稀代の後継者(原作:太宰治「走れメロス」)
明朗(めいろう)は激怒しなかった。
一切、怒りはしなかった。
正確には、怒り方がわからなかった。
怒りという、身体の芯から沸騰するようなあの感覚は、もはや忘れてしまった。そもそもそんなものは自分に備わっていたのだろうかと考えた。怒りのあぶくの一つすら見えてこない明朗は、自分には何かが欠けているのだろうと感じた。
クラスの中心は、いつでも明朗の担任の教師だった。彼は、いつも軽そうな身をかかえて、快活に教室に入ってくる。イケメンの顔が現れると、生徒の誰かが元気に挨拶をして、それが瞬く間に教室中に広がり、熱気が教室の隅々まで浸透していく。
教室の端の端まで、居心地の良さとやらが伝わるころには、みんな色めき立っていた。イケメンは、音のすべてを吸収するかのようにして、教壇でさわやかに挨拶をする。
そのおかげか、クラスには明らかな悪人などいなかった。みんな、それなりに仲良くやっていた。たまに、女生徒が見知らぬ誰かのことを悪く言っていたのを明朗は耳にしたが、よくある愚痴の類いであり、特に大した内容ではなかった。目に見える暴力など、この教室のどこにもなかった。
なんといっても、この教室は平和であるので、あのイケメンに対しては服従するしかなかった。
しかし、どこかがおかしい、と明朗は感じた。この間の国語の授業では、邪知(じゃち)暴虐(ぼうぎゃく)の権威に対して、勇者メロスは反意を示していなかったか。あのように生きろというならば、自分は先生に背いて生きなければならない。とはいえ、あの爽やかでイケメンな先生が邪知暴虐の主であるかどうかは、まだ中学生の明朗にはわからなかった。
かの大臣のことは教科書の中に確かに見つけたが、悪さの限りを尽くした人物など、教室のどこにもいなかった。明朗は、教科書の大臣の顔を必死に思い浮かべようとするが、いつまでものっぺらぼうのままだった。
明朗は、政治については理解していた。彼は、聡明な生徒である。公民の授業では、積極的に議論を行い、中学生ながら政治や法律とにらめっこしてきた。けれども、悪のことなど結局は何もわからなかった。それでも、悪と戦いたくて仕方がなかった。明朗はメロスになれる素質が自分にはあると信じていた。つまり、彼は成長期の大事な節目を迎えているのである。言い換えると、中二病の真っ最中なのだ。
担任の先生の授業になると、皆の顔が綺麗に黒板へと向かい、明朗はそれがずっと陰鬱であり、休み時間に二つ隣のクラスへと気晴らしに来た。明朗にはアイドルオタクの友がいた。芹(せり)輝(てる)である。今は、クラスでオタクの名をはせている。その友をこれから尋ねるつもりなのである。
冬休みであったので、久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。廊下を歩いているうちに明朗は、隣のクラスの様子を怪しく思った。陰気に満ちている。まだ昼休みの時分であり、給食時間の語らいが残っているはずで、クラスの雰囲気は明るいのが当たり前である。しかし、なんだか、クラス全体が、やけに暗い。もともと陰気な明朗も、さらに陰気になってきた。
廊下で逢った隣のクラスの生徒の袖をおもむろに掴んで、何かあったのか、冬休み前に此のクラスに来たときは、授業中でも皆がはしゃいでいて、クラスは陽気であった筈だが、とぼそぼそ質問した。生徒は、俯いて「そりゃあそうだよ……」と答えた。
しばらく歩いて女生徒に逢い、今度はもっと、語勢を弱くして質問した。女生徒は悲しそうに「来年度、あのイケメン先生が、学校を辞めちゃうんだ」と答えた。
「なんで?」
「わかんない」
「それなら、なぜウチのクラスの担任をしているのに、自分のクラスの生徒に真っ先に言わないの?」
「それは、私たちが無理に聞き出したから……」
聞いて、明朗は激怒した。
「呆れた先生だ。放っておけぬ」
明朗は、聡明な一方で、非常に単純な生徒である。頭の中では、思い描いていた構図が今現実となり、メロスに想いをはせた。同時に、このきっかけを大事にしなければと思った。彼のようになれると思うと、だんだんと高揚していった。さきほどまでの陰気が嘘のようだった。身体の芯から焚き付けられたこの感覚は久しぶりだった。
職員室の扉を勢いよく開けると、コーヒーの匂いがした。空気に色がついている気がして、急激に大人の世界に浸る思いになった。
「先生!」
「おう、明朗か。どうした?」
コーヒーをすするイケメンの先生を見つけると、明朗はどんどんと床を鳴らして近づき、言い放った。
「クラスを危機から救うんだ」
「え?」とイケメンは笑った。「なんのことかな……」
「ひどいよ先生!」と明朗はいきり立って反駁(はんばく)した。
「先生は黙って学校から去るつもりなんですよね!」
「いや、ちょっと落ち着こうか」
「これが落ち着いていられるかっ」
