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日数を重ねた者 (ヨブ32:1-10, 使徒2:14-21)

◆老いの域

後期だか前期だか知りませんが、自分が「高齢者」という括りに入ってきたことを、認めなければならない人が、ここにも何人もいらっしゃることでしょう。私も、シルバーシートがあったら、自分も座っていいかな、と思うときには、そういう言い訳を用いることにしています。
 
でも、自分が老人になる、という設定は、自分の人生にはなかったという人もいるでしょう。「おじいちゃん・おばあちゃん、いつまでも長生きしてね」と、自分が子どもの頃には口にするのが常識でした。成人しても、高齢者は自分の外の世界でした。そんな状態が、ずっと続くように思い込んでいました。でも、それは錯覚だったのです。
 
気がつけば、自分は立派に老いています。体にはガタがきています。体がいうことをきかないこともあります。まだまだできる、などと無謀なことだけは、しないように努めています。仕事ができなくなりますから。
 
でも、自分が精神的に、歳をとって老いてしまった、というような気持ちにはなれないものです。もしかすると私などよりよほどベテランの方々も、気持ちのほうでは、若い頃と何も変わらない、とお思いの方がいらっしゃるのではないでしょうか。体はガタがきても、心にガタは来ていない、と自分では思えるのです。
 
でも、鏡の中の自分を見ると、そこにいるのは、見かけの上では老人の一人。すると、「老人って、頑固だよな」などと若い頃に考えていたことがふと思い出されて、目の前のこいつも頑固じじいに違いない、と推理するようになってきます。だから、鏡は見たくなくなります。
 
孫が生まれたなどというと、誰のことだ、と言いたくもなりますし、自分が棺桶に片脚突っ込んでいるような気持ちにさせられます。そして、「敬老の日」という世界に、自分もいるのか、と思うと愕然とします。
 
どうも、兵庫県野間谷村の敬老会が発祥ではないか、と言われていますが、9月に設けられたのは、農閑期で都合が好かったと伝えられています。それでも、まだ他の地域でも「としよりの日」だとか「老人の日」だとかいう名で、受け容れられていったとのことです。
 
どうでもいいことですが、私にとってはどうしても、オフコースの「老人のつぶやき」という曲が、この敬老の日あたりではくっついてきて離れません。NHKの『みんなのうた』に、1975年、まだ若かったオフコースのもとに、曲の依頼があったのです。小田和正はそのために「老人のつぶやき」を書いたのですが、「老人」という響きが無理だ、ということでボツになりました。その後、2021年になって、『みんなのうた』に、小田和正は「こんど、君と」で、デビューすることになりました。あの「老人のつぶやき」の歌詞は、まだ20代の小田の空想に過ぎないにしても、「私の好きだった あのひとも今では もう死んでしまったかしら」と聞くと、やっぱり少し切なく響いてきます。
 

◆年長者として

高齢者とは、年齢が高いということです。儒教社会では、無条件で年長者が敬われるといいます。いま現在、どうであるかについては確証がもてませんが、韓国の文化には、その傾向が強いということを聞いたことがあります。キリスト教信仰の人が一番多く、仏教もそれに次いで多いといいますが、文化的には儒教文化が社会の背景をつくっているものと考えられます。
 
と思いきや、近年エイジズムと呼ばれる年齢差別の動きも強くなっており、高齢者に対する差別や老人嫌悪の声が高まっていることが、社会問題化すらしているそうです。
 
どうやら経済的根拠に基づくようです。生産性のない老人は、社会の迷惑だ、というような捉え方で、悪しき個人主義の典型的な考え方だとも言えますが、もちろんこれは韓国のようなところに限ったことではありません。日本においても、超高齢化社会の到来が確実と言われ、高齢者1人を経済的に支えるために、すでにほぼ2人という人数に達しています。今後半世紀の間に、1.35人あるいは1人なのかという予測もありますが、高度経済成長期には、10人以上が当たり前だった時代もありました。
 
60歳になった年寄りは山へ捨てよ、というおふれがあったという伝説は、姥捨山の物語になっていますが、本当にあったことは確かでしょう。現代には「人権」という言葉が重んじられていますが、果たして今後どうなるか、予測はつきません。そもそも「人権」というものが本当に至高のものなら、どこの世界にも戦争など起きないことでありましょう。
 
老後は2000万円の蓄えがなければ生活できない、などと口にした政治家もいました。国民は大いに慌てました。決して思いつきの発言ではなく、それなりの根拠のある計算であったことは確かですが、ご自身は、生活に困ったことが殆どなく、相当な蓄えや収入の宛が今後もあるから、気楽に呟いたのかもしれません。その発言後もすでに5年が経ち、物価は高騰していますから、現在の試算ではまたずいぶんと違うことでしょう。
 
