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物事に「飽きる」とは?

「人生あきた~!」と小学生のころ言っている子がいて、プチ流行語になっていました。早熟すぎる。

人はなぜ飽きるのか。
直感的には、やりすぎたことに対して人は飽きを感じる。
同じことを繰り返していると飽きてくる。

一般的に飽きという感情はそろそろ別の行動しようぜというサインだろう。
つまり、「飽き」とは人を新たな行動へと駆り立てる感情の一種だと言えそうだ。

ただ、何回やっても飽きないことだってある。
単なる回数の問題ではないのだ。10回おんなじことをしたら必ず飽きるなどという定式化されたものではない。

では飽きるものと飽きないものの差異はなんだろう。
1つは、欲求が満たされた時、もしくはこれを続けていても満たされないとわかってしまった時に「飽き」がくるのではないか。

つまり、人が何か行動をする際は目的や期待や欲求がまずあって(自覚的にせよ無自覚にせよ)、それを満たせるのか満たせないのかを感情的に判断する材料が飽きという感情なのだ。

そりゃあ、「これをいくらやったところで満たされないよ」とか「もうすっかり満足しちゃった」みたいなときに、人は行動を続けることが難しくなってくる。というか、進化論的に、生き抜くために、そうなった場合には別の行動に移った方が合理的だろう。この行動をだらだらと続けていても何も得られないと主観的には感じる機能がなければ、(生存や子孫繁栄にとって)無意味な行動をとり続けて淘汰されてしまう。

だから飽きというのはとても強い感情だ。生き残るために必要なのだから。
心が病んでしまう拷問の例としてよく使われるのは、「まず重たい岩を坂の上まで運ぶ、そのまま持って下りてくる、そしてその行為をひたすら繰り返させる」というものらしい。要は目的の分からないことを無理矢理やらされ続けることは人にとって拷問なのだ。飽きているのにやらなくてはいけないというのは「このままじゃ死ぬぞ!」というサインを受け取りながらその行為をやめられないという、まさに阿鼻叫喚の地獄を生きているようなものなのである。

意義や意味が見いだせないと人は病んでいく。勉強なんて意味あるんだろうかと思いながら無理矢理に勉強させるのはとてもナンセンスだ。その人にとっての意味や意義を見出させるのが何かをモチベイトする第一歩といえるだろう。

ただ、人を動かすのは、やってやるぜ!みたいなポジティブな感情だけではない。飽きるといった一見ネガティブな感情との複合要因で人はより行動を促される。
なんなら、ネガティブとポジティブが同じベクトルを向いたときに最も強くモチベイトされて行動できるというのが自説である。

では飽きずに物事を続けるにはどうしたらいいのだろう。

「継続したいけどできない。目的もあるし、これを習慣化できれば成長できるのに、どうしてもやめてしまう。満足してもいないし、続けていれば満たされるとわかっているのに行動できない。私は怠惰だ。云々」

こういった悩みは誰しもにあるだろう。
逆に、ゲームやギャンブルやタバコやかっぱえびせんなど、継続したくないのにやめられない止まらないといったものもある。

それは「飽き」よりも「報酬」の方が脳にとって魅力的というか、強いサインだからなのだと思う。

「短期的利益(報酬への期待)VS長期的に絶対良い」の戦いは後者が圧倒的に不利なのである。だって前者はもう、それをやっている自分を想像した時点で脳にドーパミンが出てしまうのだ。後者は幸福感を感じることがムズイという一点で勝ち目が薄い。たぶん想像力に富んだ人ならば、未来の自分のハッピーをありありと描くことができて、いい勝負ができるのだろう。

ちなみに僕がやっている戦い方は、「戦わない」ということだ。そもそも選択肢に乗せないという戦略である。僕は大して意志力もない人間なので、選択肢があるとそっちを選んでしまう。理性的判断ができるうちにその選択肢をつぶしておく。もしくは、とりかかるために面倒なステップを作っておく。つまり、ゲームは手に取れるところおかなかったり、お菓子は買わないようにしたり、タバコは車の取り出しづらいところに封印してたり。

まあ、これはどうでもいいかもしれない。

いろいろ言ってきたけれど、飽きに対抗して何かを継続するには2つのアプローチがあると思う。

1つは目的や意義をハッキリとさせること。
だが、それだけでは十分ではない。どころか、それだけだとむしろ飽きる。目的合理性だけ(頭だけで正しいと思っている)ものはマジで続けられない(これは僕が雑魚だからかもしれないけれど)。

個人的にはもう1つがとても重要だと思う。すなわち、言語化できない感情によるものだ。脱目的化した感情的モチベーションである。これはなんかパラドックスみというか矛盾を感じさせるかもしれない。でもその両輪がそろった時に最も行動を継続できる。気がする。

目的はハッキリしないけど、とにかくやりたい。そういうものは満足することがない。僕個人としては好奇心がそれにあたるかもしれない。とにかく知りたい。だけど、知っていくにつれて知りたいことが増えていく。そんな余白のある状態だ。

これを考えているとき、なんとなく量子力学的なメタファーが思い浮かんだ。観測していない不確定で可能性に開かれた状態と、観測された(目的が言語化された)状態の繰り返し。それによって線が描かれて絵になっていくようなイメージだ(蛇足かもしれないけれど)。

有意義さと無意味さの狭間を行ったり来たりし続けることが飽きないことなのかもしれない。足るを知りつつも不満足なソクラテスであること。その矛盾が一番楽しいと思うのだ。

読者の皆様はそろそろこんな哲学論考に飽きてきたころだろうか。
それは僕の文章設計が甘いことも要因としてはあるのだろう。
もっと細かい報酬設計や緊張と緩和のバランスをうまくできるなら、きっと最後まで飽きずに読んでもらうことができるのだと思う。うまい人なら自然とそういう文章を書けるのだろう。
ほんと羨ましい。

最後に、この「飽き」の話で抜け漏れがあるとすれば、習慣化についてかもしれない。もはや無意識的にできてしまう行動のことだ。今日はもう書くのに飽きてしまったのでいつかまた書くかもしれない。

最後にいつも読んでくださる方やスキと言ってくれる皆様に感謝を。


この文章は最近お気に入りのポッドキャスト番組『超相対性理論』さんのトークテーマに乗っかって書かせていただきました。



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