過剰の自意識(原作:中井正一「過剰の意識」)
二時間程度デスクに向かったが、そのあいだタイピングをする手は全然動いてくれなかった。原稿の締め切りは近いのに、何のアイデアも浮かばない。首の骨を鳴らすと着ている服が臭いことに気づき、汗くさい服で煮詰まったカゴを持ってアパートを出た。
自宅に洗濯機が欲しい、とコインランドリーの洗濯機を前にして思う。なぜおれがわざわざコインランドリーまで来て、洗濯機を回す必要があるのか。
洗濯機も部屋に置けないアパートにしか住むことのできない自分に腹が立つ。おまけに、こんな古くて安いコインランドリーに頼るしかないなんて。洗濯槽はカビだらけ、蓋の上にはやけに太い毛が落ちているし、足元にはなんだこれトカゲの尻尾?
ふざけるな。
イライラしていても仕方がないので、さっさと洗って帰ろう。右ポケットに手を突っ込んで、硬貨を取り出す。百円が一つ、十円が……いち、に、さん……ぎりぎり洗濯料金には足りる枚数がある。
「……あれ?」
スタートボタンを押しても、一切反応がない。
「おら、どうした」
洗濯機に軽く蹴りを入れると、ボカンと音がした。
「おう、鳴いたな、もういっちょっ」
再度、蹴りを入れると、「いてぇ」という声がした。誰かいるのか? 辺りを見わたすが、誰もおらず、壁に虫が這っているだけだ。
「おい、起きろ」
「中だ、中にいる」という声がして、心臓が高鳴る。まずい、中に変質者が隠れていたのか。
「いてぇよ」
洗濯機の蓋をゆっくりと開けると、奥歯しか残っていない浅黒い肌のオッサンが膝を抱えてこちらを見ていた。ちぢれてぬれた髪だけが洗いたてのようだ。
「……なんだお前! い、い、い、いつから、ここここ、こっここここ、ここにいたっ」
「一度は、こんにちは、って爽やかに声をかけただろ。気づかないお前が悪い」
ぼろい布切れを着たオッサンは、爽やかさとは縁遠く、長く捨て置かれたガソリンみたいな匂いがした。ひび割れた石鹸を思い出させる細い指先が、おれの目の前で震えている。
「おい、お前、使うのか、使わないのかはっきりしろよ。僕も仕事でコインランドリーの妖精をさせていただいているんだからよ」
「……コインランドリーの妖精?」
「そうだよ。いい加減にしろ。今さら気づいたみたいな顔しやがってよ」
「はぁ?」
「ほら、はやく洗濯物よこせ」
「は? でも、これ壊れてるんじゃ……」
「壊れてねぇよ。常時フル稼働だ」
ぬっとオッサンの手が、おれの洗濯物へと伸びるが、反射的にその手を避ける。
「どちらにせよ、そこどいてくれよ。洗えるものも洗えねぇ」
なんでこのオッサンは洗濯機の中に入っているんだ。新手の変質者だな。きっと、洗濯機の中に隠れて、女性の洗濯物を狙って盗んでいるんだ。
「いいか、僕はコインランドリーそのものなんだ。お前の洗濯物はこれまでもこれからも僕が洗ってきたんだ。いいからはやくよこせ」
「洗ってきたんだ」の「き」にアクセントがあるところに、いちいち腹が立つ。なんでこんな変質者に巡り合ってしまったんだろう。
「もういい。どうせ故障してるし」
「故障って……さっきは僕の気分が悪かっただけだ。今なら気分がのってきたから、おら早く。そもそも、いつでも調子よく動いてくれるコインランドリーがいいなら、近くにできた、やけにおしゃれなコインランドリーにでも行けばいいだろう。いや、お前には行けないか」
「そうだよ、そういうところは料金が高けぇんだよ。おれだって、もっと綺麗なところで洗いたいわ」
「じゃあしょうがねぇな。お前はここがお似合いだわな」
なんでおれはこんなやつとまともに話しているんだろう。もういい、早く立ち去ろう。そう思ったものの、オッサンはおれの服を掴み、放してくれそうにない。
「どうせ全国のコインランドリーでは、みんなペロペロして洗っているんだ」
「わけがわからん。じゃあ、洗濯機を買うよ。洗濯機を買って、家で洗う」
「お前んち、洗濯機おけねぇじゃねぇか」
なんで知ってんだよ。
「そもそも、家庭用の洗濯機でも同じだ。みんな、洗濯機の妖精がペロペロと舐めて洗う。確かに、家庭用の洗濯機の方が、自分の洗濯物だけをペロペロと舐めてもらえるから、気分はいいかもしれない。おれたちコインランドリーの洗濯機は浮気者だからな。あいつも、あの子も、あのオッサンも、全員のぶんをペロペロと舐めている。美女をペロペロと舐めた後に、オッサンをペロペロと舐めていることもあるし、その逆もある……。
