河の流れのように
「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(マルコ8:27)とイエスが問う。弟子たちは様々に答えるが、ペトロが、「メシア」だと言う。もちろん語としては「キリスト」だが、新共同訳以来、ユダヤ教の脈絡から言われているものはユダヤ式に「メシア」と訳すようになっている。まだ違和感がないわけではないが、そについてとやかく言う立場にはない。
キリストの受難を思う期間、連続講解としての黙示録は休止している。ここで、非常に禁欲を強いるような教会や教えがあるという。だが、説教者はその考えを支持しない、と言った。私も同感だ。私にとり十字架は、常に共にある。「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示された」(ガラテヤ3:1)からである。レントを前に大騒ぎするカーニバルも、私には馴染まない。もちろんそれは祭りの根柢とは違うだろうとは思うが、翌日からの節制を前にしての大騒ぎ、というようにも見えるようなことではありたくないのだ。
もちろん、だから心してこの時期を迎えることは意味がない、などとは言わない。それぞれが信仰の事柄であるからだ。むしろ、ふだんにも増して節制をする方を、尊敬する。真摯に、そして誠実に、キリストの受難を受け止めている方には敬意を表するしかない。
説教者はその信仰というものを、「聖餐」というところで押さえておくような語り方をした。聖餐のパンと杯を前にして、私たちは静まらざるを得ない。そのとき、「知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください」(詩編19:13)との祈りを、告解にも似た形で神の前に明らかにする。そのようにして、聖餐が営まれて然るべきなのである。
特に「隠れた罪」については、注視するようでありたい。私たちは鈍感なのだ。そしてまた、気づこうともしないのだ。認識ができないものについては、解れ、というのは無理難題なのだ。それほどに、悪魔は巧妙に働く。常に働いている、との構えでちょうどいい。だから、悪魔に対して、人間が自分自身の力で闘おうとするのは、不可能なのである。
冒頭に挙げた、ペトロの信仰告白の場面は、弟子たちに厳しいマルコ伝の中では、少しほっとさせるような記事である。だが、それは安心させるものではなかった。その直後、イエスをメシアと告白したそのペトロが、最大の罵声を浴びることになるのだ。
ペトロという一番弟子について、説教者はユニークなキャッチフレーズを教えてくれた。「先頭で転んでみせるのがペトロだ」というのである。たぶん、「転んでみせる」と言っていた。だとすれば、「転んだ」との違いは何だろう。なにもペトロはわざと、失敗をしてみせた、という意味ではない。ペトロは、後の信徒のために、つまりはいまの私たちのために、逸る信仰者の思い込みや勇気の実例を見せてくれるのである。
8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
「あなたがたは」は「あなた」と読み替えてもよいだろう。「それでは、あなたはイエスを何者だと言うのか」と、主が問うている。私たちが答えるべきことは、ある程度決まっているとも言えるが、いまはペトロの有様を聞いていこう。
メシアとは「称号」である。説教者は、「カエサル」との比較をした。そもそもこの記事の場所設定は、フィリポ・カイサリア地方であった。そこに既に「カエサル」の名が現れている。だからまた、「メシア」という告白も意味があるし、他にも「神の子」や「救い主」などの呼び方が聖書には鏤められている。それに対してイエス自身は、自らを「人の子」と称する。旧約聖書のダニエルの預言を受け継いでいると思われる。実のところ、人間の意味で、エゼキエル書にこそ「人の子」という語は格段に多く見出されるのであるが、ダニエル書は、イエスの終末預言につながる、重要な使い方を示している。
説教者が問題視するのは、この「メシア」について、各人がその勝手なイメージで、何かしら決めつけない、ということだ。その人なりの神学で、聖書を探究するというのは、他の人のためにもありがたい。自分では気づかないでいた聖書の奥深いところに、その研究が気づかせてくれる。だが、その研究は真理のすべてではない。他を排除する、科学的な決定ではない。その科学でさえ、前提が変われば法則の理解に変更が強いられる。
