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イエスと共にある自由

マルコ11:1-11 
 
子どもたちにとって、このエピソードは愉快なものであるように見えます。イエスさまに選ばれたのは、子どものろばだったのですから、これはなんとも鼻が高いものでしょう。「ホサナ」と人々の歓声を受けて、イエスと共にエルサレムに入城します。誇らしい役目です。旧約のゼカリヤ書の預言が、ここに成就されたとされています。
 
二人の弟子が、使いとして出され、不思議な経緯で子ろばがイエスの許に連れて来られます。「主がお入り用なのです」の一言が、読者の心に刺さるとき、子どもばかりでなく、大人にも緊張が走ります。それは自分のことだ、と。弟子の二人は上着を子ろばに掛け、王の入城のお膳立てをします。多くの人々もまた、それぞれの上着を道に敷きます。
 
さらに人々は、棕櫚かどうかマルコは記していませんが、葉の付いた枝を切ってきて、道に敷きます。「主の名によって来られる方」への祝福が始まりました。ここで、ある一つの行動に目を留めたいと思います。使わされた弟子の「二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばがつないであるのを見つけたので、それをほどいた」という行為です。
 
マルコではありませんが、マタイが、イエスをメシアと告白したペトロに対して、イエスが天の国の鍵を授けたシーンを描いています。このとき「地上で解くことは、天でも解かれる」とイエスが言いました。子ろばを「ほどいた」というのは、この「解く」という語と同じです。子ろばを解いてどうするのか、と二人の弟子は注意を受けていました。
 
二人は、イエスに指示された通りに、「主がお入り用なのです」と告げると、子ろばを貸してもらえました。この構図から、教えられます。子ろばが解かれたのは、自由になることでした。絆(ほだし)から解放されます。すると、主のために用いられるようになるのです。神に用いられること、それが自由になる、という意味だと理解されます。
 
神の法に従うように神に用いられる。それが自由になるということを意味しました。子ろばは、イエスと共にいるようになりました。それが自由の象徴でした。再び元の仕事に帰された後は、束縛を受けることになりましょうが、一旦イエスと共にある自由を知ったことは、かつての自分とは違います。喜びの内に、自律的に生きていくことになるでしょう。

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