聖書の言葉があなたを助ける
私も自信をなくすことがある。いまの仕事の中でも、ミスが多くなったのは、年齢のせいかな、とは思うが、だからと言って許されるものでもない。当然、落ちこむわけである。
そのような意味で自信をなくしたとき、大丈夫だよ、と力をくれる存在。それが人格神などと説明される、キリスト教の神である。イエス・キリストとして神はこの世に来て、私に「神を見る」という経験を与えてくれた。
これは実にうますぎる話だ。ただで、こんな素晴らしいことを味わわせてくれるというのだ。詐欺で儲けようなどという腹は神にはないし、騙すつもりも全くない。全部無料なのだ。
但し、条件がないわけではない。それまでに、神の前に頭を垂れて、跪きひれ伏すことが必要なのだ。自分の中には善いものが何ひとつないことを痛感し、神の前に何の価値もないものだ、と、決してただの卑下ではなく、真底思い知る経験が必要なのだ。
私もそうだった。本来自信など何もないような人間だと気づかされて、神の前に打ちのめされて二度と立ち上がれないほどになっていたところを、助け起こされて今日に至っているのが本当のところだ。それどもムクムクと、他人を見下すような悪い心が起こらないとも限らないが、そういう悪質な自分を叩きのめされた経験があるということは、やはり小さなものではない。いまもなお間違いに気づかされては、再び神の前にひれ伏す。
地面にひれ伏したその顔を、「上げてごらん」との声が聞こえる。見上げると、そこにはイエス・キリストの十字架が見える。そのとき、「赦し」というものが自分の全身に及ぶだろう。そして、新しい人生が始まることだろう。そうして、自分の足によってではなく、神によって立ち上がらされるのを知るのだ。
弱さを覚える人がいることと思う。その弱さを、あなたが願うほどに劇的に力強く変えてくれる、ということはあまり期待できない。ただ、そっと、かもしれないが、助け支えてくれることは確かだ。
本当に助けというものが必要である、という場合がある。精神的な「弱さ」だけでなく、命の維持のために切実な「弱さ」の自覚をもつことがある。ここに金銀さえあれば、と願う。そうしたら、この窮地を脱出できるのに、と。だが、聖書でも、「金銀は私にないが」別のものをあげよう、とイエスの弟子たちが力を注ぐ場面がある。
それでも、災害の爪痕は、悲惨であるし、それを体験した人、その当事者として真っ只中にある人がいるとき、私は何も声をかけることができなくなる。聖書の言葉を投げかけて、助けになれば、などと思わないわけではないが、実際かける言葉もない。
それでも、私は信じる。その人に声をかけてくださる方がいる。その人が出会えば、何かが変わる、そういう方がいる。イエス・キリストの言葉は、ひとを生かす力があるのだ、ということだけは、信じ続ける。また、そうなるように、陰ながら祈っている。それしかできないもどかしさを覚えつつ。
聖書は、解読するものでもないし、研究すればよいものでもない。理解する対象でもないし、人間がとやかく茶々を入れるような本でもない。ただ、そこから何かが聞こえてくることがある。目で追ってもいい。そこから何かが自分の中に及ぶことがあるのだ。何かを注いでくれたのを覚えることがあるのだ。
分からないとかおかしいとか、考え込む必要はない。傷口にそっと塗り込まれた薬が、気づかないうちに効いて治ることがあるように、聖書の言葉は、無自覚なままにも、心に染み入っていることがある。ふと気づいたときに、その傷が癒やされている、ということさえあるのだ。
こうした体験は、ひとさまざまである。私は私の形の穴によってしか、それを断言することはできない。ただ、多くの人の話を聞くにつれ、同様のことがあちこちで、それぞれの人に起こっているらしいことは、間違いないと思う。
そういう風を運んでくれる「礼拝説教」というものは、確かにある。直接説教者の体験を語ることがなくても(語るべきではない、という意見の人もいる)、その体験のある人が語るものは、必ず命を有している。それは、同じ命を知る者が聴けば分かる。「蛇の道は蛇」というと、悪いことが響き合うようなふうに聞こえるかもしれないが、必ずしもそうではない。通じる者には通じるのである。
もし、求める心がおありだったら、このことは心得ておいてよいと思う。何度聞いても心にピンとこない説教は、あなたが悪いのではない。語るほうの問題である可能性が非常に高いのだ。求める霊に応じる霊は、真実の霊である。いまは説教の動画をいろいろ見ることもできる。説教集という名のつく本もある。心に突き刺さる、あるいは心が晴れやかになる、そんな説教に出会うことができることを、ここから願っている。