絶望から希望へ
ホセア11:8-11
決してあなたを棄てない、とでも言うように、反語を以てホセアは、主の嘆きを表します。どうしてあなたを手放す事ができようか。そんなことができるわけがない。イスラエルは、主にとりどうでもよいものではありません。それは、この私のことをも、きっと同様に扱ってくださるということです。それを信じることが、信仰なのです。
主は、その心が激しく揺さぶられるという憐れみに、胸が熱くなるのだと言っています。それほど、たたみかけてくる熱情があればこそ、熱情の神と称することもありました。しかし、その熱さは、怒りという形をとることがないとも言います。一旦北イスラエルを滅ぼしはしたものの、もう二度とそのようなことをするものか、と主は誓います。
この主の心の中の問題が、ホセアにより記されているという構造を、どう見ましょうか。預言者の言葉は、どこか人間の判断や知恵が紛れ込んでいるのかもしれない、とお思いでしょうか。そうかもしれません。でも、現実のイスラエルの荒廃を知っておきながら、これだけの言葉を紡ぎ出すことができるのは、正に神である故ではないでしょうか。
ひとの目がこれだけの絶望的な情況に、希望を宣言できるとは思えません。根拠のない空威張りならできるでしょうが、人間はこれからのことについて、希望は夢物語としてのほかには、語れないのです。それができるのは、人ではなく、神だけです。人ならば、立ち尽くし呆然とし、未来を忘れてしまうところ、神だから望みを語りうるのです。
私たちは幾度も、大きな災害を目にしてきました。体験もしました。いえ、どんなに小さな災いであろうと、当事者はもう立ち上がれない打撃を負います。ひとは弱いのです。それを思うと、ホセアの宣言は、なんと強いものでしょうか。ホセアは、主が吠えるかのように描写しています。神の言葉が、小さくて聞こえないということは、もうないのです。
海の彼方から、捕囚された遠い地から、主の呼び声に立ち戻ってくることができます。力尽きた民が、神の声が聞こえた、というそれだけの信頼の上に、明日を築くために、はるばる帰ってくるのです。主に呼ばれた魂が、絶望の中から立ち上がり、帰ってきます。それは、私たちもまた、この声を聞けば、同じであるに違いありません。
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