平和の川が流れる
イザヤ48:17-22
ペルシア王キュロスを用いて、主は捕囚されたイスラエルの民を、バビロンからカナンの地に連れ戻します。故郷に導いてくださいます。「私は主」である、と宣言した、この神の言葉を聞け。預言者イザヤは、あの喜びの歴史を振り返り、それが主の業であったのだ、と評価します。「私は主、あなたの神」であるのだ、と呼びかけています。
さて、「わたし」の側は、これを受け止めるに価しているのでしょうか。「私の戒めに耳を傾けさえすれば」との条件めいた表現が気になります。なるほど、無条件に何でも与えられる、と考えるのは奇妙かもしれません。そこで、イスラエルに必要なことは何かとなると、主の言葉に「耳を傾け」ることなのだ、というのです。
もちろん、これはレトリックです。耳で聞けばそれでよい、と済むものではないでしょう。神の言葉に聞き従うことを前提としているはずです。だからこそ、「私はあなたの益となることを教え/あなたの歩むべき道にあなたを導く」と告げていたに違いありません。教えを訊き、神に導かれて動く従順さが、当然必要であるのです。
こうなると、そこにもたらされるものは何でしょうか。「平和」だといいます。ここに「平和」が「川のように」流れると描写されています。他方、「悪しき者には平和はない」のであって、その名は主の前から絶たれ、滅ぼされてしまうのです。イスラエルの平和は、バビロンから出ることで実現しました。子孫は砂粒の数のように増えるのです。
喜びの声は地の果てまでも響き渡ります。如何に乾いた地を歩まされたときも、人は渇くことがありませんでした。あの出エジプトの旅を心に刻め、と主が告げます。岩から水をほとばしらせた出来事は、ただの過去の物語であるに過ぎない、などということはありません。イスラエルの復興は、あの出エジプトの歴史を思い起こしたからこそのものでした。
出エジプトの歴史を、いまここに、そしてこの自分自身に重ね映すことでこそ、復興は実現したのです。私たちもまた、聖書の歴史をいま顧みていますが、聖書の出来事を自らの姿に重ねて捉えるべきなのです。たとえばこの捕囚からの解放の出来事もそうです。どうか、現在戦争攻撃を続けるイスラエル国も、この平和の流れをつくってほしいと願います。