真実を期待されている
使徒6:8-15
不思議な業としるしをステファノは行っていたといいます。もうこれだけで驚きです。十二弟子ではないが、教会の重要な代表のひとり、そして最初の殉教者となった人。信仰にも人格的にも尊敬されたと思われます。ペトロやパウロのような業を行ったとしても、メジャーでないが故に驚くというのは、ステファノに失礼なのかもしれませんけれども。
さて、私たちはどうでしょうか。その意味では同じ弟子としてここにいるのです。自分にはそんな力などないと私は思いますが、キリスト者の中にはなかなかの力を発揮する立派な人もいます。もしかすると私にも、自ら気づかないままにそんな力があるのでしょうか。神はそんな力を実は与えているのかもしれないとすると、何かやってみたくもなります。
ステファノは、知恵と力と霊によって語っていたといいます。なにげない箇所で見落としがちですが、ステファノは「語っていた」のです。語ることにより力が現れます。語ることにより業がなされます。語ることによりしるしが示されます。知恵は目に見えませんが、業としるしは見えるでしょう。人々にそれが知られることで、証しとなります。
このステファノの示すものに、会堂の人々は歯が立ちませんでした。「解放奴隷」という名を掲げたグループがあったようです。B.C.61年にローマの将軍ポンペイウスがユダヤ人をローマへ引いて行き、奴隷にしたのですが、その後解放されました。遠い知に残ったユダヤ人たちはユダヤ文化を守り、それを誇りに思っていたのではないかと思われます。
ギリシア語聖書が信仰の中心になっていったのは、彼らの故であるのでしょうか。彼らはパウロに激しく敵対したユダヤ人たちと同一であるのかもしれません。もちろん彼らは、イエスがキリストであるなどという新興宗教を認めることはできません。他のユダヤ人会堂の人々がいても、当然同様に、ステファノが許せなかったことでしょう。
ステファノの殉教の話にさりげなくも言及されている、これらの記録は貴重です。彼らのステファノに対する嫌疑は捏造であったといいますが、十戒で禁じられている偽証を果たしてユダヤ人ともあろう者が安易にするものでしょうか。キリスト教サイドの証言である新約聖書は、どうもユダヤ人が憎まれる要素を盛り込み過ぎたようにも思えます。
パウロも同様の迫害に遭いましたが、偶々生きながらえたということでしょう。ステファノは、神殿と律法をけなした、それが最も頭に来たようです。イエスもエルサレム神殿の崩壊を予言しましたが、それをステファノはそのまま告げたようなものでした。その後それは事実起こります。ルカは歴史の正しさを根拠に、ステファノの真実を見せつけるのです。
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