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裏切りから立ち帰れへと

ホセア14:2-8 
 
「イスラエルよ、立ち帰れ」とは、どこへなのでしょうか。「あなたの神、主のもとに」です。元来イスラエルは主のものでした。主の許におり、主を愛していました。ここでホセアの身の上の出来事が重なってきます。裏切った女を妻として迎え、他の男の子どもまで産ませます。ホセアはこの妻を受け容れることをよしとします。凄い勇気です。
 
そういうことが二度ありつつも、ホセアは神からさらに言葉を受けます。妻を迎え入れよ、と。「どうぞ罪をすべて赦し/良いものを受け取ってください。/私たちは唇の実を献げます。」ホセア書には、妻からの思いや、その反応については叙述がありません。「赦して下さい」というような言葉が、その口から出たのでしょうか。
 
ただホセアが、神からどう言われ、何を行ったか、については淡々と記されています。ホセアは神の受けていることを知らされ、神からの視点に与ります。これによって私たちは、神の思いというものに気づかされます。完全に知ることはできませんが、曲がりなりにも考えることができます。その主は、私たちの言い分をもすっかりご存じであります。
 
アッシリアを救いとしていたのは愚かでした。偶像は神なんぞではありません。神という親を見失ったイスラエルの民は、十分に憐れみを受けることになります。この主に立ち帰りさえすればよいのです。そうすれば、「背いた彼らを癒やし/喜んで愛する」と主は言います。もうその怒りは、民の上に残されることがないというのです。
 
ということは、怒りは確かにあったわけです。露や花やレバノン杉といった美しいものや生命豊かなものになぞらえて、人々を生かす神の姿を描きます。人々は豊かに実るでしょう。ぶどうの木が芽吹き、実とぶどう酒をもたらすでしょう。望ましい関係がここに結ばれ、「私によって、あなたは実を結ぶ」(9)というところに至ることになるのです。
 
ホセアは、イスラエルへのたっぷりの祝福で以て、預言書を終えます。淫行の女を娶る冒頭からすると、なんと希望溢れる終わり方でしょうか。但し、気をつけるべきです。直前で、「サマリアは罪に定められる」とされ、そこに救いはありませんでした。これは象徴であり、教訓としたいものです。サマリアは私の心に残っていないか、と。

私は、背いた彼らを癒やし
喜んで愛する。
私の怒りは彼らから離れる。(ホセア14:5)

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