少子高齢化社会。老人の割合が社会の中で高くなるばかりという展開は、容易には改善されないことが確実です。従来と同じ方法での社会維持しか考えられないならば、経済的には危機的なものであることは間違いありません。
 

◆日数を重ねる

バチカン宮殿内のシスティーナ礼拝堂の天井に描かれたミケランジェロの画。アダムの創造の場面は、とくにミケランジェロ自らが徹底的にこだわった描いたと聞いています。そうでなくても、神の姿は、ステレオタイプに老人の姿で描かれます。アラレちゃんに登場する神さまも、頑迷な顔をした老人でしたっけ。
 
神が老人であるかどうかはともかく、聖書においては、ダニエル書7章の中に、特別な表現があります。「日の老いたる者」と呼ばれる存在が指摘されるのですが、それは明らかに「神」を指しています。
 
9:私が見ていると、/やがて、王座が据えられ/日の老いたる者が座した。/その衣は雪のように白く/頭髪は羊毛のように清らかである。/その王座は燃える炎/車輪は燃える火。
 
13:私は夜の幻を見ていた。/見よ、人の子のような者が/天の雲に乗って来て/日の老いたる者のところに着き/その前に導かれた。
 
22:やがて、日の老いたる者が現れ、いと高き方の聖者たちのために裁きが行われ、聖者たちが王国を受け継ぐ時が来た。
 
終末の姿を描いたとされ、新約聖書の黙示録もこのような幻を効果的に記していますが、これの解釈は、研究者の関心を惹くものではあっても、私たちは、激しい思い込みをできるだけ避け、静かにこれを見ておきたいと思います。
 
「日の老いたる者」というのは、「多くの日数を重ねてきた方」というような意味合いの言葉です。人間の視野から見た、誰よりも長く生きておられる神という捉え方の中で生み出されたレトリックだと言えましょう。神を老人として見よ、の指示のようには、私は思えません。
 
しかし、白髪に対しては聖書は特別の敬意を表するべく言及します。箴言には、白髪の持ち主を尊敬する格言が掲載されています。
 
31:白髪は誉れある冠/正義を行う道に見いだされる。(箴言16:31)
 
29:力は若者の誉れ/白髪は老人の輝き。(箴言20:29)
 
しかしレビ記だと、はっきり律法のひとつとして、強く命じていることがあります。
 
白髪の人の前では起立し、年配者を重んじなさい。あなたの神を畏れなさい。私は主である。(レビ19:32)
 
近ごろとくに、電車のシルバーシートが有名無実化していることに気づきました。若いときには、そこに座ること自体を恥ずかしく感じていたものですが、いまの若者は平気で座り、スマホに没頭します。スマホに熱中していれば、近くに高齢者が立っていても、気がつかないフリができるのです。昔は寝たふりをしていましたが、いまはスマホが免罪符になっています。
 
かと思えば、普通席に座った高齢者が、自分の荷物を隣の席にどんと置いて、隣りに誰も座らせない、という魂胆でいる様子も、しばしば見かけるようになりました。電車の中は、社会の縮図です。高齢者を巡る社会の姿は、いろいろな意味で冷えきった心を感じてしまいます。
 

◆年齢がすべてではない

さて、今日は中心に、旧約聖書のヨブ記を置くことにしました。ヨブ記について説明を始めるとなかなか大変なのですが、神とサタンとの協議から、ヨブという義人が、不条理な不幸を一度に受けることになった、というユニークなストーリーです。
 
主人公のヨブは、老人とまで言っていかどうかは分かりませんが、成人した息子娘がいました。それ相応の年齢だったようです。ヨブの身に起こった不幸を聞いて、3人の友人が訪ねてきます。たぶんヨブと同世代なのでしょう。3人は、ヨブが何か神に過ちをやらかしたのだろう、だからこんな不幸が起こったのだ、と断定します。が、ヨブはそうではない、と強弁します。どちらも譲らないので埒が明かない状態にっていたのですが、そのとき突然、どこから沸いたのか、エリフという若者が現れます。エリフは、八方塞がりの4人の議論を打ち破ります。その最初のほうで、自分がこうしてしゃしゃり出ることを正当化します。32章です。
 
7:私は思っていた。/日数を重ねた者が語り/年数の多い者が知恵を知らせる、と。
8:だが、人の中に知恵の霊はあるが/人に悟りを与えるのは全能者の息なのだ。
9:多くの人が知恵深いわけではなく/年長者が公正を悟るわけでもない。
10:それゆえ、私は言うのだ。/聞け、私もまた自分の意見を述べよう、と。
 
