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自分を救え (ルカ23:33-43, マラキ2:17)

◆救いの証し

ひとは、どうして聖書を読むのでしょう。何かを求めて、読むこともあります。そもそも読みたくもない、と敵意を抱く人もいるでしょう。読まない人々の中には、もしかすると、いくらか関心があるものの、下手に知ると引き込まれてしまうかもしれない、という恐れを覚える人がいるかもしれません。
 
私がそうでした。西洋哲学を志したとき、聖書を一度も読んだことがない、では済まされなかったはずなのです。だのに、分かったつもりでいました。それは、引き込まれてしまうことを恐れていたからではないか、といまは理解しています。
 
けれども、ふとしたきっかけで読んだ『帰りこぬ風』という小説で、聖書を読んでみたいと思わされた。そうして衝撃的な体験をするのですが、当初、教会という所に一歩足を踏み入れたら、大変なことになるのではないか、という怯えはありました。
 
私の救いの証しには、三つのポイントがあります。そうやって聖書を開いたとき、愛のない自分の姿を照らし出されたのが、まずはきっかけでした。救いへの第一は、「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9)と問われたことでした。自分の立つ場所というものは哲学的に重要だと気づいておきながら、この自分自身に対して神から突きつけられた問いは、私を足元から突き動かしました。惨めさを思い知らされました。
 
第二は、「道・真理・命」(ヨハネ14;6)でした。死への恐れが幼い頃からあり、哲学を学んだのも、その解決を求めていたからでした。しかし道も真理も命も、イエスという方の中にありました。十字架のイエスの前で、私はむせび泣きました。
 
第三は、罪は生まれつきなのか、という点でした。自分の抱える問題は、神ですら、なかったことにはできないだろうと思っていました。しかしイエスは「神のみわざが現れるため」(ヨハネ9:3)だという救いをくださいました。私は豊かに癒やされたのです。
 

◆十字架の場面

イエスの十字架の姿が、いつも私の目の前にあります。十字架は、私の罪のため、罪の身代わりとしてかかってくださった――それに間違いはないのですが、私の場合は、もう少し違います。私は哲学で、神を散々に罵倒していました。理論で論破するということが当たり前のように見えていました。聖書を一度もまともに読んだことがないくせに。
 
しかし聖書を開いたら、そこに私が見出されました。聖書の中に、私が描かれていました。福音書の、十字架へ至る場面にいました。私は、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆の中にいました。野次馬たちに隠れて、責任が及ばぬように気をつけながら、しかし実際は、先頭で爽快な気持ちで「十字架につけろ」と叫んでいたのです。
 
私がイエスを殺したのです。それが分かりました。それがベースとなりました。この鮮烈な意識があったからこそ、復活のイエスが私の救いとなりました。
 
十字架の場面でを選びました。そこから、文字で読むだけでも恐ろしく辛い場面ですが、イエスの十字架のお姿を見せて戴こうと思います。
 
四つの福音書は、それぞれ違った観点や資料に基づいて綴られており、同じ十字架へ至る一連の出来事であっても、いろいろ異なる記述が見られます。ただ、イエスの十字架は、単独ではなく、ほかに死刑囚が複数いた点については、すべての福音書が一致しています。今日はルカによる福音書から聞こうと思います。
 
十字架に架けられたとたん、自分の体重で窒息死への準備が始まると言われています。足台があったとなると、いくらか生存が延びるでしょうから、そのような構造になっていたかもしれません。しかし減ずることのない苦しみがあっただろうと想像します。
 
33:「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
 
ルカは、情景に3本の十字架を描きます。ルカの場合、イエスの右か左かという点で、他の福音書には取り入れられていない出来事を描くことになります。が、その前に、有名な言葉が続きますのでそれをお読み致します。
 
34:〔その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの衣を分け合った。
 
聖書は写本という形で書き継がれました。断片を含めると、かなりの写本が発見されており、そこから聖書の古い形の研究も進んでいます。写本の中には、この有名な言葉が欠けているものが多くあるのだそうです。そのため、これは後の時代に付け加えられたのだ、とするのが定説となっています。けれども、そのことと、価値がないという判断とは同じことではないと思います。改訂版だからだめだ、と決めてしまう理由はないと思うのです。
 
