猫が見ているもの
猫は、時々動きを忘れてしまうことがある。空中をじっと見上げ、一点を凝視している。視線の先を確認しようにも、そこに特に何かがあるわけではない。
これを気味悪がる人もいる。猫にだけ見えている、何か得体の知れないものが、そこにあるのかもしれない。霊的現象か、しかし人間には分からない何者であるのか。
一応の落ち着いた見解としては、獲物を狙う野性の名残だ、という説が有力である。捕食するため、相手に逃げられてはまずいので、じっとタイミングを見計らっているのだ、というのである。
だが、猫の視界は人間の見え方とは異なるので、人間には分からないものが本当に見えているのかもしれない、と考える人もいる。
他方、猫はそのように見つめながら、「カカカカカ……」と口から不思議な音を発することもある。クラッキングと呼ばれる。解明されてしまっているとは言えないようだが、獲物を狙うような眼差しと共に発せられることは間違いない。獲物を前にしてこれをすると、気づかれて逃げられてしまうであろうことから、狙った獲物が手に入らないというときに発するものだと説明する人もいる。一種の欲求不満の現象であるのだろうか。
猫は耳がいい。人には聞こえない音が聞こえるという。だから逆に、大きな音を立てると猫は嫌がる。猫に嫌われないためには、音を極力立てないように接しなければならないだろう。聞こえすぎる猫の耳からすると、空中から、音声的情報が届いているために、注目している、という考え方もあると言える。猫の視力は、それに対してあまりよいものではないらしい。遠くから見つめているようだと、実はぼんやりとしか見えていない、という可能性もある。
キリスト者が神に祈るということは、傍から見ているだけの人から見れば、意味のないことをしているように感じられるかもしれない。ただの自分の心の問題ではないか、と思われても仕方がない面もある。
だが、祈りは主の声を待つことから始まり、神との交わりの時である。その目には、イエス・キリストが見えている。猫が何を見ているのか、聞いているのか、人間には分からないように、神と出会ったキリスト者が神を見、また神からの言葉を聞いているのは、神との交わりを知らない人からすれば、分からないものであろう。
空中の一点、そこには、イエス・キリストがいる。十字架の、そして復活のイエスが見える。イエスの言葉が、聞こえる。
人間の方から、ああたらこうたら自分の欲望を神にぶつけるというものではない。まして、祈っていると称しながらぶつぶつ自分を正当化することばかり漏らしていると、それはまるで、手に入らないものに対するクラッキングのようなものであるのかもしれない。