「日数を重ねた者が語」るべきだ、と若い知者エリフは考えていたそうです。これは、先ほどの「日の老いたる者」を彷彿とさせます。エリフは神の前に謙遜に、神こそが語るべきであることを踏まえているようにも見えますが、ひとまずは、年長者の知恵を尊重して聞こう、という自分の姿勢を示しています。白髪の人に敬意を表するという、イスラエルの美徳を保とうとしているわけです。
 
しかし、エリフは、それがすべてではない、と言い切ります。年長者の知恵が一番正しいとは限らない、一番公正な考えをもっているわけではない、と言うのです。当たり前と言えば当たり前かもしれません。エリフはこう言って、この中で一番若い自分の主張を聞いてくれ、とここから喋り続け、ついにヨブにも3人の友人にも、何も反論させなくなります。エリフの独擅場となった後、ようやく神が口を開きますが、神はヨブに向けてとどめを刺すように神の偉大さを告げ続けるだけです。そしてエリフの姿は、物語のどこにも現れなくなります。不思議な登場と退場です。まるでエリフは、天使のようでした。
 
白髪が偉いのではない。年長者こそ正しい、という思い間違いを正すようなエリフの役割は、ヨブ記の理解としてはあまり強調されませんが、私は少し重く考えてもよいのではないか、と思います。
 

◆長生き

私たちの世の中では、お年寄りには、どうか長生きしてください、と声をかけるのが礼儀となっています。旧約聖書で白髪の人が尊敬されたのも、いまの時代にも増して、長生きするということが、大変なことだったからかもしれません。詩編やコヘレト書には、長生きの重要さに触れた表現がありますが、なんといっても、申命記にこの「長く生きる」という言葉が目立ちます。
 
申命記は、モーセの律法をまとめ、再び目の前に提示する、という意味合いをもつ書だと言われますが、祝福の道と呪いの道との比較対照が著しく、ある意味で非常に明解に、神からのメッセージが明らかにされている、と見ることができます。
 
だから今日私が命じる主の掟と戒めを守りなさい。そうすればあなたもあなたの後に続く子孫も幸せになり、あなたの神、主が生涯にわたってあなたに与える土地で長く生きることができる。(申命記4:40)
 
あなたがたの神、主があなたがたに命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたがたは生き、幸せになり、あなたがたが所有する地で長く生きることができる。(申命記5:33)
 
こうしたほかに、あれこれをすれば長く生きることができる、という調子のところもありますが、いま挙げたように、主の戒めを守り、主の道を歩めば、長く生きることができる、というのが一般的な福音のように得ます。
 
あなたの神、主を愛し、その声を聞いて、主に付き従いなさい。主こそあなたの命であり、主があなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地であなたは長く生きることができる。(申命記30:20)
 
こうして、約束の地で長く生きることができる、というのが最大のご褒美のように告げられています。それこそが、旧約聖書の最大級の祝福でした。
 
新約聖書では、イエス・キリストの救いにより、「神の国」へと視点がずらされます。それは「永遠の命」という呼び方でも表されているように受け取ることができるかもしれません。かつての「長生き」ということと、これとはいかにも食い違うようですが、私は多分に、同じものを指していたのが、言葉による表現を替えたようなものではないか、というふうに感じます。言葉尻だけをつかまえて、聖書は矛盾だ、と鬼の首を取ったような言い方をするのは、言葉について非常に浅薄な見方しかできない、知恵の貧しさを露呈しているように思えてならないのです。
 

◆教会の高齢化

その結果、単純に長生きこそが幸福であり、神に祝福されているのだ、という捉え方が適切ではない、と分かってきました。それだと、短い生涯の人は神に呪われたと見なすことが可能になります。災害に見舞われた人は、神の罰を受けた、などというとんでもない言い草を、震災の被災地で振り撒いていたキリスト教関係者がいたと言いますから、何を勘違いして害悪を垂れ流しているのか、と怒りさえ覚えます。
 
しかしまた、被災者を見ると、神がいるならどうしてこのようなことを、と懐疑的になってしまうのも、何か少し違うような気がします。もちろん、自然であれ人間からであれ、災いを受けた人については、何か神学的な説明をぶつけよう、というような気にはなれません。それへの応えが求められている、というのも確かなのでしょうが、さも分かったような説明を施すこともしたくないと思うのです。このことは、またいずれ検討してみたいと考えています。
 
先にも挙げましたが、いわゆる先進国はとくに、平均寿命の延びによる、高齢化社会に入っていると考えられています。平均寿命という指標は、とくに嬰児の死亡率の低下が大きく影響を与えます。また、戦争のような事故で多くの人が亡くなることがなければ、それなりに平均余命も延びると考えられます。平均寿命という数字は、衛生と医療、それから平和の指標でもあると理解できるのです。
 
