見出し画像

タトエバ34 体 ーALSだった母と暮らしてー




体  24年2月28日


頭とそれを支える首。

頭をまっすぐに立たせる。そこから、頭を前後させ、左右させ、回転させる首の運動を出来る範囲で行う毎晩のトレーニング。

車椅子に移るった母の後ろに立ち、頭の両側を軽く手のひらで掴んで支える。補助しながら、前後、左右、そして回旋。こちらが導くのではなく、母が動かすのに追従して支持されている安心をつくれば良かった。首の運動は嚥下することを維持するためのものだった。首を据えていられるという基本は座っていられることで、それはつまり、食べること、飲むことができるという可能性を保ち続けるものだった。生活の基本行為の土台となっていたものだ。会話が発声ではなく、道具を使ったものに移ってからは、頭を首を振るという動きがサインになってはたらいた。動かせることは様々なサインになって、こちらに発信してきた。起きていても寝ていても、母の声にならない声となって、こちらを呼び出した。


舌、それと喉

首の運動を済ませたら次は顔面の運動を行った。母の右前に膝立ちになり、こちらも頭を包むように軽く両手を添えて支持しながら、真っ直ぐ前を向いた状態で顔を動かした。まずは舌の動き。ベロを大きく突き出す。左右の口角に向かって動かす。突き出しながらぐるっと回転させる。次は顔の向きをそのままに視線だけを上方を見上げるようにする。その後にまっすぐ前を見ながら眉間に皺を寄せるようにする。その往復を繰り返す。どれも言語聴覚士から教えてもらった嚥下や発声の機能を守るためのリハビリだ。少しでも怠ると、いつも出来ることが出来なくなるようだと母は話した。訪問看護のサービスを受け出してから、舌と喉の機能訓練ははじまり、そして最後まで続けた。パタカラ体操はデイサービスの口腔ケアの一環にはじまっていた。話し続ける目的は、食べる・飲む、を守り続けるためのものにシフトしていった。はじめから最後まで変わらなかったのは、これが母と僕との会話だったこと。どう生きるのか、の出力だったこと。お互いに揺るぎがなかった。


座る、立つ力

寝たきりにならなかった。最後の朝に毎日と同じようにトイレに行き用を済ませた。その終わり方は想像の埒外だった。体はできることを失い続けたのに、立って座って、もっとも基本的なことを母は最後まで続けた。それが家で暮らすことを保ち、僕たちを支えていた。出来ることを出来るところまで。保ち続けるために何をしようか、何ができるだろうか、何をすべきかを考え、行動し続けることが母と僕を動かしていった。母の病態がそういうものだったということだけでは片付かないものがあると確信している。この病気には類型があり、更には、病状がどう進展していくのかは人によって千差万別だ。僕たちは僕たち以外に起こる病気の様子を気に留めず、比べず、それを頼りにして自分たちを促すことはなかった。自分たちに起こってくる一々に立ち向かい、考え、応じていく。どうするかを選び取っていく。母と僕は、自らで納得できることを第一にして病気と付き合っていたと思う。どんなことがやってきても真っ先に受け留めていく。どんなことも対峙するだけだった。だからこそ、母と共に手に入れていったものは比べられないものだった。母が最後まで立って座ってと出来たことは、母が自らで手に入れたもの。日々繰り返したことがその結果を引き寄せたものだとしか僕には映らない。母は最後に僕と共にトイレに行ったのだから。

理学療法士が体のリハビリテーションを行いはじめてから、大きな発見があった。母が信頼を置いた彼が、母に残っている力を見出してくれた。それは足を踏ん張る力で、腕を伸ばす力だった。重力が下方向に掛かる分をこちらが受け持ってあげれば、足や腕を伸ばす方向に押し出すことができた。もう動かないと思っていた手足が動いた。自覚するということは自分の可能性を広げてくれる。彼が発見してくれたことは母の気持ちを奮わせ、そして支えてくれたと思う。立つことは共同作業だという思いが一段と強まった。立たせ方はあなたの方が上手よと母に言われた。それはそうだよと応えた。何度だって立つことを繰り返した、諦めない貴方のお陰だよと思いながら。


体の境

手足は覆う脂肪を失くして、守るものがなくなっていった。体と外部との境が、脆く繊細になり、接触によるトラブルが簡単に生じた。立つ時、座る時、動かされるしかない体は為されるがままに、自由に動いてしまう腕は振り回され周りに衝突する。打たれた腕は簡単に内出血する。酷いときには皮膚が捲れるような傷を作ってしまった。すべては介助する自分の配慮の無さが引き起こした。

