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敵の中でなお

敵に囲まれている。私たちの多くが日常的に感じることではないかもしれない。だが少なくとも精神的には、肯けるところがあるのではないだろうか。
 
そのとき、どう心が対処するか。聖書には、現実に敵に囲まれていた事例がたくさんある。説教者は「詩編」を辿る旅を始めた。今回は詩編3編である。
 
1:賛歌。ダビデの詩。ダビデが息子アブシャロムから逃げたときに。
 
ここから始まる。ダビデの子の一人アブシャロムは、人々の心を盗み、王位を奪い取った。何故そんなことをしたのか。確かなことは分からない。兄弟が多く、次の王位を誰が手にするか、そこに自分が嵌り込むためにはどうすればよいか、と考えたのかもしれない。父ダビデが選ぶことに任せられない事情があったのだろう。自分はダビデからは選ばれない。ならば、自ら父を出し抜いて、王位を取ろう……というところだろうか。
 
アブシャロムは、4年くらいだろうか、イスラエルの民に取り入って、味方につけることに成功した。機が熟したのを知ると、明確に反旗を翻した。ダビデは争わなかった。息子に刃を向けるつもりがどこまであったか知れない。もしかするとアブシャロムも、ダビデの命を奪うことを第一とはしていなかったのではないか。すでに国民の心は自分を慕っている。ダビデのわずかな側近だけでは、もはや自分には対抗できない。複雑な雰囲気の中、ダビデのほうが決断を下した。逃げるのだ。エルサレムを去るのだ。そうすれば、さしあたり誰も傷つかない。
 
ダビデは息子アブシャロムから逃げた。このときの詩が、ここにある。
 
1:賛歌。ダビデの詩。ダビデが息子アブシャロムから逃げたときに。
2:主よ、私の苦しみのなんと多いことでしょう。/多くの者が私に立ち向かい
3:多くの者が私の魂に言っています/「あの者に神の救いなどない」と。〔セラ
4:しかし主よ、あなたこそわが盾、わが栄光/私の頭を起こす方。
5:主に向かって声を上げれば/聖なる山から答えてくださる。〔セラ
6:私は身を横たえて眠り、目覚めます。/主が私を支えておられるから。
7:私は決して恐れません/私を取り囲む幾千万もの民を。
8:主よ、立ち上がってください。/わが神よ、私をお救いください。/あなたはすべての敵の顎を打ち/悪しき者の歯を砕かれる。
9:救いは主のもの。/あなたの民の上に祝福を。〔セラ
 
説教者は、このダビデの心理に肉薄する。この詩は、ダビデの何を物語っているか。まず、ここに「主よ」という呼びかけがいくつもあることに注目する。主なる神は、きっともうすでに共にいるはずである。だが、現に敵が自分に立ち向かい、罵声を浴びせる。「神の救いなんかおまえにはないぞ、あはは」というように。ダビデには実際にそのように罵る者がいたかもしれない。これに対してダビデは、「しかし主よ」と立ち上がる。「あなたこそわが盾……」と主を称え、そのように声を張り上げれば、神は実際自分に応えてくださるのだ、と信仰の確信を口にする。だから、自分は恐れることはない。如何に多くの者たちが敵として臨んでも、自分には平安がある。「救いは主のもの」だというのである。
 
ダビデの詩の「しかし」は、神に対して向けられたものではない。人間に攻撃される危険の中で、人間から精神的に集中砲火を浴びる中で、それに対しての「しかし」なのである。そして、「私は身を横たえて眠り、目覚めます」と、平安がなければできないような、安らかな朝のイメージを、説教者は描き出す。今日のメッセージでは、このイメージを会衆にも有してもらおう、という意図が伝えられていたと思う。
 
この信仰は、闇雲に自分が思いこんでいるということではない。ただ自分勝手に、主が支えてくださる、などと大声で叫んでも、空しく風の中に消えてゆく場合だってあるのである。試金石は、「神と出会う経験」をしているか否か、ということだ。神との関係が確かに結ばれているか、ということである。いくらただ聖書の言葉を口にしても、にこやかな顔をして注釈書の説明を読み上げても、「神と出会う経験」がないのであれば、何の意味もない。逆に、それがあるならば、揺るぎない確信が与えられる。ダビデが安らかな朝を迎えることができるのは、この神との結びつきを知っており、その救いを確かなものとして知っているからである。
 
新約聖書からは、使徒言行録12章が開かれた。そこには、ペトロがヘロデにより捕えられ、牢に入れられて厳重に管理されていたことが記されている。ペトロは鎖で繋がれていた。しかも見張りの兵士2人に挟まれていた。そこへ、主の天使が現れてペトロを起こすと、鎖が外れた。このとき、ペトロが「眠っていた」ことに、説教者は注目する。天使によりやって起こされたほどに、ペトロは熟睡していたのである。ペトロは不安に動揺するようなこともなく、眠っていた。
 
ペトロは仲間の許に戻った。天使はペトロから離れた。ここでペトロは正気に戻り、口を開く。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、私を救い出してくださったのだ。」
 
