不思議な同時性
復活祭を過ぎると、次は教会形成を考えることが多くなる。7週目のペンテコステ礼拝を見越してのことだろうか。しかし、同時に復活の意味をさらに思う、ということもあっていい。マルコによる福音書をそのときに選ぶことは、案外避けられているように見える。16章で、空の墓を見た女たちが恐ろしくて何も言えなかった、というようにプツンと記述が途切れるのだ。その後に続く箇所は、写本により相違が大きいし、それらが全くない写本も分かっているため、オリジナルにはない、後世の付加であるというのが通説である。
だが、オリジナルではないという判断が、その価値を貶めるという決めつけは、果たして適切なのだろうか。付加であるという指摘はもちろん悪くない。だが、改訂であれば、一般に改善するためのものである。価値を画一的に定めることはできないのではないだろうか。もちろん、全くの他者による改竄を認めよ、と言いたいのではない。同じ神が真の著者であるならば、という条件がそこには隠れている。
こうしたことを背景にして、この「付加」とされる箇所からの説教は、メッセージとしては手薄な部分に光を当てることになりうるように思う。特にここは、ルカなど別の福音書などの記事を踏まえて、取り急ぎまとめたような構成となっており、興味深く取り扱うことができるようにも思われる。説教者は、他の福音書からの引用であることを、適切に紹介していた。そして、「信じなかった」という繰り返しの中に、マルコらしい一面を見ると共に、「信じる」ことへの誘いを見出すことも、必要ではないかという気がする。
さて、今回の説教は、復活の主イエスに出会ったからには、新しい言葉を語る者として、神の言葉を伝え、教会につながる魂が与えられることにつないでいこうという祈りと共に語られたものであったのであろう。しかし、ここは私なりのレスポンスである。説教者の用いた言葉、しかも少しばかり力をこめた言葉によって、私の心が揺らされたということを基にして、その言葉を軸に、少しばかりお話ししようと思う。
その言葉というのは、「不思議な同時性」という言葉である。パウロの言葉であるが、自分は弱いときに強い、弱さのただ中で強い、というような心を伝える信仰の中にあるものである。説教者はこれを「不思議な同時性」と呼んだ。
これを論理的に説明しようとすると、「逆説」のような言葉が使えるかもしれない。通常の意味だと矛盾するように見えるものが、深く考えればなるほどと言えるような真実を含むものである。もちろん「逆説」には別の意味があり、論理的に成立しないジレンマのような事態をも示す場合があるのだが、さしあたりいまは、一見矛盾するが実は意義がある、というものとして捉えることにする。
これについて研究するのが生きがいである人もいるだろうが、説教者は、それを「不思議」で片付けた。私はそれでよいと思う。この語は仏教からきており、「不可思議」の短縮形のようなものである。「思議すべからず」というように、人間が考えても分からない境地を指すとされる。「不思議」だと、「議論してはならない」とでも言うべきだろうか。正に、そういうところにぽんと投げたのは、適切だと私は受け止めたのである。
しかし、もうひとつここには「同時性」という言い方がなされていた。弱さと同時に強さがある、というところに注目したわけである。まず弱さがある、しかし信仰が与えられて、それが強さになる、というような時間性で捉えるものではない、というのである。それは同時である。ということは、論理的には矛盾する。時間差もないものだから、私たちの知る論理からすれば、正に矛盾でしかない。
だが、ここで私の妄想が始まっていた。時間とは何か。知っているつもりで、語ろうとすると分からなくなる――そんな歴史的な言葉を俟つまでもなく、時間こそ正に不可思議である。しかし、説明はできないにしても、人間は時間というものについて、それなりに知っている。体験しているし、言葉でも使う。感じているし、時間について互いに説明を了解することができる。
つまり、人間には時間というものがあるのである。時間は自分ではどうしようもない。どうしようもないからこそ、タイムマシンを想像したり、時間を止めたり超えたりする物語を考案する。ただ分かっている。日本人好みの「無常観」とでも言えば、より共感して戴けるだろうか。さらに、そこから輪廻の思想が窺え、終末観がどうしても感覚的にしっくりこない、などという意見もあるようだが、どちらの世界観をもつにしても、時間に逆らうというのは、人間には無理な話であることは確かであろう。
では、神はどうであろうか。神は時間をも創造した、という神学もある。神が時間の中で制約されるというようには、考えにくい。もちろん私たち一介の人間には、神を悉く説明することなどではないわけだから、実のところどうなのか、それをいま決めようとしているのではない。仮説と言えば仮説である。その前提で、神は時間に制約されない、ということにしておく。
ならば、こういうことになるのではないか。人間には、時間の中での出来事として、起こった順序というものがある。それを原因と結果のように理解することもあるだろう。だが、神からすれば、そのような時間の制約を受けないのだから、人間が別々のこととして順序として捉えることも、同時であっても差し支えない、とすべきなのではないか。
イエス・キリストは昨日も今日も変わらない。明日も変わらない、それが「私はある」という端的なことであり、「永遠」ということであるのかもしれない。その「永遠」なる人間からの表現が、時間に制約されない神の世界をもしかすると指すのだろうか、というような妄想も、私はしてしまっていたのだ。
量子力学の考えのベースには、確率的な存在というものがあるという。1つの電子が同時に複数存在する、などというミステリアスな説明もあった。最新の説明ではまた違うものがあるともいうが、こうしたことも、「不思議な同時性」がありうるものとするならば、決して常識外れではない、ということになりはしないだろうか。
私たちは、ひとつの出来事に、まるで運命が完全に一つに定められたかのように、悲観することがある。もちろん、悲しんでよい。悲しまなければならない。苦しんでよい。苦しまなければならない。だが、それが同時に、別のものになりうるのだ、という観点をもつことが許されたとすると、どうだろうか。聖書は、なかなか優れた処方箋を提供してくれたとは言えないだろうか。
悲しんでいる者は幸い。貧しい者は幸い。イエスの言葉には、時折、このような「不思議な同時性」が見られるように思う。人間はさしあたり、悲しみが慰めに時間の内で動くように捉えることになるかもしれないが、恐らく時間を超えた神の計らいというものに、私たちは気づいてよいのではないだろうか。
その神が、時間の中に送ったイエス・キリスト、そのような見方があってもよいのかもしれない。
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