この句は、太平洋戦争の先制攻撃をかけた空襲部隊の総指揮官であった、淵田美津雄さんが、戦後キリスト教を信仰したときの、決定的な言葉でした。その後、こともあろうにアメリカへ伝道するために何度も渡っています。戦争の当事者ということで最初は冷たい扱いを受けましたが、その信仰が理解されると、日米両国の平和のために働きました。やがてアメリカの市民権も与えられます。
 
写本がどうのと議論するよりも、この言葉がひとを変え、ひとを新しく活かした事実に気を払うべきでしょう。これを聖書から削り取る正当な理由を、少なくとも私はもちません。
 

◆自分を救ってみろ

「自分が何をしているのか分からない」というのは、今の私たちにも突きつけられる言葉だと思います。こうした情況で、イエスに対して、興奮した者たちが、激しく罵ってきます。
 
35:民衆は立って見つめていた。議員たちも、嘲笑って言った。「他人を救ったのだ。神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
36:兵士たちもイエスに近寄り、酢を差し出しながら侮辱して、
37:言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
38:イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた罪状書きも掲げてあった。
 
今日のメッセージでは、この「自分を救うがよい」や「自分を救ってみろ」というところに焦点を当てることにします。ご記憶の方は、先々週のメッセージで、この場面を取り上げたことに思い当たることでしょう。本日は、それを踏まえつつも、少しばかり違う視点から、福音書を受け止めてみたいと考えています。
 
超能力や霊力があると宣伝する人が、時々世の中に現れます。テレビ局でも視聴率を上げるために、それが本物であるかのように演出する番組を放映します。母が、よく言っていました。そんな霊能力があるのならば、未解決事件を解決するのに役立てればよいし、行方不明の人を探してあげればいい、と。尤もなことです。テレビに出て、本を売って、金儲けをするために、特別な能力があるなどとすることに、どうして人々が面白がったり、ついていったりするのか、理解できません。
 
けれども、イエスに対して人々が侮辱したのは、そういうところに似た感情からくるような、罵声であったように思えてきます。ひとを救ってきた、そして救世主だと民衆が期待していた、その主人公が、いま捕縛され、見せしめの死刑台にいる。本当にひとを救う救い主ならば、いまこうして捕らえられている自分を救ったらどうなんだ。誰かがそんなイカしたことを口にしたとたん、周囲も「そうだ、そうだ」と同調します。最初の議員たちは、皮肉めいたつもりで呟いたのかもしれません。それが、人を殺す不遇な役割を担っていて面白くもない仕事にあたっていた兵士たちは気に入りました。書かれていませんが、群衆にも飛び火したのではないかと思います。
 
もちろん、こうした人々を非難するのは簡単です。マラキ書をお開きくださると見えてきますが、「裁きの神はどこにおられるのか」(2:17)などと横柄な態度で、平気で悪をなすようになったら、もうどうしようもないかもしれませんが、私たちはいつでも、自分は果たしてどうなのか、と問い直すように求められているのではないか、そう私は常々考えています。
 

◆自分を救えなかった

さて、やはりイエスは、そのようにして自分を救いはしませんでした。ここでスーパーパワーを披露して、十字架から降りて悪人どもをやっつけたのだったら、安直なヒーローものの実写映画になってしまいます。そこで、このことを説明するような説教が、よく語られました。イエスは十字架から降りることもできたのだ。だが敢えてそれをしなかった。すべての人を救う為には、十字架に架かる必要があったのだ――なかなかよく説明できていると思います。そういう面があったかもしれません。けれども私は、イエスはやはりそれがただできなかったのだ、というように受け止めています。
 
いやいや、「神にできないことはない」というではないか。おまえは神が全能だということを否定するのか。それとも、イエスが神とは関係がないとでも言うつもりか。異端め。そんなふうに言われそうです。言われても構わないことにしておきます。イエスは真に人としての生き方を通したのだ、という点を私は信じて疑わないからです。イエスが人の姿をした神として歩き回っていたなどという姿を想像したくないのです。それでは、なんでもできるのにすることを怠った偽善であるように見えなくもないからです。
 
だからこそ、ゲッセマネの祈りがありました。十字架上でのあの叫びがありました。私は静かに、その情景を思い浮かべます。疲労困憊もさることながら、鞭打たれ、ズタズタになったぼろ雑巾のような姿のイエス。昆虫採集の標本のように針で留められたばかりでなく、まだ息があり、自分の体重でその呼吸すら絶え絶えになっている。でも、この方が私の主だ、私を救うお方だ、そのように告白しているのです。それが、キリスト者です。
 