まして人が解釈する聖書の意味や事実など、一人の思いつきが、他のすべての人の信仰を破棄することなど、できるはずがない。たとえば、聖書を文字通り信仰するのが愚かしい、という意見をもつのは構わないが、その批判自体が、聖書に基づいているのだから、それらの理解の間にはレベル差はないと言える。そしてもしも、批判者のたんなる感情でそのような意見を強弁するならば、それはもはや信仰でもなくなる可能性があると言えるだろう。
説教者は、この思い込みへの警告が、イエスが「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」(8:30)ということの背景の一つだ、と呈示した。神の側である意味で隠している信仰の真髄は、誰か一人の人間の知恵によりすべて把握されるものではないであろう。現に「キリスト」という言葉ひとつをとっても、誰もが同じイメージをもつものではない。たとえペトロが、「イエスはキリストである」とここで人々に話したとしても、まともに何かが伝わるはずもなく、むしろ混乱が生じることであろう。
キリスト者はしかし、それぞれに信じている。「イエスはキリストである」のだと。そして、伝えたいと思う。「イエスはキリストである」と。しかし、それは私の信じるキリストが伝わることはまずないであろう。キリストをその人が信じたとしても、その人が信じるキリストなのであって、私のキリスト像がそのままに、その相手を支配するのではない。
だから、キリスト「に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って」(8:34)従うのである。「自分の十字架」である。信仰したら、御利益があってハッピー万歳、というところでないにせよ、神からの恵みをたっぷりと受け取る道がそこに現れ、神の祝福が与えられているに違いない。
キリストを信じれば豊かな生活になれます、という触れ込みで伝道していた団体もあったが、それが現世での金儲けや成功を意味しているのであれば、ただのまやかしである。但し、これを逆手にとって、信じれば苦難があるのは当たり前だ、と迫るのも、どうかしている。そうやって教団が金を巻き上げるということも、マインドコントロールによって、容易にできてしまうのだ。まことに、人間の中に働く悪魔の知恵は絶大である。
さて、ずいぶん長くなった。説教のあちこちから受けた恵みに、悉く返信していることは不可能だろう。ヨハネ伝にもあるように、一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろうからだ。
8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
「いさめる」「叱る」が同一語である、というのも興味深かった。日本語が、敬語を含むものであることがよく分かる。サタンに「引き下がれ」と命じたイエスの言葉が、「後ろに回れ」という響きを保つ語であることも、再び強調された。しかし私たちは、良い意味でイエスの後ろに回ることが求められている。イエスに従うとき、そのような構図になるはずだからである。イエスの背中を見つめながら、従い歩きたいと願う。
そして、説教者は、ペトロが気づいていなかったことがある点を指摘する。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(8:31)というイエスの教えに対して、ペトロが、そんなことがあってはならない、という意味でイエスを「叱った」のだったが、このときペトロは「殺される」ことを否定したに違いない。だが、イエスは「復活する」と言っていた。ペトロはこれさえも否定した恰好になっていたのであるが、これに気づいていなかったのである。
教育現場では、この例は数多あり、枚挙に暇がない。問題文の中の、注目すべき点が読めていない、ということは日常茶飯事である。その例を挙げるのはもう控えるが、そのような文章読解についての拙さについては、もはや年々といってよいほどに、劣化している。言葉の上っ面を流し読みすることで生活が成り立っているために、いわゆる読解ということができないのである。いまや入試科目のうち、国語がおそらく最も難解な科目となっている。
さて、ペトロが「復活する」ことを聞いていないではないか、という指摘については、思い出がある。このことを非常に強調して、センセーショナルな説教題を付けた礼拝説教において、私の目の前で叫んだのは、東八幡キリスト教会の奥田知志牧師であった。
しかしこの朝、説教者が同様にこれを指摘しても、叫びはしない。むしろ、凡そ次のようなイメージを私たちに伝えた。――イエスは傷あるままに新しいいのちに立ち上がった。このとき、イエスの背中から永遠の命が流れてきた。それを受けたから、私たちはいまここにこうして礼拝している。私たちが想像するよりも、ずっと豊かな命がそこから流れている。それは大河となる。大河の流れを、私たちがペットボトルに閉じ込めてしまようなことがあってはならない。自由に飛べる小鳥を小さな箱の中に閉じ込めてはならない。いま、大きな流れがイエスから始まろうとしている。
