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正義の討ち入り
皆さんこんにちは
一気に冬本番という気温になって来ました
冬真っ盛りの12月と言えば、皆さん思い浮かぶのは・・・
そう、赤穂義士ですよね。(クリスマスではないですよ。)
アナログテレビの時代は、赤穂義士の時代劇ドラマがこの討ち入りの14日~15日に放映されているのを見ておりましたが、今は時代劇自体がなくなっていて、なかなか見る機会がなくなってしまいました。
忠臣蔵の吉良上野介の布団に手を入れて、「まだ暖かい、近くにおるぞ。」というシーンを観れないのはなんだか寂しくおもいます。
ですが毎年、四十七士のお墓がある泉岳寺というお寺では、今も春と冬に赤穂義士祭が行われ多くの人が参拝されているようです。
(今年はコロナの影響で、自粛のようですが、、、)
直接血のつながりがあるわけでもない何百年も前の人々。だけども、その墓に参らずにはおれない。それだけ私たちの心を動かす魅力が義士伝にはあるのでしょう。
四十七士は日本人にとって今も昔も魅力的な正義の英雄たちなんです。
と、思っていたら令和の世では、残念ながらそうでもないようなのですね。
今の子供は、赤穂義士と言われても正義の英雄たちというイメージを持っていないようなんです。
なんなら、よってたかって老人をボコボコにしたテロリスト扱いをされてしまう事もある様なんだとか。
これを聞いて面白いな~と思いました。
忠臣蔵のドラマを見ていた私は、吉良は【悪】赤穂の浪士は自分の命を捨て、浅野内匠頭の為に討ち入りを果たした【正義の英雄】というのが当たり前であり、命を懸けて討ち入りに行く義士の生き方はまさしく忠(偽りのない)義(人間の良いとされる行動・思想・道徳)と思っていた。
しかし、それは「義士が善、吉良が悪」「悪は滅びるべし」という私のモノサシで見ていたからだ。
そんなモノサシなどもっていない今の子供にとっては、武装したテロリストが老人を集団リンチする様にしか見えない。
義士が【悪】に見える。
そもそも、今の子供達に忠義という概念(まごころを尽くして仕えること)自体、価値観として合わないようで、「切腹しないといけなくなるのに何で他人の為にそこまでしないといけないんだ」と思うようです。
自分を犠牲にするという事に、今の子はポジティブな感情を持っていないようです。
こういうことを見て行くと、私達のモノサシで語られる【善悪】ってホント不確かなものですね。私たちの中に不変なものなんてないんですよね。
だけれど、このうつろい続ける私という不確かなモノサシに無意識のまま振り回されているのが私達の生き方なんだと改めて,考えさせられたな~。
この善悪という事は身近な問題につながるものだと思う。国家の問題であったり、差別の問題であったり、、色々な人間同士の摩擦の原因ですよね。
だけれど、本当は私たちは、決して揺るがないモノサシをいただいているんです。
それが、仏法なんです。
私達は、心が揺れ動く時、振り回される時、大抵、この「私」という不確かなモノサシで測っている時です。
そんな時こそ、その不確かな「私」というモノサシを手放して、絶対に揺るがないモノサシ。仏法というモノサシに立ち返っていければ、少しは生きやすい世界になるのかな。
明治時代の当山御門徒 内田丹治翁の歌集より
信をえたとてえた顔するな 本のイロハに立ちもどれ
南無阿弥陀仏