よく周りを見てみろ。どこの家庭の洗濯機だって、どこのコインランドリーの洗濯機だって、洗濯機の妖精だらけだ。中に体操座りをして申し訳なさそうに居場所を持っている。世の中、機械化が進んでいるが、ほんとうはみんな機械なんかじゃなくて、こうして一所懸命に働いているんだ。
逆のことだって言える。人間というものは、他の人間を機械のように扱うことがよくある。たとえば、そうだな、コンビニのレジ、ターミナル駅の駅員、書店員、介護士に対して……。だのに、それらを利用する人々は何も知らない。ふんぞり返って、ただただ働いている人を侮辱しているだけだ。現代人というものは、働いているひとりひとりに、感情があり、帰る場所があることを想像してみるべきだ。お前たちは何も知らず、ただ長いだけの人生のプロセスの結論として、目の前の機械を機械として使っている、それだけなのだから。
嘘だと思うなら、僕にもう一度硬貨を入れてみろ。あと、下着もな。間違っても、お前の下着を入れるな。コインランドリーにも好みはあるからな。そうだな、お前の嫁のパンツでも入れてみろ。いや、お前結婚してなさそうだな。じゃあ彼女のパンツ……いや、お前彼女もいないだろ。冴えない面しやがって。もういい。僕はもう、お前のことは嫌いだから、洗ってやんないもんね」
……幻覚なのか? 俺は疲れているのか?
いったん、外の空気を吸おう。戻ってきたら、いつもの日常が戻っているかもしれない。
おれは一度店外に出て、美味くないタバコを吸った。大丈夫だ。街の景色は何ら変わりない。おかしいのはあのオッサンだけだ。
再び店に戻り、洗濯機の蓋を開ける。
「やぁ、こんにちは。って、お前か。見飽きたわ。フェイントかけんなよな。なんで出ていったくせに、もっかい来たんだ?」
「……」
だめだ。まだ洗濯機の中にオッサンがいる。わざわざ違う洗濯機を選んだのに、なぜ同じ顔のオッサンがまたいるんだろう。
絶望的な状況の中で、店内に他の客が入ってくるのが見えた。若く、綺麗な女性客で、こんな寂れたコインランドリーの客としてはとても珍しい。
その女性は、数分のあいだ、洗濯機のボタンを操作していたようだが、どうもあちらも不具合が起きているらしく、うまく動作していない様子だった。
「すみません。私、はじめてで、使い方がわからなくて……教えてもらっていいですか?」
不意に、女性に声をかけられる。全力で注意しなければ。
「ここのコインランドリー、使わないほうがいいですよ!」
「え? どうしてですか?」
「いいから、ほかの綺麗なコインランドリーに行った方がいい!」
「……一体なんなんです?」
「コインランドリーの中に気持ちの悪い変な人がいて、洗濯物をペロペロ舐めて洗うとか言ってくるんです!」
おれは言葉の勢いのまま、彼女の目の前にある洗濯機の蓋をあけた。中には美しい女性が女の子座りをして、彼女のものと思しき下着をすでにペロペロと舐め初めている。目が合った。カワイイ。
なぜだ? なぜ、おっさんじゃないんだ? ずるいじゃないか。不公平だ。
「こんにちは」
コインランドリーの妖精が、彼女に声をかける。
「こんにちは」
彼女は、さも当たり前のように、妖精に挨拶を返す。
「な、なんで! 驚かないんですか!」
「驚くって何にですか?」
「洗濯機の中に人が入ってて、自分の下着を舐めてるんですよ!!」
「……えーと、そうですね。あたり前じゃないですか……?」
「……えっ」
「もしかして、あなた、今気づいた人ですか?」
「どういう意味ですか?」
「うわぁ……。たまにいるんですよね。いい年になって気づく人……。ほんとうに今気づいたんですか……大丈夫ですか……お疲れ様です……」
おれは膝から崩れ落ち、地面の冷たさを感じた。
どういうことだ。おれの今までの人生が誤っていたとでもいうのだろうか。万が一、そうだとしたら、おれが今まで見てきたものは……。
洗濯機の中のオッサンの言葉。それが、目の前にある機械に滲む。お前は何も知らず、ただ長いだけの人生のプロセスの結論として、目の前の機械を使っているだけだ。
(了)
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