今度は明朗が嘲笑した。
「先生が去ったらクラスの良い雰囲気はおしまいだっ」
「ちょっと、声が大きいよ。ここ職員室だからね」と言って、イケメンは笑顔をみせた。明朗にとって、イケメンの白い歯は眩しかった。
「それなのに、黙って去ろうとするなんて、最も恥ずべき悪徳だっ」
「……うん」
「ああ、先生は確かにイケメンです。人気もあります。そうやって自惚れているがいいですよ。僕は、ちゃんと死ぬ覚悟でいるのにっ。先生を強く引き留めるなんて決してしない。ただ、――」と言いかけて、明朗は足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、僕に情をかけたいつもりなら、離任式までに、これまでのお礼をさせてください。これまで、クラスに秩序が保たれていたのは、先生のおかげなんです。離任式の前に、僕は先生にお礼をさしあげ、必ず、先生の気持ちを塗り替えて見せます」
「明朗って、おもしろいこと言うよね」
イケメンは若くて逞しい声で笑った。
「僕は約束を守ります。僕を、離任式まで昼休みの掃除当番を免除して下さい。先生のために、昼休みのうちに購買部でイチゴサンドを手に入れます。あれを手に入れるには激戦に勝たなければなりません。あの激戦で噂されるイチゴサンドを知っていますね? そのイチゴサンドを、先生のために、手に入れます。だから、掃除の時間を犠牲にしたい。そんなに僕を信じられないならば、いいでしょう、二つ隣のクラスに芹輝というドルオタがいます。僕の無二のアイドルオタクの友です。あれを、人質として掃除当番にしましょう。僕が掃除から逃げ続けて、離任式の当日まで、掃除をさぼっていたら、あの友人を廊下にでも立たせて下さい。たのむ、そうして下さい」
それを聞いて、イケメンは感銘をうけた。かつてここまで明朗快活に宣言できた生徒はいただろうか。いや、いない。この子は、明朗という名に恥じぬ勇ましさを有していると、イケメンは喜ばしく思った。
「そこまで必死になってくれて先生嬉しいよ」
「何をおっしゃる」
「でもね、明朗、先生は別に隠してたわけじゃ……」
イケメンが言いかけたとこで、明朗はその場を瞬く間に去った。職員室であれほどのスピードをみせたのは彼がはじめてだった。まもなく体育教師の怒号が響いたが、むろん明朗には聞こえるはずがなかった。彼はいま、自分のことで頭がいっぱいである。
ドルオタの友、芹輝は、その日のうちに、事情を聞かされた。イケメンの先生の面前で、二人は、二週間ぶりで相逢うた。激しく論じる明朗を前にして、芹輝は「なんで、なんで?」と繰り返した。しかし、芹輝は明朗の必死の形相に、僅かながら心を打たれた。「例の限定フィギュアをくれるなら、考えてあげてもいいよぉ」と芹輝は言い、明朗は「もちろんだ!」と宣言した。それを聞いた芹輝は目を輝かせて「うおおおおお」と叫んだ。結局のところ、小難しい理屈は要らなかった。二人の友情的には、それでよかったのだ。
芹輝はその日以来、自分のクラスではないのにもかかわらず、明朗の代わりに箒を持った。明朗は、昼休みになるとすぐに購買部に出発した。イケメンは「やれやれ」とそのたびに言った。
初春、わずかながら梅が開花していた。
明朗はイチゴサンドへの道のりを甘く見ていた。もちろん、本校において一番人気の品物であるということは心得ていた。群れる人をかきわけ、この色白い手をぐいと伸ばす必要があることは承知していた。しかし、競争は想像を遥かに超えていたのだ。
まず、同じクラスの山之内氏は非常に強敵であった。彼は大きな体格を武器に、周囲に怒号を浴びせながら、購買部のおばちゃんの元へと前進する。恐れをなした群衆は、彼が近づくと、大きな隙間をつくっていった。もはや彼は自身の腕力を持て余していた。彼がイチゴサンドを手に入れるとき、毎度のようにイチゴがはみ出ていた。
加えて、隣のクラスの村山氏も尋常ではない。ときおり、奇声をあげながら、前進する。しなやかにその身を扱い、群衆の間を縫っていく。イチゴサンドは彼女の手に吸い込まれるようにして、瞬く間に消えていく。
イチゴサンドは一日に二つしか売られていない、本校における超限定品である。すなわち、明朗がイチゴサンドを手に入れるためには、この二人に勝たなければならないことを意味していた。しかし、来る日も来る日も、明朗は二人には勝つことができなかった。そうして、十日が過ぎた。
僕は、今度、廊下に立たされる。そのために走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。先生の奸佞(かんねい)邪智(じゃち)を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、僕は廊下に立たされる。さらば、僕のクラスの掃除の責務よ。
