知らなかったと気づくとき (創世記28:10-22, マタイ5:43-48)
◆ヤコブという人物
聖書をさあ読もうという気持ちの方がいたとします。新約聖書を開いてみたら、1頁めで挫折した、そんな話を聞くことがあります。殆どカタカナだけで、意味の分からない名前が並んでいる、あの頁です。但し、旧約聖書の最初は、そうではありません。創世記といいます。創世記は、お薦めです。物語性に富み、わくわくさせてくれると思います。最初の方は、有名な天地創造やアダムとエバ、ノアの箱舟なども登場します。聖書に馴染みのない方も、アブラハムという名前はどこかで聞いたことがあるかもしれません。
アブラハムは、イラスエルの人々にとり「信仰の父」と尊敬される人物です。その孫にあたるヤコブ、それが今日の主役です。室町幕府や江戸幕府は、3代目が大きな仕事を遺しました。成り上がった初代はもちろん、2代目も、生まれながらの将軍ではありません。しかし3代目はしばしば生まれながらの帝王学を受けての就位ですから、素地が違うのでしょうか。
ヤコブは帝王学とは関係がありませんが、私にはなかなか魅力的です。やんちゃな印象もありますが、忍耐強いところもあります。その息子のヨセフもですが、波瀾万丈な人生でした。ヤコブの生涯を辿るならば、何週間も説教が続けられるに違いありません。
ヤコブは、母リベカに偏愛されていました。双子の兄がいます。エサウといいます。父イサクは、兄のエサウに遺産を全部与えるつもりでした。現代のような遺産相続とは違います。家長たる者がすべてを受け継ぎます。母リベカは、夫であるイサクを見事に騙します。どんなふうに騙したかは、ぜひ直に創世記をお読み下さい。
ヤコブを、兄エサウだと勘違いさせて、父親が神的な祝福を施すように仕向けたのは、母リベカでした。さあ、祝福が全部弟のヤコブに渡ってしまった、と知ったエサウは、嘆き悲しみます。そして、あのヤコブめ、と恨み、殺してやる、と怒り心頭に発すのでした。
母は、ヤコブを逃亡させます。しばらく離れていよ、と。遠いユーフラテス川の上流に住んでいる、リベカの兄ラバンのところに身を隠すようにと送り出します。父イサクも、一旦祝福を与えた以上は、ヤコブの無事を願うしかありませんでした。
◆不安な夜
ヤコブはひとり、イスラエルの地を北上します。死海の北端からいくらか近い、その後ベテルと名づけられた場所まで来ました。そこでヤコブが見た夢についてが、本日開かれた聖書箇所でした。
心細かったことでしょう。誰かに命を狙われる可能性は十分あります。そうでなくても、野獣がうろうろしていたことでしょう。そのうえ、家を出なければならなくなったことが、寂しくないはずがありません。
日没後、寝るためにヤコブはそこにあった石を取り、枕にしました。イエスの言葉をふと思い出します。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言い、弟子たる者の心構えを教えていました。この「枕する」という言葉が、十字架の上で頭を垂れる場面にも登場し、イエスは十字架で初めて枕したのだ、という関連性を見ることも可能です。
さて、ヤコブは疲れて、ストンと寝たのかもしれません。ただ、夢を見た、と聖書は記します。聖書の世界で、「夢」というのはただの夢ではありません。その人の願望や潜在意識から生まれる脳の活動だ、などというようなふうには思われていませんでした。夢は、神からのお告げのようなものだと信じられていました。クリスマスの記事の時代でも、夢で神はヨセフや博士たちに語りかけました。その他、夢が話の鍵になる場面は、聖書の中にたくさん拾い上げることができます。
日本でも、夢にその人が現れるのは、相手が自分のことを想っているからだ、というように信じられていたことがあります。夢は、いまでこそ科学的にいろいろ研究がなされていますが、それでも、不思議なものであるようにも思えます。ここでもそうですが、「夢のお告げ」というものがあるのです。
ヤコブは夢を見ました。「ヤコブの階段(梯子)」と呼ばれる、有名な出来事です。
12:夢を見た。すると、先端が天にまで達する階段が地に据えられていて、神の使いたちが昇り降りしていた。