芥川龍之介が死の四年前に発表した小説に「おしの」というものがあります。異国の神父のいる南蛮寺に、一人の女が訪ねてくる。武家の女房らしい。15歳の息子の病を癒やしに来てほしいと願う。否、女は、見舞いに来てほしい、と言った。神父が病を癒やすという話を聞いたためである。しかし女が「観世音菩薩」などという言葉を口にしたために、神父は怒る。それは偶像だ。「まことの神をお信じなさい」と諭し、イエス・キリストの十字架の姿の画を示して説明する。この方は……と、イエスのしたことを語り、ついに「わが神、わが神、何ぞ我を捨て給うや」と十字架上で叫んだことを告げる。その瞬間、女は一気に冷めて、言葉を返す。武士たる夫の勲功を明かし、そうした気概もなく磔にされて臆病なことしか言えぬとは、そやつはなんと見下げ果てた者であるか。女は神父に背を向けて、去って行くのだった。
 
この母には、理解することができませんでした。人としての痛みを味わったというイエスの姿や、弱さや小ささの中にこそ神の愛を知るという旧約以来の神の救いは、なんと逆説めいていることでしょう。病を蹴散らす強き力を求める母の思いからすれば、全く役に立たなかったということでしょうか。そうなると、イエスをなじった磔の罪人も、そのような思いでいたのかもしれません。
 
39:はりつけにされた犯罪人の一人が、イエスを罵った。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」
 
けれども、この不平は、先の議員や兵士たちが嘲笑っていたのとは、だいぶ質が違います。イエス自身を救え、というのは同じであるにしても、「我々を救え」とは、と言うのです。当人が、イエスと同じように殺されようとしている、瀕死の状態でいるのです。「私を救ってくれないか」というように聞く必要があるのではないかと思います。安全なところから「自分を救え」と皮肉な態度でほくそ笑んでいるのとは違うのです。
 

◆救えなかった例

40:すると、もう一人のほうがたしなめた。「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。
41:我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
 
十字架は、ルカによれば3本立っていました。イエスと、このなじった罪人と、そしてもう一人。こちらは、イエスに対して、リスペクトを払っています。何をしたかは知りません。ローマ当局に十字架刑を言い渡されるとは、よほどのことをしたのでしょう。基本的に、ローマ権力に刃向かった者、政治の転覆を謀った者ではないかと想像されます。この男は、自分のそれが、死刑に値するものだと認めます。政治犯であれば、自分が間違っているとは思わないもの。納得がいかなかったであろうものを、なかなか深い洞察であるように私は感じます。しかしどうであれ、イエスには罪がないのだ、ともう一人の男を窘めます。どこでどのようにイエスのことを知ったのか、それは分かりません。その場で知ったのかどうかさえ分かりません。ただ、救う力のある方だということを信じているような形で、イエスに直に願います。
 
42:そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。
43:するとイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。
 
イエスは、こちらには「楽園にいる」しかも「今日」だということまで言いましたが、なじった方には何も言っていないようにルカは描いています。そのまま読むと、この男をイエスは救わなかったと理解できます。救わなかった。これは由々しきことです。救いを求めてきた人、世間から差別され虐げられた人、果たしてイエスが救わなかった例があるでしょうか。見捨てた記事はありません。それとも、福音書とは、癒やしや赦しの好例だけが選ばれて並べられて作られたものだったのでしょうか。本当は、描かれない失敗例も数知れずあるのでしょうか。
 
しかしここには、ある意味でその失敗例があります。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ」という持ちかけには、真実の叫びがあった可能性もありますが、横柄で自己中心的な揶揄のように受け取ることもできます。自分が死ぬことが分かっているその場でさえも、ずいぶんな精神的ゆとりのようにも見えますが、私たち読者に対して、強い牽制をしてきていると見るべきなのでしょう。
 
自分を救え――だが、救えない。救えないのか、救わないのか、あるいはまた、私たち人類の誰もがまだ気づいていない、神の思惑や計画が、そこに隠れているのかもしれません。私がそれを決めることを期待しないでください。ちっとも偉くもないし、賢くもないのですから。但し、私は一定の受け止め方を明らかにしました。もちろんそれは、万人の結論であるわけでもありません。聞く皆さん一人ひとりが、問いかけられているのだ、とお話ししておくのは、卑怯でしょうか。それぞれご自身が、イエス・キリストに出会って、直接十字架の上から呼び出され、自分へ向けて語られたその答えを、戴いてほしいと願っています。
 