まだ中学生の明朗は、つらかった。幾度か、もういいかな、もうやめようかな、疲れちゃったよ、と思った。それでも、えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。
今日もまた、教室を出て、廊下を横切り、購買部に着いた頃には、いつものように山之内氏と村山氏は乱闘を繰り広げていた。明朗は額の汗をこぶしで払い、彼らの乱闘に交じった。
イチゴサンドは、きっとおいしいだろう。しかし、僕には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。それを先生に食べさせてあげれれば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。離任式までには、まだ一か月以上あるじゃないか、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きなアニソンを、フンフンと歌い出した。翌日、翌々日と、怠惰なレースを繰り返した頃、降って湧わいた災難、明朗の足は、はたと、とまった。
見よ、前方の購買部を。今まで購買部では見かけなかったイケメンの姿がそこにあるではないか。男子生徒たちは気さくに先生に話しかけ、女生徒たちはメロメロになっているではないか。例の山之内氏も例外ではなく、「先生、イチゴサンド譲りますよ!」などと述べている。村山氏も「先生、バレンタインは何チョコがいいですか!」などと訊いている。
そうだ、そうだった!
早急に先生に届けなければならないものがある!
明朗は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに「先生!」と呼んでみたが、イケメンは購買部を華麗にスルーして、いよいよこの場を立ち去ろうとしていた。
明朗は群衆の後ろでうずくまり、男泣きに泣きながらメロスに対して哀願した。
「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う生徒たちを。時は刻々に過ぎて行きます。今はお昼休みの中頃です。終わりのチャイムが鳴ってしまわぬうちに、イチゴサンドを手に入れることが出来なかったら、あの良い友達が、私のために廊下に立たされるのです。……今だ、群衆がイケメンに目を奪われている今こそ好機!」
群衆は、明朗の叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。
今は明朗も覚悟した。群衆に混ざる他無い。
ああ、勇者メロスも照覧あれ。濁流にも負けぬ正義の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。
明朗は、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う生徒たちを相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、勇者メロスも哀れと思ったか、ついに憐愍(れんびん)を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、商品棚の脚に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。僕はいま、勇者メロスのようになれている、そんな気がする。
明朗は購買部に並ぶ商品のうち、イチゴサンドを鷲掴みにし、「僕の勝ちだ!」と勝利を宣言した。
そうして、ほっとした時、群衆は殺気立った目で明朗を見つめた。
「おい、待て!」山之内氏が猛々しく言った。
「何だ。僕は昼休みが終わる前に、これを持って先生のもとへ行かなければならない。放せ。」
「だめだ。そのイチゴサンドを置いて行け。」
「僕にはイチゴサンドの他には何も無い。その、イチゴサンドも、これから先生にくれてやるんだ。」
「その、イチゴサンドが欲しいのよ。あなたが先生に渡すくらいなら、私が先生に渡す。」村山氏も引く気はない。
「さては、君たち、僕が獲得するのを待ち伏せしていたんだな。」
山之内氏や村山氏たちは、ものも言わず一斉に上履きを振り挙げた。明朗はひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その上履きを奪い取って「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、群衆のほとんどを殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って廊下をわたった。
一気に階段を駈け上がったが、流石に疲労し、明朗は幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ないのだ。
