【短編】あなたが好きだと言ったそれに僕はなりたい【第一話】
揺れている。左右か、上下か、そのどちらかに、その両方に
いつもの、ひどい家鳴りだと思ったけれど、違った。感じるのは音だけではなくて、身体が振動に乗っているのがわかる。よく知りもしないのにきちんと恐怖のメロディが枕元で流れている。手を伸ばして布団を探索するが、掴めるのは柔らかいところだけ。
くっついた瞼の隙間から影がぼんやり。白い頭。黒い腕。叔父が僕の顔を覗き込んでいる様子が僅かにみえる。
僕をみている?
ついさっきまで確かに頬にあった熱の感触が、だんだんとほどけていく。
僕は目を覚ましたのか?
光は、まださしていない。
きっとまだ真夜中なのだろう。いつの間にか揺れはどこかへ消えていて、僕はまた布団に溶けていった。
夜中に地震あったよね、と洗い物をしている叔母に訊く。皿の擦れる音に紛れて、全然気づかなかった、と言われる。目の前の叔父は、本当に食べているのかと疑うほど静かに、静かに口を動かしている。その大きな身体から、小さな所作をうむ指先。僕はもう一度、箸をきちんと持つようにして、小鉢を手にとる。
あぁ、落としたひじきが太ももで冷たい。制服の黒に、さらに黒いシミをつくる。叔父や叔母には、いちいち落ちたことは言わずに、拾い上げたひじきを奥歯できちんと噛んでおく。たぶん、この音は僕にだけしかきこえていないし、大丈夫だと思う。後は遠慮せずに綺麗に食べきればいい。
昔過ごしたことのある光景とは、どこか違う。けれど、ここは僕のイメージするような家族の朝。そこからはほとんど逸脱していないと思う。少しだけ食卓は静かだけれど、僕の心も無事に平静なので、これといって問題はない。
この生活は、小学生の頃から続いている。叔父と叔母に引き取られたのは小学校二年生の時だった。両親が亡くなった後、親戚の中で真っ先に声をあげたのが叔父夫婦だった。ほとんど話したことのない叔父夫婦が、率先して僕を引き取ろうと決めたときは驚いた。僕が小さいころから会ってはいたが、お正月にうちの家に来るくらいで、お年玉をもらった時に僕の頭を大きな手で撫でる、それだけが唯一のやり取りだった。それでも、お年玉の額は親戚の誰よりも多く、その大きな手も全く気にならなかった。
初めてこの家に来た日、叔父と叔母はえらく緊張している様子で、僕のことを壊れ物のように扱った。言葉のクッションで何度も何度も包む。中身がみえなくなると思うくらい包んでから、ようやく子どもにかけるような言葉をくれる。
そのぎこちなさに、時には嫌気がさしたけれど、ここで生きていくしかなかったので、結局ここで生きてきた。今、僕は居心地が悪いわけではない。ただ、家族の会話というものが少なくて、寂しくもあった。
「行ってきます」
「あ、お弁当」
明日は給食がない、というのが昨日の晩の会話に僕が選んだテーマだった。僕から話しかけたからなのか、いつもよりも会話は弾んだ。
叔母は何が食べたい? ということをしつこいぐらいに僕に訊いてきて、僕は冷凍庫に余っていた冷凍食品の中から好きなものを指さした。そのとき、叔父は同じものにしてくれ、とテレビに向かって言った。
そして今朝、いつもは一つしかないお弁当箱が二つ、親と子みたいなサイズ感でテーブルに並んでいた。黒ゴマがらせん状に舞っている、梅干しを神々しい原点として。
そのとき、僕はもちろん小さいほうだろうなと思っていた。しかし、今、叔母からは大きいほうのお弁当が差し出されている。
「こっちのほうなの?」
「食べなきゃ。育ちざかりなんだから」
うん、と僕は玄関の向こうをみて呟いた。この辺だなと思うあたりでお弁当を受け取る。背中に、いってらっしゃい、が今暖かい。一方で、ひじきの跡がまだ冷たい。
ぶおお。車窓の向こうが真っ暗になって、顔、顔、顔、顔、顔がぼうっと浮かび上がる。
たくさんの人の中で、自分の顔が揺れている。ひと際ぼんやり映る、僕の顔。来年、高校生になるとは思えないほど幼い。まだ、成長期がきていないような顔をしている。背は隣のおじさんを追い越すだろう。もう少し肌はがちがちとしていく。そのうちに髭が硬くなるたぶん、この声もまだまだ、低くなる。そんなことを、人の体温に揉まれながら考える。
まただ。
その生温さを腰あたりに感じる。それは、僕の身体のどこがどうなっているのかを知っているように、丁寧になぞっていく。
はねた、とんだ、すべった。
なんだか喜んでいるみたいだ。やがて、難しい手つきをして僕の中へ入ってくる。そんな手なのに、大事なものを扱うように僕はほぐされる。電車の揺れにあわせて、僕は身をよじらせる。
この手のひらは、何を求めているんだ? 僕の長い髪に騙されているのか? それとも、本当は男だってことを、よく知っているのか? どんどん身体が熱くなってく、駄目になってく。
ぼんやり映る、僕の顔。その造りが、僅かに歪んでいる。もう少しだけ右に、もう少しだけ左に、それぞれのパーツが動いてくれれば、美は生まれる。たったそれだけで、きっと美は作り出される。
車内アナウンスが何かを言っているのに気づいて、手のひらは浸食をやめた。僕の顔は消えて、今はビル、ビル、ビルを映している。電車は動きを止めて、軽快なメロディとともにドアが開く。一度決壊した電車の後に、もうほとんどその熱さは残っていなかった。
授業中、怖くなるほどの揺れがあった。はじめは先生も生徒も揺れに気づいていない様子だった。僕が気づいてから、数十秒して、教室はざわつきはじめた。地震、地震、と『さしすせそ』を急いで小さく言うみたいに声を潜めて、それでも地震の揺れと同期するように皆の声は大きくなった。声が大きくならなかったら、地震はそれほど怖くなかったのではないか、そんなことを思いながら、先生の指示に従って、机の下に閉じ込められたみたいに丸くなる。
揺れている教室の中で、どこを見ていればいいのかわからず、安祐美のつま先を見つめた。僕とは違って、怖がっていなさそうで、目が合うと余裕の笑みをみせていた。僕たちはそんな秘密のやり取りを、揺れている間、ずっと続けていた。中学生の男女、閉じ込められた檻の中、互いに見つめあっている。
両手で檻みたいな机の脚を掴み、互いに互いが収まっているのを確認する。振動で机の中から落ちそうな教科書が、今にも安祐美の背中に直撃しそう。ズッ、ズッ、とその姿が見えてきている。安祐美はそれに気づいていないようで、ずっとこちらを見ている。
もしも安祐美の家で地震が起きたら、安祐美は両親に大事に守られて、怪我の一つもしないのに、それでもピアノの鍵盤の調子が悪くなったの、と嘆くのだろう。
僕はまだ、安祐美のつま先をみていて、半分脱げた上靴はぶらんぶらんと宙を泳いでいた。視線を送っているわけでもないのに、僕が安祐美の顔に目をむけると、いつだって目があってしまう。
頬杖をついて、わざわざこちらを見ているあの子の姿に、車窓に映る自分の顔を重ねてみる。あの子も、あんなふうに顔をつくるのだろうか。あの子のどの部分をどうしたらそうなるのだろうか。難しい数式の隣に、その顔を丁寧に描いていく。完成した顔を色んな角度で眺めてみるけれど、苦痛を感じているようにしかみえない。
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