◆神への信頼

「我々を救ってみろ」というのが文句なのか、無理だと分かってただ怒鳴ったことなのか、そうしたことは脇へ置いておきましょう。考えてみれば、もう一人の死刑囚のほうへは、「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と告げたのであって、いうなれば「救った」ことになると解釈できます。「我々を」は、とりあえず果たしたと捉えておきたいと思います。
 
では「自分を救ってみろ」のほうは、どうなったでしょうか。もし、その「救う」ということが、十字架に架からないこと、そこから逃れるということを意味するのであれば、自分を救うことはできなかった、ということになるでしょう。けれども、もしその後に復活させる神を信頼していたのだとすると、その救いに与ったことになります。
 
イエスは本気で怖れ、惑っていたのだとしても、同時に、父なる神へ完全な信頼を寄せていたということになるでしょう。イエスの弱さというものを大きく指摘する人がいます。そこまでは私も共感できます。しかし、同じ人が、復活の記事が聖書において文献的に根拠がない、などと言い始めたとすると、私は肯んずることができません。プロテスタントは「聖書のみ」という看板を、悪い形で鵜呑みにしてしまった結果なのでしょうか。聖書の文字を偶像視しているせいなのでしょうか。文字はひとを殺すというひとつの例であるような気がします。いったい何のための「信仰」なのだろうか、と悲しく思います。イエスは弱さを本気で持ち合わせており、同時に、復活の信仰も完全にもっていたのです。
 
聖書の記述していることについて、そんなことは論理的にありえない、などと思われるかもしれません。しかし、その論理というものは、神から来たのでしょうか。人の思いなしに過ぎないかもしれないものでしょうか。私たちは、聖書の中に、人間の知恵を外れた神の業を無数に見ています。それに驚く度に「逆説」という言葉を使うことができるかもしれませんが、もはやその「逆説」は、神にとり当たり前であるという意味での「神の論理」であると見たほうがよさそうです。
 
そして、それは論理遊びのための道具ではなくて、そのメッセージを受けた私たちが、このイエスに倣うように、イエスに従うように、という動きがミッションとしてそこにあるのではないか、と思います。私たち人間が弱いのは当然ですが、そこにイエスのような神への信頼が与えられるならば、確かにそのときたちまち楽園にいることにもなりえましょう。この希望の言葉に、ただすがればよいのです。
 

◆自分を救うのは誰

私はかつて、神を中心にした思想をつくりあげた西洋思想を、潰したいという野望をもっていました。一神教の傲慢さを許せないと思っていました。それは、ある意味ではいまも心のどこかにあるのではないかと考えていますが、当時はとにかく、神なしで、人は平和にできないのか、幸福になれないのか、それを考えていたときには、神のいらない哲学の中に、自分の救いを求めていたのだと思います。
 
それは、自分で自分を救うことを目指していた、と言うべきものでした。きっと、私だけではないだろうと思います。宗教は危険だとか、よく分からないとかいうのが当然の、宗教教育のない中で育てられた若者たちは、結局「自分を信じて」と歌うばかりです。昔は「仲間を信じて」というのもありましたが、近年は、信じるものは自分自身ばかりであると見ているように感じられてなりません。
 
それらは、自分で自分を救うということと、結びついているように思うのです。聖書から何かを聴くとき、私たちは、そうした考えから離れることを覚えます。
 
イエスは、「自分で自分を救え」と言われたことに対しては、多分に「否」という答えを返したことになるでしょう。「自分を救え」というのが「自分で自分を救え」の意味であるとしたら、イエスにはやはりどうしてもできなかったということです。けれども、父なる神が「自分を救う」と信じていたという点においては、文句なしに完全であったのだ、と強く感じます。
 
私も、そして私たちも、自分で自分を救うことはできません。けれども、私自身を救うのが誰であるか、それは分かるのです。私を救うお方を知っています。そのことに全幅の信頼を寄せたお方が、私の歩む先を進んでいます。十字架に傷ついた身体のままに、永遠の命の姿で、先を歩んでいます。復活の身体ではあるにしても、十字架の傷をいまだに負っています。私がつけた傷です。このお方は、いま確かにここにおられます。そして、私に、あなたに、命の言葉を告げています。
 
必ず実現する、救いの言葉を。

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