切れかけた蛍光灯の下で、くやし泣きに泣き出した。ああ、強敵の二人を撃ち倒し、ここまで突破して来た明朗よ。勇者メロスに勝るとも劣らない、もう一人の勇者明朗よ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。
ドル友は、おまえを信じたばかりに、やがて廊下に立たされなければならぬ。おまえは、勇者メロスの稀代(きだい)の後継者、ここで頑張らねば、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。渡り廊下の便所前にごろりと寝ころがった。
身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐された根性が、心の隅に巣喰った。僕は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。勇者メロスも照覧、僕は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。
僕は友を欺いた。ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。同時に、明朗ははたして自分の選択は正しかったかと自責の念にとらわれた。
イケメンの先生はたいして悪ではないのではないか。実際、あのイケメンが僕に何かしたか。公共に対して何かしたか。それが定かでない。あの大人の考えていることは不明瞭だ。僕の心はいつだって波乱だというのに、なぜあんなに落ち着いていられる。なぜあんなに、真っ直ぐと立っていられる。
いや、しかし、あのイケメンは隣のクラスのなんとかかんとかの名を持つ女生徒を悲しませたのだ。それは許しがたいはずだ。社会通念上、女子を泣かしてはいけない。いや、泣いてはいなかったかな、あんまり覚えてないや。
とにかく、あのイケメンは悪だ、悪だ、悪だ。きっと、悪であれ。伝えるべきことをきちんと伝えないなんて、それはもう、強力な悪になりえる。少なくとも僕は許せないし、きっと社会もそれを許さない。そもそも、イケメンの先生なんて、反則すぎないか。なんであんなにカッコいいの?
「あんのイケメンめぇぇぇ、でも憧れるぅぅぅ」
嫉妬と憎悪の果てに、明朗は新しい勇気を手に入れた。たとえ負の感情から生じる行動力であろうとも、構わない。自分以外の者も肯定していたい、大事にしたい、そう思った。
廊下を歩く生徒たちを横目に、明朗は、脱げた上履きや乱れた制服を気にもせず、ただ青々しく走った。生徒会の連中とさっとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「芹輝が掃除狂いになってるぞ。」ああ、その男、その男のために、僕は、いまこんなに走っているのだ。急げ、明朗。もうイチゴサンドはこの手にある。自分の中の正義を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。呼吸も出来ず、二つ、三つ、イチゴサンドからイチゴがはみ出た。匂う。はるか向うから、職員室のコーヒーの香りがやってくる。いつまでも黒い黒い匂いは、なぜかいつもより優しい。
まだ昼休みはかろうじて続いている。最後の死力を尽して、明朗は走った。明朗の頭は、からっぽだ。はじめから何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。ぷっ、と放送音が鳴り、終了のチャイムの音がそれに続いた。聞きなれたメロディの、まさに最後の一片の音色も、消えようとした時、明朗は疾風の如く職員室に突入した。間に合った。
「先生、イチゴサンドを手に入れました。約束の通り、先生のためにイチゴサンドをここに持ってきました!」と大声で職員室にいるイケメンにむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、イケメンは、明朗の到着に気がつかない。
それどころか、芹輝がイケメンの座席の前で、なにやら説教を受けているようだった。明朗はそれを目撃して最後の勇、先刻、群衆を泳いだように体育教師の激しい注意から身をかわし、「僕だ、先生! 廊下に立たされるのは、僕だ。明朗だ。芹輝を人質にした僕は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついにイケメンと芹輝の前に立ち、真顔のイケメンと、同じく真顔の芹輝の肩を揺さぶった。
「芹輝。」明朗は眼に涙を浮べて言った。「僕を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。僕は、実は限定フィギュアなんて持ってはいない。君があれほど欲しがっていた限定フィギュアは持っていないんだ。僕は君の気持ちを理解していなかったんだ。君が若し僕を殴ってくれなかったら、僕は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