私は夕方に近づこうとする曇り空でよく見ます。立ちこめた雲間から、放射状の線となって降り注ぐ陽の光。まるで、亡くなった人が空から何かを知らせているかのようにさえ感じる、あの神々しい光です。皆さんも、ご覧になったことがあるだろうと思います。あれを、この物語に因んで「ヤコブの階段」と呼ぶ文化もあります。
天と地を結ぶ階段が見えました。それは確実に地と結びついていました。そこを、神の使いたちが昇り降りしていたのです。神の使いというのは、ひらたく言えば天使です。神のメッセージを伝える働きをする者たちです。まず昇るという言葉か先にあることから、私たちは神にまず祈りましょう、というような説教がなされる場合があります。
◆夢の中の約束
ただ、この階段がメインになったのではなく、次にヤコブの夢には、主なる神が登場します。「主がそばに立って言われた」(13)のです。まず「私は主」と自己紹介し、「今あなたが身を横たえているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える」という祝福が告げられました。子孫は増え、栄え、世界に拡がって、世界の人々を祝福する役割を果たすことになる、というような、ありがたい言葉をヤコブは受けました。夢の中ですが。
これは、父イサクから受けた祝福に留まらない、壮大なスケールのものです。創造主が祝福してくださったのです。ヤコブは、神の目に適い、選ばれたということになりそうです。
ヤコブがやんちゃな面をもつことはすでに触れましたが、その後もジェットコースターに乗るような運命の人生を送ります。時に狡知に知恵を働かせて、自分を常に有利に導くような策略に長けていました。しかし、子育てには必ずしも成功したとはいえず、晩年は死んだ子の歳を数えるような不幸な思いの中で過ごしました。でも、死んだと思われたヨセフの行方が、イスラエル民族の運命を大きく変える出来事となります。実に壮大な物語が続くのですが、これもぜひ、創世記の読書をお楽しみにしていて戴きたいと思います。
15:私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにしてもあなたを守り、この土地に連れ戻す。私はあなたに約束したことを果たすまで、決してあなたを見捨てない。
不安でたまらなかった旅の途中で、こうした約束は、実に力強かっただろうと思います。この神の絶大な祝福を受けて、そこで、ヤコブは目を覚まします。夢はここまでです。起きたときに夢を見ていたら、それが記憶に残るといいますから、まさにこのタイミングで、ヤコブは目覚めたということになります。
◆目覚めて気づいたこと
16:ヤコブは眠りから覚めて言った。「本当に、主がこの場所におられるのに、私はそれを知らなかった。」
今日は、このヤコブの言葉を噛みしめたいと思っています。自分は知らなかった、という方を強調しているように聞こえますが、知らなかったが、なんと確かに主はここにおられるのだ、と主の臨在を覚えた感動として受け止めることができるように思われます。
不安なときがあります。どうしても気がかりなことがあって、目の前のことが手に着かないということもあるでしょう。私たちはそのとき、その不安のほうに、どうしても囚われてしまいます。そうだ、気分転換すればいい、などと簡単にその気持ちが消えるということはありません。生活がどうなるか、もう絶望的だ、というような切羽詰まった問題に囲まれていたら、もはや「囚われる」などという程度のものではなくなってしまっています。辛い状態に置かれた人のことを、軽々しく理解できるような言い方をすべきではありません。
それを忘れたい、気にしないようにしたい、というのは人の常ですが、いっそ逆に捉えてみることは如何でしょうか。そこから目を逸らさないこと。それに向き合うこと。自分のために、あるいは誰かのために。誰かを守るために、そして誰かを笑顔にするために。
もちろん、専ら自分のためであってもよいのです。ヤコブにしても、自分のための心配で心がいっぱいだったことでしょう。だから、むしろ積極的にそのことと向き合うことの大切さも考えてみたいのです。
