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いろいろな教会があるが
一つの教会しか知らず、幸せな教会生活を続けている人が羨ましい。が、一つしか知らないその教会が歪んでいても、それが歪んでいると知ることがない人がいるとしたら、複数の教会を知るとよいだろうと思う。偽物ひとつしか知らないと、それが偽物であることが分からないが、いろいろ比べると、自分のが偽物であることに気づく、というのは、世にあるあたりまえの知恵である。
中には、もう一つの教会を知ったために、最初のが嘘でこちらが正しいのだ、と暴走したような人もいる。これも危険だ。単に二つを知っただけであるから、二つめが正しいという保証はどこにもなく、最初の本物を偽物だと思い間違ってしまったかもしれないからである。
その意味で、私はプロテスタントの領域ながら、バラエティに富んだ様々なタイプの教会を知る機会に恵まれた。そのうち、両極的な例を挙げようと思う。
厳しすぎる教会があった。というより、そこは殆どカルトと言ってよいほどの、熱狂主義だった。助かったのは、金銭を巻き上げる目的の団体ではなかったことと、社会破壊を目的とする団体ではなかったことだ。しかし、若者には献身が美徳だと感情を煽り、結婚相手は教団が決めるというようなあり方があった。私もそれにはめられそうになったが、FEBCを聞いていたせいもあり、教義と聖書が異なるという確信と共に、脱けることを敢行した。
緩すぎる教会もあった。礼拝中はちゃんとしているものの、礼拝後の陽気すぎる振舞いに戸惑うことがあった。また、交替した牧師は、精神的に問題があるばかりでなく、聖書的な経験がないことがやがて露わになった。いまはずいぶん自己流の、変わった思想を公言している。その教団の、別の教会にも属したが、そこはどうも信仰をきちんとしようという姿勢がなく、礼拝説教がまるで説教になっていなかった。そうしたことから、仲良し倶楽部の運営に熱心なのだとしか判断できなかった。だからかもしれないが、嫌がる若者を無理矢理役員にしようとして、規則だからと当人の言葉を聞く耳をもたず、その結果若い世代がごっそり教会からいなくなってゆくことになった。信仰には関心がなく、組織が目的であったようだ。
いろいろ目の当たりにしてきたのは、牧師の質の低下が甚だしいということだ。信仰の点は見ず、聖書の知識だけを聞かせて、それで神学校を卒業させる、という学校も現実にはある。どのような救いや召命があるのか、そこに神学校が目を向けず、形式だけ揃えば入学も卒業も完了し、財政力のある教会に招聘されてゆく現実が、確かにあるのだから、質の低下は当然のことであろう。
誤解なされないようにして戴きたいのは、これは教会一般を悪く言っているのではない、ということだ。どのような制度や経歴が関わろうと、霊的に優れた人はたくさんいるのであって、教団により決まるわけでもない、ということだ。神は、一人ひとりに語りかけ、一人ひとりと向き合い、神からの言葉を授ける。生活そのものが信仰として成り立つようにしてくださるのであり、だからこそ、語る言葉も、神の言葉となる。そのような言葉に恵まれている信徒は幸いである。聖書の言葉により、必ず生かされるからである。
人間づきあいで教会に来ても、礼拝生活を続けることはできない。その礼拝は、教会員の信仰により成立する。神と出会い、神の言葉に生かされた者たちが集う、それが教会を形成する。教会は、神との交わりによって集められた共同体なのである。それは、神の前に罪を知ることを経なければ、あり得ない。罪の前には、イエスの十字架が立ちはだかる。それは罪の赦しのしるしである。その十字架に、自分の罪が、否、自分が共に死んだのだ、という経験なしには、救いはもたらされない。
牧師が、この救いを知らない、ということは、根柢から間違っている。
結局、教会を通じてではなく、神とつながるということの大切さを思い知らされるのであって、そのために神の言葉を語る教会が自分には最も適している、ということが結論であるようだ。この言い方が、神の言葉を語らない教会が多々ある、という事態をも含意しているのは言うまでもない。
説教の聴き方というポイントが最近話題になっているが、その説教が説教でなくなっている可能性を、あまり正面から取り上げることはないようだ。説教が何か変だ、とお感じになったら、あなたの霊が健全であるということなのかもしれない。もちろん、素晴らしい説教に恵まれた教会にいる方は、ほんとうに幸いである。それまま、恵まれた信仰生活を送る幸いの道を歩んで行かれることを願う。
ところで、このように言うと、カトリックの偉い先生が、またプロテスタントがバカなことを言っている、と嗤うかもしれない。カトリック教会しかないに決まっているじゃないか、教会を抜きにして神と結びつくなどと、妄言を吐いているではないか、というように。実際、そのようにいつも主張しておられた方もいた。私はカトリックとプロテスタントとを対決させる意図はないので、申し訳ないが、いまはこの素人の呟きを、ご勘弁願いたい。