【第二話】片方だけおっぱい
次の日。
女店員に怪しまれながらも、おれはアダルトコーナーに息を潜めていた。今日はどんな乳にも、おれは反応できそうにない。そう感じつつ、昨日と同じルートでエロの巣窟の最深部へと向かう。それぞれの色々な乳がおれにアプローチしてくる。しかし、そんなものよりも、もっと気になるものがある。
企画もののおねえさんが踊っている角を曲がる。
あ、いた。
まっすぐ伸びた黒髪が、静かに景色に溶けていた。昨日よりも、さらに切なさを増した彼女の表情がいっそう美しい。大きな目を細めて、あんなにエロいもの見て、彼女はいったい何を思い描いているんだろう。ときどき訪れる、激しい衝動。朝でも夜でも、教室でも、おれのことなんてお構いなしに、突き抜ける。そんな生臭い体験を、きっと彼女がしているわけでもないのに。
彼女もまた、昨日と同じく、端から順にパッケージをむさぼっていき、やがて真ん中あたりで手が止まった。やっぱり、これだ。といった表情で、パッケージをつかみ取り、おそらくエロを嗜んでいる。
彼女の瞳。
整列した睫毛が、底のみえないほどの庇をつくる。その瞬きをみていると、まるで古くて精巧な時計みたいだと思った。規則正しく、静かに、それでも確実に時を進めている。
おれは背後からそっと近づいた。この小さな身体に、自分の身体が重なることで、簡単に彼女が隠れてしまうということが、ひどく恐ろしい。ほんとうは委縮しきっているのに、その態度とは反対に、おれの衝動はいつまでもやまない。
「その作品、好きなんだ?」
自分の声が細く響いた。
また、逃げられるかもしれない。そう思ったが、こんな女の子をエロエロなジャングルに野放しにしておくわけにはいかない、なんて、身勝手な発想に急に至った。
でも、助けるとか、気をつかうとか、そういうわけではない。自分でも、自分の感情がよくわからなかった。とにかく、おれはこの異質な空間で迷子になってしまっている。
彼女が、はっ、と声をあげて、即座にパッケージを元の場所に戻した。
振り向いた彼女は、また困惑した顔を浮かべたが、次の瞬間には少し強気の目つきになり、眉間に皺をよせ、声を荒げた。
「……なんなんですか!」
彼女が叫んだ瞬間、いくつも視線が目の前で焦点をつくった。そうだ、こんな場所で、こんな高い声はあまりにも不釣り合いだ。
そうか、こんなにも人がいたんだ。
今まで視界に入っていなかった、野暮ったい男たちの姿が目に入る。彼らは、女の子とは無縁に生きてきたのかもしれない。そう思うと、なんだか彼女をいますぐこの場から連れ去りたくなった。この感情は、きっと身勝手なものじゃない。
彼女の手をひくためには、身を小さくする必要さえあった。彼女はおれを見つめたまま冷静さを瞳に宿して、おれの爆発的なエネルギーになされるがままだった。大人の男性たちの間を縫って、おれたちは黒い幕の外に出た。大した距離ではなかった。それでも、ひどく息があがってしまっていた。
「い、痛い、です」
彼女の口に入りこんだ毛先が、顔の輪郭に沿って弧を描いていた。彼女はそれに気づいているのか、気づいていないのか、覚えたてのような表情が灯っていた。嫌悪というよりも、どこか気怠く、眉をハの字にしている。
「え、あ、ごめんっ」
繋いだ手を離した。何もなかったはずなのに、じん、と手のひらが痛い。彼女は、おれのことを真っ直ぐ見つめながら、口をひらいた。
「へ、変ですか」
「え?」
おれが訊き返したはずなのに、再び彼女は「変ですか」と訊いた。
「そんなことは……」
「だ、だったら、なんで、こんなことするんですか」
自分でもわからない。でも、行動が先に生じてしまうこともあるだろう。
どれだけ言葉を探しても、適当な説明が思いつかない。ほんとに、おれはなんなんだろう。なんでここまで気にかけているんだ。
「ごめんなさい。私、もうすこし見ていたいので」
「あ、ああ……」
小走りで、彼女の口から発せられた言葉。黒い幕の向こうへと戻っていく彼女の後ろ姿。耳をつんざくほどの、しかし小さな音を鳴らす踵。
彼女を、手に入れたいわけではない。この痛みが続く手で、彼女の背中を掬い取りたい。だけど、大事に扱うには、彼女はあまりにも小さすぎる。それでも、彼女に向かって手を伸ばしていたい。
何もかもを忘れて、ただただそれに没頭してしまうことへの罪悪感が、彼女の中にも確かにあるのならば。
あのアダルトコーナーに入り浸ってから早一週間。
あれから一度も彼女に会っていない。あのときの後姿が、どうしても頭から離れない。アダルトコーナーに訪れようが、あの女優が出演してるAVの前に立ってみようが、彼女は現れない。
彼女は今どこで何をしているのだろう。一体何をしているのか……。
高校生? フリーター?
それとも、何もしていないという可能性もある……。何にせよ、おれは彼女について何も知らない。
「大和くーん!」
エネルギーのある声がおれを呼んだ。
「お客さんきてるから、はやく!」
店主の緑さんに言われて、ほとんど反射的に身体が動いた。全く潜めることのない声量がさらにおれを焦らす。
一瞬、カウンターにいる緑さんと目が合って、顔だけ笑っていることに気づく。おそらく二十代後半と思しき女性の怒りは、思ったよりも簡単に顕わになるものだと知った。
「あ、はい!」
抱えていた銀色に照るトレイが、一瞬眩しくて、ぼんやりとする。
店の入り口で、じれったそうに客が待っていた。制服の上にエプロンを着たおれを、老紳士が一瞥した。
「お待たせしました。こちらの席へどうぞ」
そういうと、老紳士は、「どうも」と聞こえるような、とくぐもった声を出した。席につくやいなや老紳士は、「コーヒー」と注文をした。
あまりにも暗すぎてどれだけのっぺりした顔にも影をつくるほどの照明。つい漏らしてしまった程度の音量のジャズ。いかにも良い香りのコーヒーが出てきそうな演出をしている喫茶店なのに、そういえばこの店のコーヒーはさほどオーダーが入らない。この店のコーヒーが不味いのかもしれないし、単に喫茶店とはそういうものなのかもしれない。そして、それを理解するほどにはまだおれは若すぎるのかもしれない。
「緑さん、コーヒー、オーダーです」
「うぃ」
いつも通り気の抜けた返事だと思ったが、違った。鋭くおれのことを睨んでいる。
「そんな目でみないでくださいよ……。ちょっと、ぼうっとしちゃっただけですよ……」
「大和くん、なんかあったでしょ」
ぬうんっと顔を突き出して、おれの目をとらえて離さない。コーヒー、オーダー入ってますよ、と言いかけたが、ここは喉の奥へと飲み込んでおく。
「いや、別に」
「言わないと、今日の賄い抜くよ」
それって重大な違反なんじゃないか。でも、賄いって法律で保障されているんだっけ。されていないんだっけ。
「どうせ女の子絡みでしょ。いいなぁ。いいなぁ。若いなぁ。私ももう十年若ければなぁ」
やはり、二十代後半という読みはあたっているようだ。
「で、なんなのよ。何があったの」
「んー、いやぁ」
「なに。ベッドの下に隠してあったAVを彼女にみられた?」
「ちょっ……」
さきほどの老紳士がこちらを見つめている。その意味は、おれたちの会話に注意をひかれたためなのか、もしくはコーヒーはまだかという催促のためなのか。
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