もしかすると、猜疑心に支配されたかもしれません。これからどうなるのか。そもそもこの夜を安全に過ごすことができるのか。自分がいない家で、結局兄エサウが祝福されるようなことになりはしないか。自分は体よく追い出された恰好になったのではないか。
けれども、ヤコブはいま気づいたのです。主がいるではないか。祖父アブラハムが信じたという神、その真実な神が、いま自分に話しかけてくれたではないか。どうして今まで気がつかなかったのだろう。なんだ、そういうことか。主が共にいたのだ。ここにいるのだ。
自分でも説明できない、勇気のようなものが沸き起こってきたのではないか、と私は想像しています。
◆自分を知らない
ヤコブは、それまでその主の存在に気づいていませんでした。「私はそれを知らなかった」(16)という驚きは、正にいま「知った」からこそ言えることです。いまは知っているのです。「知る」という語が、イスラエル社会で強い意味をももつことは、聖書を読むために必要な知識のひとつです。頭だけで知る知識のことではないからです。それは人間の心身共にすべてを包みこむような、そして人格全体を巻き込むような形で、体験的に交わるような深い関係を指す言葉なのです。
ヤコブは、これまで「知らなかった」と口にします。それは、いま「知った」ということを表します。いま、神と深い交わりを経験したというのです。
ヤコブがいまその大切な時を迎えたのだとすると、このときに「この場所はなんと恐ろしい所だろう」(17)と慄いたのも分かるような気がします。新しい世界に足を踏み入れたのですから、何かしら不安や脅威を覚えて当然です。そこに、枕としていた石を記念の柱として据えたこと、そして油注ぎという儀式で、神との関係を確かなものとします。「キリスト」という語が、「油注がれた者」を表し、古来イスラエルでは王にする者への油注ぎを、戴冠式のような意味合いをもたせて行っていたこととつながっていきます。
20:ヤコブは誓いを立てて言った。「神が私と共におられ、私の行く道を守り、食べる物、着る物を与えてくださり、
21:私が無事、父の家に帰ることができ、そして主が私の神となられるなら、
22:その時、柱として私が据えたこの石は神の家となるでしょう。そこで私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます。
ここに、「主が私の神となられるなら」という訳がありますが、これを「もしも」のように捉えるよりも、自分が父の家に再び帰って来て、そのとき主が私の神になる、という運命的なものを確認しているような気持ちで受け止めてみたいと思います。もし神になってくれるなら、のような感じには聞こえない訳が、望ましかったように思うのです。
ここで神との関係が結ばれました。これからの冒険の旅を乗り越えていく勇気が与えられたことでしょう。でもヤコブはそのときまで、すでに主が共におられることに気づいていなかった、というふうに言っています。自分の状態に気づかない。それは自分の力を知らないばかりに、やたら高慢になっているか、逆に自信をもつことができないでいるか、そうした結果をもたらしかねません。私たち現代人にも、ひとつの道を指し示すアドバイスとなるかもしれません。
◆イエスの無理難題
しかし聖書は、時に私たちに無理難題をもちかけます。私たちが自分のことを知らないからこそ、それは無理難題に聞こえるのでしょうか。もうひとつ、マタイによる福音書5章の、有名な「山上の説教」から、とびきりの箇所を受けてみることにします。
44:しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
一般にもよく知られていることでしょう。「汝の敵を愛せよ」とは、実にストレートで、実に重い命令です。イエスは、人々に神の「教え」として、これをぶつけました。その「敵」とは、自分を迫害してくる者でもあるようです。「愛せ」「祈れ」というのは、別々のことを表しているのではなくて、同じ反応、同じ心持ちを別の表現で挙げているものと理解しておきましょう。ただ敵対している者だけに限らず、自分をいじめてくる者、殺そうとかかってくる者を、愛したりそのために祈ったりするようにせよ、と迫ってくるのです。
