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神の決断を受けて

「クリスマス」期間は、欧米ではまだ続く。それは宗派によっても異なる。クリスマスの騒ぎが終われば正月用品セールと瞬間的に変わる日本の姿とはずいぶん違う。「めぞん一刻」の五代君が、その飾り付けのアルバイトをしていた様子が思い出される。
 
クリスマスがこの季節でなければならない必然性はない。だが、キリストが来てくださったという事実を噛みしめる機会が、こうして与えられていることは、人間のためには必然的であるだろう。だから、「クリスマス」という呼称が示す意味を、世間的な意味から全く切り離した形で使うというのが、教会の義務であると言うべきなのかもしれない。その意味でのみ、「クリスマス」という言葉を使うことにする。
 
キリスト者は、かつて、信じてキリスト者になるという敷居をまたいだことがある。「かがみの孤城」は、鏡の向こうの別世界へ入る物語であるといい、「すずめの戸締まり」も扉の向こうに別世界を見るものだった。キリスト者という世界に足を踏み入れると、もう元に戻れないことが分かっていたので、かなりの決断を有した記憶が私にはある。
 
信じるにあたり、ひとは決断をする。何らかの決断を要する出来事である。だが、元日の礼拝では、神のほうが決断をしたのだ、ということが強調された。
 
方向性を変えるというのは、発想を豊かにするひとつのコツであると思う。だから、聖書で常識のように思い込んでいたことの逆を指摘されると、はっとさせられることがある。もちろん、説教者は奇を衒ってそのような効果を狙って言っているのではない。だが、説教は時に、別の視点をもたらしてくれるものだ。
 
神が決断をした。そこに、クリスマスの出来事があった。私たちは、否、私は、それを受けようではないか。神がそこまで決断をしたというのは、どれほど大きなことなのか、知ろうではないか。頑固な私が、てこの力のように動いたのだ。神の愛は、どれほど真実であるかは、私は痛いほどに感じ取っている。
 
神は、すべてを棄てたのだ。専制君主のような権力も、自分の正義をただ通そうとするだけの一途さも、悪人をいたぶって自業自得だ、自己責任だと責め立てることのできる立場をも、棄てたのだ。そして私から距離を置いて観察者になることを止めて、私の傍に立つことを選んだ。共にいるのだ、ということを、口先だけでなく、手間と労力と犠牲を払って、実証してくれた。
 
そのように、神が決断をした。私は私の人生に責任があるはずなのに、私の代理人になったかのようにして、神が私を背負ってくださったのである。
 
ひとが結婚を決意するとき、このひとのために自分は何かをするのだ、と決断する。人生最大級の決断であると思う。我が身の半身を決めるのであり、better halfとばかりに、自らよりも優れた相手のため、自分を捧げるほどの覚悟を決めるのである。
 
どうかすると、神を信じるということは、それにも似たものと思い込んでしまうことがある。「神のために」何ができるか、と自分で自分に問うこともある。具合の悪いのは、指導者サイドが、信徒にそれを問う場合だ。おまえは神のために何ができるか、と教団幹部とその命令を受けた現場の指導者が、信徒たちに問いかける。「神のために」自分が何かをするのだ、という方向性だけしか思いつかない者たちは、すっかり吸い込まれていく。カルト宗教の思考法については、私も経験しているので、よく分かる。
 
しかし、神こそが、決断をした。人間のために何ができるか、決断した。それを私たち人間の側から見れば、「神から」与えられた、ということになる。「私が」という主語を自ら補足するように仕向けて、「神のために」と要求するような構造をもつ精神集団は危ない。大切なことは「神から」来るのである。だから、その営みの意思決定をしたのは、神の側なのである。
 
それに対して、「私が」と、まるで謙譲語のように言わねばならないことは、そのイエス・キリストを痛めつけ、死に追いやった主語としてである。あの幼児虐殺をしたというヘロデ王どころの騒ぎではない。私は、私こそは、イエスを十字架につけろと叫んだ怒号の群衆の先頭に立っていたではないか。
 
クリスマスは、救い主が世に来たという、喜びのニュースである。「今日、ダビデの町で」というのは、過去の歴史の中の一コマであるように聞こえるかもしれないが、それが「今日」という言葉により限定される以上、いつでもありうるのだ、ということは、私が常々語っていることである。「いま」という言葉が、「いま行ったよ」と過去をも示すと共に、「いま行くよ」と未来をも示しうるように、「今日」も同様、時の中で特定の時だけを指すわけではない。
 
その「今日」という言葉を「いま」受けた私は、クリスマス物語の中の誰かのように、キリストの許に駆けつけるよう、呼びかけられている。私は、「神のために」何かをしなければ、と焦ることはしない。つねにすでに「神から」受けているからだ。私にできるのは、私は確かにそうされたのだよ、と体験を真摯に語ることであり、それをしたのはこの方だよ、と指し示すことである。そこには、血まみれの救い主がいる。地上の権力者の誰よりも弱り果てた姿の救い主がいる。だがそれは、世界で最大の愛という名の力を有する、救い主である。そして、こちらがその方のところに行く道なのだよ、と道標を立て、それを指さすことである。
 
元日の礼拝に相応しく、説教者は、「共にいるから、さあ行け」と私たちを促した。愛と平和と真実という言葉の、適切な意味が必要ならば、いつでも私の名を用いよ、とアドバイスを与えた神が、そこに確かに共にいた。希望の泉である神が、そこに確かに共にいた。否、すべての時を超えて、確かに共にいる。人間の世界がどんなに絶望により遮っていたとしても、その道標の指す道の先には、まだ私たちの知り得ない、輝く世界が待ち受けているのだ。そしてそれは、神が決めたのである。

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