芹輝は、察した様子でうなずき、控えめに、ぺちんとメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑んだ。
「明朗、僕を殴れ。痛いのは嫌だから、ぺちんと僕の頬を殴れ。僕はこの数か月、ずっと、限定フィギュアのことだけを考えていた。しかし、君が考えていることなど、僕は同じようには考えていなかった。僕だって、君と同じように、自分のことばかりを考えていた。君が僕を殴ってくれなければ、僕は君と抱擁できない。」
明朗はてのひらを緩やかに芹輝の頬へと持っていった。
「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ぴったりと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
イケメンは、二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かになると、二人に対して気さくな笑顔でこう言った。
「君たちの望みが叶ったね。君たちの心は、立派に成長している。心の成長とは、決して目に見えないものではなかった。できれば、このまま自分たちの思うように生きてみてほしい。できれば、君たちの、そういった姿を、僕は近くで見ていたいと思う。」
どっと職員室の中で、歓声が起った。
明朗は、廊下の窓辺でたそがれることにした。自分は一つ成長を経た人間であると、信じながら。誰かが、今の自分をみていてくれたら。……誰かが、自分のことを大人な姿であると思ってくれないだろうか、などと考えた。
しかし、窓枠には毛虫が這っており、それを見てしまった明朗は幼い子供のような声で驚いてしまった。危うく、イケメンから借りたコーヒーカップを落としそうになり、もはや大人のかけらもないことを残念に思った。
窓辺にたつと、コーヒーカップから湯気がたっているのがよくわかった。それは、冬の寒さを思わせた。明朗の体温は、最近上がりっぱなしで、寒いなんて感じることは全くなかったのである。
目を閉じると、放課後の音がきこえる。遠くから、吹奏楽部の演奏や、サッカー部の掛け声が、響いてくる。なぜか、それらが明朗にとって懐かしく思えた。そして、いきいきと活動する自分の姿を想像した。乾ききった冬の空気の中で、明朗の瞳は潤んでいた。
「どこに行ったのかと思ったら」
背後から、イケメンに声をかけられて、カップを持ち換えた。自分よりもずっと背の高い姿を目の前にして、明朗は背伸びをしようとした。だが、彼はすぐにそうするのをやめた。
「ええ、まぁ、寒いところで飲んだほうが、コーヒーはおいしいかなって」
「なに言ってんだ、明朗」
子どものくせに、という言葉が後に続いたように思えた。イケメンが本当にそういったかどうかはわからなかった。
「先生」
「どうした」
「なんで、学校辞めること、黙ってたんですか?」
「……ああ。そういうこと、あんまり早く言っちゃうと、しんみりしちゃう時間が長くなるでしょ」
「……」
イケメンは、生徒のことを考えて、自身が辞職することについて、あまり言わないようにしていた。しかし、明朗の思春期ははじまったばかりである。善と悪の見分けはまだつけられないし、自分本位になりがちなのだ。
「……そもそも、なんで辞めちゃうんですか?」
「うん……。先生、病気なんだ。」
明朗の顔は、みるみる悲痛に満ちていった。イケメンに、僅かにみえた心の裂け目を、明朗はしっかりと見つめていた。
「え、それって、治るんですか」
「まぁね。すぐとはいかないけど。」
明朗は少しずつ成長をしていた。彼は自己中心的な自分に、ややとも不快感をいだき、何か別のものに変わりたいと思っていた。明朗の憧れはずっと教科書の中にあった。その一方で、不意に目で追ってしまうイケメンの姿を、意識せずにはいられなかった。
「先生」
「今度はどうした」
「……コーヒー、苦いです」
「まだ早いって、さっき言ったろ。せめて高校生になってから飲もう」
イケメンは明朗の頭をごしごしと撫でた。思っていたよりも大きくて暖かい手だと、明朗は思った。
「先生、なんでそんなに、色々とイケメンなんですか」
不意に出た言葉が、急激に明朗の身体を熱くさせた。イケメンはふっと笑った。ああ、この人みたいになりたい。そう思ったのと同時に、勇者はひどく赤面した。
【初出】
「西村たとえ (2020) 共振 子羊出版」に収録
https://www.amazon.co.jp/ebook/dp/B088T2LP8B
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