説教者は、こうしたダビデの信仰について、またペトロの体験について、そのどちらにも首都結びついている安らぎがあることを踏まえた上で、告げる。この神の救いは、過去のものではない。過去形という時制の本来の意味のように、以前ありはしたが現在とは関係のない出来事でしかないものではないのである。いまここにも、それは起こる。私たちが孤独になっても、周りが敵ばかりであっても、「しかし主よ」と天を見上げることができる。その信仰が、神との出会いに基づくものとして、ここに力をもつのである。
 
人に見捨てられても、神の愛が注ぐ。教会に行ってどうするんだ、などと悪口を叩かれようと、救いを信じる。イエスは、その敵と自分との間に、すでに立っている。十字架の主が、両手を拡げて、敵からの攻撃を防いでくれる。ダビデの信仰告白のような詩は、過去のアルバムに懐かしく見るだけのものではないのである。
 
ここで、「敵」というものについて、私は少しばかり戸惑う。イエスは、「敵を愛せ」と言ったのではなかったか。いったいこの「愛せ」とはどういう愛なのか、「アガペー」が使われているから、人間には無理じゃないか、などと理屈をこねることはできるかもしれない。だが、イエスが直々に弟子たちに、そして私たちにぶつけた、衝撃的な教えである。人類がその後、ただ攻撃的にならず、これだけ核兵器や生物兵器を有しておいてなお滅びるに至っていないのは、「敵を愛せ」の教えがブレーキになっているからだとは言えないだろうか。
 
ところが旧約聖書では、神はイスラエルの民に命ずる。敵を殺せ、というのは、随所に見られるものではないのか。神が率先して、敵を滅ぼせ、と命じたのではないのか。否、新約聖書でも、殺すかどうかは別として、言うことを聞かない教会員を追放したり、悪魔の手に渡したりするように、仕向けてはいなかっただろうか。
 
聖書が告げることは、数学の公式のように、淡々とあてはめて適用するような性格のものではない。一律同様に適用するべきものではないし、矛盾律が成立しないような世界ではないか、と私は受け止めている。人間が罪人でありながら赦されて救われる、などというのは、その最たるものである。どうあっても、それはおかしい。だが、イエス・キリストの業は、そのおかしいことを、人間の知恵からすれば奇蹟として実現した。
 
そうした一見矛盾にしか見えない対立の一致を成立させるのが、神の救いというものであろう。「愛」とか「救い」とか、聖書は美しい言葉を時に並べる。だがそれは、人間が通常受け止めるような、ロマンチックな程度のものではない。神の御子が血みどろになることで達成された、矛盾に満ちた出来事により、もたらされたものである。
 
それを「信じる」というのだから、キリスト者は、いわば頭がどうかしている。人間的理性では理解できず、説明もできないことが、ただ起こっているものとして、そこに人生を賭けるのだ。命を懸けるのだ。
 
詩編は、そうした矛盾を愛や信仰で止揚した世界を、どちらかというと感性的に伝えてくれる。理論で押し通すようなことを望まず、「神と出会う経験」にのみ共鳴するような形で、人の魂に響かせてくる。説教者はそのことを、「信頼と希望に満ちた力強い響き」だと表現した。私たちはそれに「アーメン」と声を合わせよう。
 
説教者は、韓国出身の女性である。日本での宣教へと神から呼ばれ、単身日本に渡り福音を語っている。私は日本出身の男性である。そしてのほほんと生きている。まるで違う環境であり、聖書という共通項はあるにしても、それに対する気構えは、比較のしようがないほど、説教者のほうが強い意志と信仰に貫かれたものであることだろう。
 
どれほどの敵が周りにいただろうか。あるいは、いまなおいることだろうか。現実の生活の中で、どんなに厳しい環境にあることだろうか。主は「私の頭を起こす方」である、という信頼は、口先だけのものではない。「主が私を支えておられる」ということを、これまでも、そしていまも日々感じているのではないだろうか。主が「敵の顎を打ち」砕くことを願ったとしても、誰がそれを責めることができるだろう。
 
眠れない夜があっただろう。憂鬱な朝を迎えたこともあるだろう。だが、信仰は言い切る。平安な朝に、心地よい目覚めを迎えるのだ、と。この説教者の信実を、勝手ながらも想像させてもらいながら、私は、この詩編への迫りとそこからの語りを、感じ続けていた。
 
それはもちろん、私がこの詩を他人事だとしているわけではない。また、ペトロの出来事を聞いていたのではない。ペトロに対する天使の言葉が、三つ記録されていた。
 「急いで起き上がりなさい」
 「帯を締め、履物を履きなさい」
 「上着を着て、付いて来なさい」
この「起き上がれ」は、復活をも示すことがある。これからの出来事に相対するための身支度を調えねばならない。神の前に出る姿勢を見せ、神に従うことが、歩き始める私の道だ。
 
以前私は、詩編41編から「私の敵」という題でお話をしたことがある。この詩もダビデの詩とされており、はっきりと「敵」と呼んでいる者に苦しめられている。全体的な構図は、今回の第3編とよく似ている。このとき私は最後に断言した。神の敵とは、この私のことだ、と。そして、神の敵だった私を赦したイエスの十字架を思い描くことで、話を結んだのであった。
 
但しそれは、現実の敵から目を背けることになっていたかもしれない。実は、そのとき、それを聞いていた中に、後に牙を剥く「敵」と呼ぶべき者が、いたのである。

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