説教者の言葉に加えて、私の言葉も少しばかり付け加えて続けると、自分の小さな命、あるいは自分の小さな欲望のことかもしれないが、そういうものは棄てて、大きな大河をたゆとうがいい、ということになる。しかしただ漂泊するのではなく、神の愛の流れに委ねるのだ。自分の思い込みに絡め取られるのではなく、神の大河に揺れるというあり方によって、却って自由を与えられることになるであろう。イエスの背中を、見守ろうではないか。
クラドックに『権威なき者のごとく』という本がある。1971年に出されたものが2002年に邦訳されている。これがまだ理解されていないとなると、アメリカより半世紀遅れていることになるかもしれないが、それにはいまは触れまい。本書が有名になったのは、その「帰納的説教」という提言をしたことであり、その方面ではもはや古典となっている。その本に訳者が「会衆と共に歩む説教」という副題を的確に付けたように、その「帰納的説教」は、哲学でいう演繹と帰納という概念に則り、個別の経験から出発して、会衆との対話や交わりが言葉を運んで行き、ついに会衆が説教の言葉を通して異種の場へ導かれることを目している。
説教者がこれにつねに従っているというわけではないだろうが、私なりにこのスタイルについて非常に憧れるところは、そのイメージ豊かな点である。説教が、必ずある風景をもたらしてくれるのである。目を閉じれば、映画のスクリーンよりもっと大きな、人間の生きる「世界」と呼べるような情景が現れる。そしてその中に自分もまたいる。もちろん、そこは神が働いている。いわば、幻のうちの「神の国」である。それは、言葉では言い尽くせないような、絵画的な姿を以て私に迫ってくるのである。
ここでは、イエスの背中が見えていた。そして、その背中から流れ出る大河という、ファンタジー的な風景が、現れてきた。その大河に呑み込まれ、私は良い意味で流されてゆく。神の大いなる計画が、そうしてもたらされ、私は、神の思し召しなる、別の場へと運ばれて行ったのである。
なお、礼拝終了後、教会で間もなく「聖書協会共同訳」へと切り替えるための説明会が開かれた。2018年末、新改訳聖書の改訂に一年後れて登場した、日本聖書協会の最新の翻訳聖書である。これは、新共同訳の時と比べて、教会の動きはしばらく鈍かった。正確な情報は知らないが、まだまだ採用割合は低いのではないか。それほど新共同訳が馴染んでいるのであろうか。しかし、初めてのカトリック・プロテスタント共同の翻訳は、新約と旧約との間に方針転換のズレがあったり、それぞれの立場の相違の問題がまだ十分に解消されているとは言えなかったり、必ずしも理想の訳だったとは言えない。
約30年という、リーズナブルな時間を経て、新たに挑んだ聖書協会共同訳は、近年の聖書学の成果を踏まえるという、当然の方針を活かしたものの、それがために従来の解釈を揺るがすような日本語に変更してしまうなどの、けっこう大胆な変更がなされている。これを、「殆ど変わらないから変更しません」などと間の抜けた発表をした教会もあったが、恐らく聖書にあまり関心がないのだろう。それに対して、今回5年を経て導入を決めたということは、当初の誤植などを考慮してのものだというから、それはひとつの慧眼であろう。
旧約聖書続編付きのものについても、デリケートな説明がなされていた。それは「いりません」という形ではなく、「礼拝では読みません」ということだったのだ。私は個人的に所有するならば、続編付きがよいと考えている。続編と呼ばれる箇所から、新約が引用あるいは参照している箇所も多い。続編を知っていたからこそ、新約の意味が分かる、ということも珍しくない。また、だからこそ、引照付きがありがたい。新約との関連も多く見出されるからである。
なお、この日本聖書協会の聖書について、説明で、カトリックとの関係の中で用いられる、というような言い方がなされ、それに対して、全体の4分の1を占める新改訳聖書(2017)については、言葉を選びながらも、カトリックと共同しないという立場から生まれた聖書である、と説明されていた。「福音派」という言い方が誤解を招かないかの配慮がそこにあったが、説明というものは、一つひとつの言葉に、聞く側がどのような背景から聞いているのか、様々な考え方を踏まえた上でなされなければならないことを実感した。こうした配慮があるからこそ、人の心に届く説教が語られるのだ、とも思うのだった。
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