなく。

参考図書

武士道 (PHP文庫)

武士道 日本人であることの誇り

論語 (岩波文庫 青202-1)

孟子 (岩波新書)

[現代語抄訳]言志四録

伝習録 (中公クラシックス)

葉隠入門 (新潮文庫)

五輪書 (講談社学術文庫)

[新訳]留魂録

日本人の美意識 (中公文庫)

論語より陽明学 (PHP文庫)

[決定版]菜根譚

大学・中庸 (岩波文庫)

墨子 (ちくま学芸文庫)


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