手話を教えることについて
だいたい、ろう者や手話について何の理解もできていない者が、分かったようなことを吐くというのは、当事者からすれば許しがたいことであろう。だから、無責任で無理解な愚か者の戯言とみて戴いて差し支えない。それでも聴者の側から何か呟いている、という価値をごく僅かでも認めてくださるなら、お読みくだされば幸いである。――
ろう者だけの教会もある。音楽的賛美が難しいという。しかし聴覚が立ち回り行かない原因は様々であり、聞こえ方もいろいろである。また、響きそのものは感じることも少なくないから、リズムがとれるというケースもある。賛美歌の好きなろう者もいるし、聴者が多い教会のほうがいい、という場合もある。但しそのときには、礼拝説教をはじめ、コミュニケーションの手段として、手話が必要になることもある。
手話通訳は聴者である。いわゆる資格がなくとも、ろう者に教えられ、あるいはどこかの教室で学んで、説教の通訳がなんとかできるようになると、ろう者にとっては、聴者の教会も居心地が悪くはないかもしれない。
しょせん、日本語対応手話ではある。だが、それを我慢してくだされば、説教の内容は伝わらないわけではない。片言の日本語でも話してくれれば、言いたいことは理解できる場合が多いであろうのと同様である。
ろうの方々からすれば、「手話通訳」と銘打っている公的な場で、日本語対応手話をやられたら、たまらないことだろう。また、「手話歌」を喜んでやっている聴者たちを冷ややかに見るのも、当然かもしれない。とくに最近有名人が、手話を振り付けのように扱っていることに批判が集まっているが、尤もである。けれども、手話が言語として認知されていく過程にあると受け止めて、互いに歩み寄る中から、また次の手を打つということも必要であろう。意見としてきちんと批判することは大切だが、できれば端的に厳しい非難は控えたほうがよいような気がする。これまで差別された歴史を踏まえると、お怒りも尤もだとは思うが、何かつながるところ、重なるところを模索できないかと願う。
素人の日本語対応手話による拙い通訳を我慢して受けてくださる、教会のろう者には申し訳ないし、感謝しかない。そして、その通訳をしていた方から、私たち夫婦は手話を教えて戴いた。寛容なろうの方からも、その都度教えて戴いた。それで、なんとか最低限のことは伝えられるようになったかと思う。特に妻は、以前から手話に関心があったのと、伝えたい熱意が強かったので、そのための努力も相俟って、かなりのレベルに達したように見える。
いまはそれができていないので残念だが、こうした教会での手話通訳は、音をその場で聞くことのできない方々に、語られる福音をリアルに伝えたい、という願いによって成り立っている。その場合、福音が語られている、というのが前提である。手話通訳として実に頼りないものであっても、福音の内容を伝えることが目的であるので、福音、つまり良いニュースを、聖書から伝えることが肝要である。
もしも、意味のない聖書講演会や、聖書の「お勉強」の発表会であれば、それをわざわざ伝えて「礼拝」とすることには納得がいかないだろう。また、教会での総会のような話し合いについても、適切に伝えることもが通訳者の使命であるのだが、そこでもし罵詈雑言が飛び交わされているばかりであったら、通訳者は、いったい何のために自分が通訳をしているか分からず、心に深い傷を負うに違いない。
聴者の教会に惹かれて来たろう者が、通訳者不在のままで礼拝に加わるというのは、どうなのだろう。説教原稿を渡されて、読め、でよいのだろうか。周囲の人が、手話を覚えたい、というような気持ちになってくればよいのであるが、まずはその気持ちを起こすように働きかけなければならないのが現実なのだろう。私たちも数ヶ月あればわずかでも伝えられるようになっていったのだから、熱意や使命感があれば、種蒔きは決して無駄ではないだろう。
教会グループの中で、手話を知ってもらうための活動というものもあるようだ。手話の心得のある人が中心になり、理解のあるろう者も少しそこに加わって、あちこち地方を巡り、何か月かに一度、定期的に手話教室を開くというものだとすると、ちょっと関心のある人が出席するには、よいものなのだろう。
この四半世紀、ドラマなどでも手話が登場し、関心のある人が増えている。昔「手まね」などと蔑視されていた時代とは違う。小学校でも、四年生頃に手話に接する子どもたちが多くなった。子どもたちは素直に吸収するので、今後はより理解も自然になってゆくことだろう。いまの大人たちに、手話に接する機会というのはあまりないので、あちこちの教会に出かけていって、いわば啓蒙することには、確かに意味があるだろう。
だが、そのとき数時間しか時間がとれないとすると、どこへ出かけても、簡単な挨拶と、自己紹介程度で終わるようにも思われる。聖書に出てくる単語のいくつかを、賛美歌を通じて覚えるので手一杯になるのではないだろうか。たとえばひとつの手話にも、その表す意味と動きとの関連がこめられているものだが、そこまでは分からず、手の動きだけをなんとか振り付けのように覚えて終わり、というふうになりかねない。
ちょうど、漢字を覚えるのに、その意味までは理解できず、とりあえず書けたよ、という勉強を続ける小学生が、実のところ漢字の力を身に着けることができていないように、わずかな学びだけで終わる手話の出張教室で、何が生まれるのか、少々疑わしい。種蒔きにはなるかもしれないが、良い地に撒かれた種だと言えるのかどうか、疑問である。
自分は手話に接したぞ。名前が言えたぞ。そんな聴者の自己満足に終わる可能性も否めない。何か趣味や技芸のようにして、手話に触れる。英語で挨拶と自己紹介を言えたとして、それが誰かの助けになるかどうか、怪しいだろう。ろう者が労苦して教えたその手話が、ろう者のために何か役立つということまで、展開する可能性があるのだろうか。
手話をもっと学ぼう、という人が、その中から現れたらよいと思う。しかし、教会に必要なのは、やはり礼拝説教をリアルタイムに通訳してくれる人だろう。そういう人を養成する場やきっかけとなるのならばよいのだが、どこへ出かけても初心者相手に、挨拶と名前、といったことを延々と繰り返すのであれば、言葉は悪いが、ドサ回り以下の有様ではないだろうか。何のために費用と時間をかけてするのか、もったいない気がする。
初心者向けの場と、通訳者養成のための場を、分けて教室を展開するなど、目的に応じた対応が望ましい。プロの通訳者とまではいかなくても、説教者が語るペースになんとか合わせて伝えられる人が、あちこちの教会にいるようになればいいと願う。
福岡県の那珂川市では、市の職員をあげて手話の課題に取り組んでいる。その姿勢は行政に反映されてゆく。教会でもこのシステムに学ぶことは多いだろうと思われる。ろう者のキリスト者は、聴者のそれよりも割合が確実に高い。それなのに、聴者の教会がお高くとまって、ろう者を排除しているような現状がないか、顧みる必要があるだろうと思うのだ。
「共に生きる」という美しい看板を掲げている教会もある。だが、その実点字にも手話にも関心のない、そうした状態に矛盾を感じていない場合も少なくない。「誰かがすればいい」とか「自己満足できたぞ」とかいうのではなく、せっかく集まっているのであれば、教え、また学ぶ場を、根本的なスピリットの上に、築ければどうだろうか、と私は望んでいる。そうすれば、説教者も、ますます説教の内容に留意し、ゆっくりと丁寧に語るようになることも見込まれるであろう。あとは、片言の手話でも、霊が仲介してくれることを期待するばかりである。