できっこありません。無理です。できるなどと軽々しく言う口は偽りです。イエスのこの教えの前に、私たちの精神は破壊されます。
中には、これをひとつの挑戦のように受け取って、大きな愛を果たす人もいますから、私はただただ敬服するばかりです。聖書の言葉は見事な結果をもたらすものだと、改めて驚くばかりです。でも、イエスの言葉はここを締め括るために、とどめを刺してきます。
48:だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。
先の言葉でだいぶ凹んでしまっても、人間はなんとか元に戻る力を得て、弾もうと努めるわけですが、神と同様「完全であれ」と畳みかけられますと、もう私は立ち上がれなくなります。もうだめです。
◆目を覚ます時
きっと「完全」という命令には、深い意味があるのだ。そんなふうに考え始める人もいます。なにもそれは全知全能を指し示すわけではない、それは本当でしょう。でも思い返せば、創世記でアブラハムも、いえまだアブラムという名であった時代にも、神はこんなことをいきなり命じていました。
アブラムが九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた。「私は全能の神である。私の前に歩み、全き者でありなさい。(創世記17:1)
こちらは、神によほど選ばれた存在であった人です。だから何か神の目的や取り扱いがあって、アブラムに向けてたたきつけたのだ、とすればまだ分かります。けれども山上の説教でのイエスは、弟子たちすべてに対して「完全であれ」と言ったのです。そして読者たる私に向けても、そう命じたのです。
私は惨めになります。どんなに自分がそれに値しないか、思い知らされます。暗くなります。俯きます。立ち上がれなくなります。できるはずがないではありませんか。どうしてそのようなことを要求してくるのですか。私はなんと惨めな思いに満ち、潰されようとしなければならないのでしょうか。
ただ、自分が如何に惨めかということを、覚った機会となったのも事実です。ヤコブにしても、それまで主の導きに気づいていませんでした。それが、ひとつの夢によって、気づかされました。私たちは聖書を読みます。夢という形ではなく、その夢を記した聖書の記事を受け止めます。聖書は、そんな幻をヤコブに見せ、私たちにも届けてくれました。
敵を愛せ。祈れ。完全な者となれ。それは、夢物語です。少なくとも、自分に照らし合わせたとき、それは百%夢です。できないことです。でも、私にはひとつできることがあります。アーメン、その通りです、とこの惨めな思いを認めることです。嘆くのではなくて、認めるのです。
ただ、それは私たちが勝手に思い描いている「愛」や「完全」のことであるのかもしれません。神の愛や完全さについてでさえ、一介の人間である私は、いったいどれほどのことを知っているというのでしょう。それなのに、勝手に「愛」だとか「完全」だとかをイメージして、それを神に当てはめたり、自分に当てはめたりしています。それが唯一の道なのでしょうか。
そのイメージ通りではない「愛」や「完全」というものがありはしないか。イエス・キリストが、身を以て重責を以て私たちに教えてくれたことが、もっとほかにありはしないか。ヤコブのように、ただ気づいていないだけなのかもしれないではありませんか。
16:ヤコブは眠りから覚めて言った。「本当に、主がこの場所におられるのに、私はそれを知らなかった。」
ヤコブは、主がここにおられることに、気づいていませんでした。だから分からなかったのでした。夢から目を覚ましたとき、ヤコブはそれに気づきました。私たちもまだ夢を見ているだけだとしたらどうでしょう。いま、目を覚ます時ではありますまいか。イエスは幾度も「目を覚ましていなさい」と弟子たちに言葉をかけました。この言葉を、私たちもまた、いま真正面から受け止める時ではないのでしょうか。眠りこけている魂が、目を覚ます、その時が、「いま」であるかもしれないのです。
そのとき、それまで見えなかった景色が見えてくるでしょう。気づかなかった光があることを知り、新たな道が見えてくるでしょう。ヤコブが立ち上がり、歩き始めたように、希望の道を、見出すのです。