よくない教会の見分け方
「この株、買いましょうよ。絶対上がりますから」などと、強く勧めてくる営業者がいたとする。もちろん、そこまで露骨に言うと問題があることは知っているから、なんやかんやとその企業の宣伝をしたり、今後上がる要素があることを伝えたりするだろう。が、細かいことはあまり気にせず、気楽に聞いて戴きたい。
えらく調子よく勧めるものだから、こちらは尋ねてみよう。「じゃあ、あなたはその株、当然買っているんですよね」と。
これで怯むようなら、そもそも営業などやっていないわけで、想定内の質問であるはずだ。「社内規定で、それができないんですよ」などと頭を掻くかもしれない。でも、そんなうまい話を、放っておく手はない。「私だったら、他人名義ででも、友だちに頼んででも、それ買いますよ。儲かるんでしょ。買わなきゃ損じゃないですか。それだけ確実な情報をもっているんだったら」と、畳みかけてみる。で、「あなたが1000株もっていたら、私も1株買いましょう。その代わり、あなたがその株を手放すときには、私のも同時に手放すようにして下さい。それを条件で、買いましょう」などというようにお願いしてみる。そんなシチュエーションを考えてみた。
化粧品くらいなら、自分で使ってますよ、というセールスパーソンはいるかもしれないが、投資の宣伝をしつこくしてくる営業者が、その投資をしているということは、きっとないだろうと思う。だとすれば、その投資話は、信用できない、という結論になると言えるはずだ。
「教会に来てください。神さまに救われます」と、教会や牧師は、宣伝する。あなたが、実は悩みを抱えていたり、宗教に何かしら「救い」があるかもしれないと思う気持ちがあったりして、教会に行く機会があれば一度言ってみたいと考えていたとする。さあ、そこでこの教会が信用がおけるかどうか。
教会ならばどこも信頼できるだろう。そうお思いかもしれないが、必ずしもそうではない。普段の街歩きで、ちょっと食べ物屋さんを試してみるのと同じように、教会気分をちょっと味わってみるだけなら、どこでもまあよいかもしれない。しかし、せっかくなら美味しいお店で食事をしたいだろう。もしかすると、長らくそこへ通うことになるかもしれない。教会で、本当に救いが与えられて幸福になるかもしれない。そうなると、あなたの人生全体に関わる問題にもなる。
簡単な見分け方はないだろうか。聖書や信仰について、あなたはそれほどの知識も体験もないとする。投資話に対して実際の知識がないようなものである。そこで、ちょっとした知恵をここで考えてみる。
「教会に来てください。神さまに救われます」と言われたら、その牧師に、尋ねてみたらよいのである。「あなたはどのようにして救われたのですか。それから、聖書のどの言葉を聞いて、牧師として呼ばれたのですか」などというのはどうだろう。
ここで無意味に押し黙るような牧師がいたら、その教会は直ちにやめるべきだ。自分が話すのをためらうような「救い」について、その人は今後も話すことはできないだろう。「救い」を宣伝していて、それについて適切に話せなかったり、その回答を逃れようとしたりする牧師は、自分で株を買っていない営業者と同じである。
また、聖書の言葉から呼ばれて牧師になったことが即答できなければ、それは偽牧師だと言ってよい。自分が職業のひとつとして選んだだけであって、神から任命されたという自覚がないからである。この人の話す「神」は、自分の知らない「神」でしかないのである。
その質問に対して、なんだか型どおりの回答をする牧師もいるかもしれない。「イエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかかり、蘇ったのです。これを信じる人が救われるのです」という程度しか返事が来なかったら、やはりその牧師も相手にしなくてよい。教義を他人事にしか説明できない人の説教は、今後聞く価値がない。説教の場で、聖書講演会を聞かされるくらいなら、その道の本を読むか、カルチャーセンターで聖書の説明を聞いたほうが、よほど知りたいことを教えてくれることだろう。
聖書の「説明」しか出てこないなら、聖書の解説や他人の体験談を、ただなぞっているだけである可能性が高い。自分の「救い」をもつ人、自分が「神に呼ばれた」体験をもつ人の話は、それをまだもたない質問者にとって、簡単に理解できるものではないはずである。なにせ神との出会いの体験である。それが理屈で「ふむふむ、そうなんですね」とよく分かるようなものであるわけがない。謎めいた話があって当然であろう。それがなければ、きっとそれは、習い覚えた「教義」をただ説明しているだけであって、自分には「救いの体験」がないのである。
牧師という立場にない信徒に対して質問した場合は、事情は少し異なるし、教会にいる人すべてに、このようなことを求めるわけにはゆかない。信徒の中には、そこまでの体験がない人も混じっているからだ。だが、よい教会の場合には、信徒に尋ねても、「救いの体験」として、あなたが少し理解できないような目の輝きを伴った話が聞かれることはきっとあるだろうと思う。但し、礼拝に出席して毎週聞くことになるのは、牧師の説教である。偶々質のよい信徒がそこにいただけ、ということもあるから、毎週礼拝で説教を語る牧師の方に質問をすべきである。
「あなたはどのようにして救われたのですか」
「あなたは聖書のどんな言葉によって、神に呼ばれて牧師になったのですか」
これに対して心から生き生きと、あるいはしみじみと答えているか、何かごまかそうとしているか、どちらであるかは、人生経験のあるあなたにとっては、見分けるのにはさほど苦労はいらないだろうと思う。自分で全生涯を信仰に投資している人の言葉からは、本物を感じることができるはずである。