【第三話】片方だけおっぱい
「落ち込むなよっ。それくらいでさっ。私なんて彼氏にBL好きなのバレたばっかりなんだしっ」
「……」
「まぁ、見られては困るものを見られて愛が深まるっていうかさ……」
緑さんは、ふっ、と艶っぽい息を吐いた。
「いや、違いますけど、もう、じゃあ、それでいいです……」
「なんだよ。彼女がAVに興味津々だったからショックだったのか」
緑さんは急に核心にふれた。視線、体温、しぐさ、すべてを隠そうとするが、きっと無駄なのだと思う。いくら逃れようとしても、おれがただダサくなるだけ。恥ずかしいけれど、心を少しだけ開いてみたい。
「だって、おかしくないですか……。女の子が、おれより年下かもしれない女の子が、AVを食い気味に見てるんですよ?」
緑さんは、今度は、ふっ、と笑った。「なにがいいたいの」とけたけた笑った。
「何がおかしいんですか」
「いや、だってさ、ほんと高校生っておもしろいこというよね」
「何がですか」
緑さんはようやくコーヒーの準備に取り掛かった。視界の中で、ずっと背景だった器具が、丁寧に編まれていく。たぶん、手順のすべてが緑さんの身体にしみ込んでいる。緑さんという人物を作るのは、ときどき規則的になるこの作業なのかもしれない。
「女の子だって、そういうことに興味あるよ」
しばらく間があってから、緑さんはそう言った。
足元が急激に緩く柔くなった気がした。今まで大事に抱えてきたいくつかの経験が、大人の表情を前にして、崩れ去る。
手元に二つのコーヒーができあがった。
「おもしろい顔を見れたから、一杯あげるね」
そう言って、緑さんはカップをトレイにのせて、お客さんのほうへと行ってしまった。さきほどまで険しかった老紳士の表情が途端に緩み、異様に甲高い声で緑さんと話し始める。
カップを持つ。煮詰まった黒がおれの顔をうつす。めちゃくちゃシンプルな顔の造りをしているなと思う。特徴なんてなにもないけれど、いやないからこそ、簡単に似顔絵が描けてしまいそうだ。
ふと、違和感のある光景を思い出す。あれは、誰が見ても、違和感があったのだろうか。同じクラスの男子がみても、おれと同じような胸騒ぎが起こったのだろうか。一口目から少し経ったコーヒーが、簡単に手の届く距離にあるのに、靄(もや)緩(ゆる)く立ち惑う。さっきまで見えていた自分の顔が、表情が、奥底に溶けて消えていった。
先ほどまで談笑していたいくつかのお客さんが店を去ると、おれは二時間分散らかされたテーブルへと向かった。テーブルには一つもティーカップがなく、木皿にケチャップソースが余っているだけ。
布巾を四つ折りにして、念入りにテーブルを拭いていると、濃い木目があることに気づいた。なんとなく、そこに布巾を滑らせるのは避けて、それ以外を丁寧に拭いていく。もう一度見る。なんだか、あのときの目に似ている。大きくて丸いのに、光がさしていない、やはり違和感のある目だった。
ふう。もう午後九時になった。そろそろバイトからあがる時間だ。
さっき飲んだコーヒーは決して不味くはなかったが、その味が、まだ表面的にしかわからない。味の一番外側だけが舌の上を滑り、本質を閉じ込めたまま飲み込んでしまっている。残るのは、いつも、苦さ。
氷水の入ったサーバーを傾けて、カップの黒を薄めていく。また自分の表情がのぞける気がしたが、そんなことはなかった。
からんからんと店のドアの開く音がして、反射的にいらっしゃいませと口が動いた。
「あ……」
注ぎすぎた水があふれて、思わず手の甲についた水滴をすする。零れ落ちた水が、静かにスニーカーにしみ込んで、おれの届かないところまで消えていった。皮膚の味が僅かに舌に残り、それを新しいものに変えるために、いま入れたばかりのグラス一杯の水をのどに注ぎ込んだ。思ったよりも冷静に、グラスを豆の香りの残るテーブルに置く。
彼女だった。
震える手が、握力だけで、グラスを割ってしまいそうになる。力の入らない身体が、人生において、今一番軽く吹き飛ばされそうになった。
おれに一瞥くれた彼女は、一瞬静止したようにみえたが、ほとんど動きを止めることなく、奥の席へ吸い込まれるように向かっていった。
「どうした?」
「あ、いえ、なんでもない、です……」
数少ない貴重な客だぞ、お冷をはやくもっていけ、このグズ。
緑さんはそんなことは言っていないけど、絶対そう思っている。じりじりと焼き付く後ろからの視線が背中にぶつかっているようでとても痛い。
間違いない。あのときの格好とは違って、マニッシュなパンツスタイルだけど、確かに彼女の後姿だ。あの日、おれが、身勝手に手をつかんでしまった女の子が、目の前にいる……。
手が滑りそうだ。額から噴き出した汗も落ちそうだ。
おれは、水滴を纏ったままのグラスを、彼女の前に差し出した。
「メニューお決まりになりましたら、お知らせください…………」
彼女は細い声で、はい、とだけ言った。メニューをひらいて、可愛らしく描かれたコーヒーの絵に視線を落としている。その、睫毛のつくる陰、どれだけ説明してもいつまでも深い意味を持ったままの謎めいた横顔。
ねぇ、気づいている? 気づいていない? どっち?