座っていても、寝ていても、同じ姿勢、同じ圧力を受け続ける状態は、痛みやその他の問題に繋がる。ソファに座っているときには、時折立たせ、又体を起こして大きく前屈みになってもらう。両腕を上に持ち上げ背伸びをする。腕を肩のところからぐるりと大きく回す。寝ていると、背中や肘膝踵、関節の周りがトラブルの要所で、寝る前にはプロペト(保護材)を洩れなく塗布することがリスクを下げる。同じ姿勢で居続けることができないのは人間にとっての当たり前。体に一様に外圧が掛かり続ける不自然は耐えられるものではない。自らで体を動かして状態を変えられないのだから、外からの力で体を動かすことは欠かせなくなる。体圧分散型のマットレス、空気圧の動きで体を定期的にローリングさせてくれるエアマットを使うことは、介助する側を大いに助けてくれたが、本人の苦しみ、問題を完全に解決してくれるものではなかった。

どうやったら楽になれるか、眠りを良く出来るか。母はやむにやまれぬ思いで、色々な手当、工夫を提案してきた。母を寝させる状態、体勢を作り、試し、少しでも良いものにならないかと探り続けた。仰向けでは、腕が体の厚みの中心より下がってしまうと、重さに耐えられないために肩周りに痛みが生じる。肘関節を包む役割も兼ねて、タオルをクッション代わりにして、腕肘の下にセットした。手はお腹の辺りにそっと置くようにする。脚をただ伸しているよりも、膝を曲げるようにして、膝から下が持ち上がるように畳んだクッションを敷き込むようにした。そうすると腰周りへの圧のかかり方が違う。仙骨の周りは、座る、寝るのどちらにおいても圧がかかる要所で、失くならない痛みを残して母を苦しめた。座っているときには、仙骨周りを浮かすように、お尻の両側にクッション代わりのタオルを敷いて跨ぐようにした。仰向けで寝ているより良いからと、背中に薄くクッションを滑り込ませて、体が少し傾くように斜め寝の体位でいることが長くなっていった。こまめに体の状態を動かし変化させる。その基本が一番大切で、その意識と実践が介助する側に求められた。

大きな皮膚のトラブルに発展する前に早めに異変を捉え、解消することが肝心だった。例えば、背中に生じた粉瘤。大げさではない見た目とは裏腹に、突き刺すような痛みを生じるものに変わっていって、座ること、寝ること、つまりは基本的な生活の行為のすべてを難しくする異常になった。数週間、原因や状態がわからないままに市販の軟膏等を塗布することできちんと対処することを先延ばししてしまった。看護師の機転で、皮膚科に外出し専門医に診てもらうと、診察はあっという間に終わる。処方された抗生物質の軟膏を塗布しているとみるみる症状は改善した。初動が大切なことを身に沁みて経験した。外出するということが只でさえ難しい病気だとしても、問題を先送りにしないということが一番の解決方法だった。


諦めない心

母は最後まで、ままならない体を繰り返し動かし続けた。毎晩のルーティンに限らず、いまできるトレーニングを繰り返す母をいつだって見つけた。台所で家事をしているとソファに座る母が1人でトレーニングをしているのを見つける。それがいつもの風景だった。動かせることを手繰り寄せる。か細くなっていく自分の力を最後まで決して手放さないようにしていた。それが母の生を繋いだ。


荼毘に付され、遺った母の骨はがっしりと形のままだった。

痩せて細くなった母の手足は生き続けることの無理をこちらに示し続けていた。母は弱っていった。いつまでも消えていかない痛みとなって浮かび上がってくる姿が記憶に染み付く一方で、母は最後まで若々しかったという印象が残っている。弱くはなっていったが老いてはいかなかった。病気は母を終わらせたが、母は最後まで決して変わらなかった。母の友人たちと話すたびに、誰よりも若々しい母を思い出し、見つけた。それはきっと、母が母らしく最後まで生きていたということ、そして、心が揺るぎなかったことを教えてくれている。

体は心を作り出し、そして、心は体を支えるようになる。


病気の中で撮った母の写真。誰かが乙女のようだと言った。みんなの記憶に残る、笑顔の母だった。ああ、ほんとうにそうだなと思った。





いいなと思ったら応援しよう!