高齢化社会は、キリスト教会にも当てはまります。高齢者の増加が、近年多いに目立つようになってきました。かつては、お寺さんが、老人の集まるところ、というふうに見られたこともありましたが、そのころ若い人で溢れていたかもしれない教会が、いまやすっかり老人の集まりになってしまった観があります。
 
かつては教会では、敬老の礼拝において、60歳以上を祝福する、などといった時代もありました。しかしいまや、そんなことをしていると礼拝にいる殆どすべての人が前に出ることになりかねません。医療制度で一般の「75歳以上」だという「後期高齢者」を祝う教会が多くなり、さらにはそれでも割合が多すぎるとして、「80歳以上」という教会さえ実際あるようです。
 
若い世代や子どもたちが、だんだん見当たらなくなってきた、という悩みももちろんあります。が、さらに深刻なのが後継者問題です。お寺では、住職の子が後継ぎとなることがよくあります。檀家も、それを期待して子どもの教育を応援することがあるようです。檀家にとっては、墓守の継続を死守する思いなのでしょう。それで寺はなんとか持続しますが、近年は墓じまいということさえ取り沙汰されるようになり、せいぜい「永代供養」という形でなんとか繋ぎとめよう、とする傾向も見られるようになりました。
 
しかし、教会は基本的に世襲制をとりません。神は一人ひとりに使命を与え、神との出会いと救いを全うした人でなければ、教会の代表者とはなれないはずだからです。そこで、後継ぎが期待できないという中で、寺よりもなお一層深刻であるのかもしれません。
 

◆夢と信仰

夢のない話になってしまいました。しかし、根拠も信仰もない希望をもつことは、間違っています。いま老人が多くなってきたとはいえ、その教会には、希望がないのでしょうか。夢がないのでしょうか。
 
思い起こすのは、使徒言行録2章における、いわゆる聖霊降臨の場面です。突然弟子たちに聖霊が降ったという話です。その様子を、エルサレムに来ていた各地の人々が目撃します。各地の言葉が飛び交う異常な風景に驚いている人々に向かって、ペトロがその自体を流暢に説明します。このとき、旧約聖書のヨエル書の出来事が起こったのだ、という言い方をします。そのヨエル書の引用は、おおよそヨエル書にあるままに、挙げられます。
 
17:『神は言われる。/終わりの日に/私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。/あなたがたの息子や娘は預言し/若者は幻を見、老人は夢を見る。
18:その日、男女の奴隷にも/わが霊を注ぐ。/すると、彼らは預言する。
19:上では、天に不思議な業を/下では、地にしるしを示す。/血と火と立ち上る煙が、それだ。
20:主の大いなる輝かしい日が来る前に/太陽は闇に/月は血に変わる。
21:しかし、主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
 
ヨエル書では、「老人は夢を見、若者は幻を見る」(ヨエル3:1)の順番になっていますが、特に内容が変わるわけではありません。
 
聖書は約束しています。老人に希望がないわけではないのです。老人は夢を見るのです。この意味を、気になる方は注解書などでお調べになるとよろしいでしょうが、いまはその暇はありません。私たちは、この言葉を自分のこととして受け止めて、握りしめましょう。それが、いま私たちに必要な聖書への向き合い方です。
 
聖書はただの幻を突きつけてはきません。ありもしない夢想を、画餅として掲げることはしません。浮世離れしたホラ話をもちかけはしないのです。これは信仰です。神を信頼するからこそ、私たちが受け止めることができる、真実な言葉なのです。
 
確かに、年上だから知恵がある、とは限りません。エリフもその点を突きました。人生経験があるからそれが真実だ、などと決まっているわけではありません。けれども、ヨハネ伝8章で、あの姦淫したと摘発された女のことをちょっと振り返りましょう。
 
律法に従って殺せとイエスに迫った、血に飢えた狼たちから一度目を外した後、身を起こしてイエスはこう言います。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)
 
このことで、老人に近いほうから順に、覚るのです。自分を見つめることができたのは、年長者だったのです。「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってゆき、イエス独りと、真ん中にいた女が残った」(ヨハネ8:9)からです。
 
年齢を重ねただけでは、年の功だとは言えません。しかし、人生経験の中に、自らの罪と神の正しさというものに気づく可能性が、描かれていたように思います。老人は老人なりに、罪を知り、信仰と夢を懐く、ということが望まれているのではないか、と私は問われました。謙虚に、健気に、そして大胆に、夢を見ることがゆるされている、と信じます。全能者の霊を、私もまた受けているのですから。

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