全身が膨張していくみたいだ。たぶん、これはいつか見た熱気球の姿に似ている。身体の内側から、微熱によって膨らんでいく。やがてそれは業火に変わり、自分の変容を隠すことなく、猛々しく、しかし緩やかに、上昇していく様子。
何か言葉を放ちたい。何かを言えたら、さらに、そこに言葉を付け加えたい。でも、たぶん、あのとき生まれたまっさらな欲望は、いつまでもそのまま。
彼女はメニューを開くと、細くて長い指でコーヒーをさした。
本日、二杯目。
「緑さん、コーヒー、だそうです」
「うぃ。なんか今日は珍しいな。短時間で二杯も出るなんて」
「ですね」
「あれ。大和くん、顔色悪いよ?」
顔色っていわれたのに思わず手のひらを背中に隠した。つくった拳の中から、ついに汗が滑り落ちる。
「そうですか?」
「うん。どす黒い」
「コーヒーみたいにですか?」
「全然おもしろくない」
余裕のなさ。この余裕のなさ。
緑さんは無表情のままコーヒーを淹れ始めた。
その間、彼女は茶色い手提げ鞄の中身を探っていた。あの華奢な鞄から、何が出てくるのだろうと観察していると、白い画用紙の束が出てきた。違う、単なる画用紙じゃない。ここからだとぼんやりしていてよく見えないけれど、スケッチブックを一枚一枚切り離して持ち歩いているんだ。なんでそんなことをしているんだろう。
「あの子、どんな子?」
緑さんが唐突におれに訊いた。繊細に動いていた手が止まってしまっている。
「え?」
「はやく。コーヒーいれられないでしょ」
「どういう……」
「知り合いじゃないの?」
「違います」
「ふうん。じゃあ、どんな子だと思うの?」
「えぇ……」
「はーやーく。イメージしないとつくれないの」
なるほど。だからコーヒーを作るとき、ときどき作業が遅いんだ。
「たぶん、変態……」
「え?」
「いや、なんでもないです」
「へぇ、変態なの。あの子が?」
「いや、だから、なんでもないです。何も知らないし」
「だって、いま変態って言ったでしょ」
「……忘れてください」
緑さんは鼻歌交じりに、作業を再開させた。
彼女のほうを再びみてみると、今度はさっきの画用紙を複数枚広げている。なんだか、薄い色で描かれているようだ。
黒い……幹のような………のっぺりしているものが、滑らかに根をはっている。
でも、よく見えない。彼女の肩越しに見える絵は、古くて硬い皮膚のようにも感じた。直でみてみたら、直にさわってみたら、心がざらつく。きっと肌がむずむずする。そんな気がした。
彼女に近づきたい。怖いもの見たさは緩やかに狂気にかわり、一歩ずつおれを前に進ませた。
彼女はおれに気づくことはなく、手元の複数の画用紙を紙芝居みたいに順番に見比べている。
これ、もしかしてほとんど同じ絵なんじゃないか。細い幹だと思っていた絵は、やせっぽっちの身体だった。たぶん、これは若い男がモデルなんじゃないかと思っていたけれど、彼女が次の画用紙に移るたびに、だんだんと身体が丸みを帯びていく。ごつごつした胸元は内側から空気を入れられたように膨らんでいき、その反対に、腹は空気を抜かれたようにしぼんでいく。
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