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年末年始特集・小説「ヤエル」1

 遊牧民の妻は、たんに夫に従属しているわけではない。

 夫から独立した天幕に住み、しばしば召し使いも有する。夫が隊商などのためその地を留守にしたとき、むしろ一帯を治めておかなければならない責任さえもつ。

「おれだ。ヘベルだ。開けてくれ」

 妻ヤエルの天幕を訪れたのは、鍛冶職人の夫だった。

「おや。昨晩もいらしたのに」

「二日続けてでは、不満か?」

 ヤエルはヘベルを迎え入れた。たとえ夫であっても、妻の許しなくしては、その天幕に入ることはできない。

 星が一つ現れ、二つになり、十になり、たちまちそれは百になる。

 イスラエル北部に広がるキネレトの海は、遠い南の塩の海、死の海へ向けてヨルダン川を導いている。ここは、エロン・ベツァアナニム。イスラエルのいわゆる十二部族の中でも北部に置かれたナフタリ族の散らばった地域の、南端に位置する。

 ヘベルは、妻の腰を抱き、言った。

「おまえは、いつも可愛い。二日だろうが、三日だろうが、おまえを愛しているからには、いくらでも続けて、ここへ来る」

「まあ。お戯れを」ヤエルは口元を緩ませて笑った。「どうせわたしの名の意味は『野生のヤギ』。警戒心が強く、手なずけようとしても、言うことをきかない暴れヤギ。そう 思っておいででしょう?」

「ばかな。ヒツジのように、何も考えずぞろぞろ動くような女は、おれの好みじゃない。男をはねつけるような気の荒さでももっていなけりゃ、おれの妻はつとまらないよ」

 ヘベルは、ヤエルに接吻した。それから不自由な右足を庇いながら、ヘベルはそばの台のいすに腰掛けた。神妙な顔をしている。

「実は、ひとつ雲行きが怪しいことを知らせに来た。どうも、イスラエルの様子がおかしいんだ」

「イスラエル?」

 ヤエルの声色も変わった。

「結論からいうと、最悪の場合、反乱を起こしそうな雰囲気があるんだ」

「まあ」

「同情しないわけじゃない。この二十年というもの、ヤビンさまに抑えられて続けているとあっては、いつか爆発しないともかぎらない」

「わたし、あの王は嫌いです」ヤエルは毅然として言った。「ヘビのような眼をして、獲物をにらみつけるものの、いざとなると臆病風に吹かれる、だらしない男ではありませんか」

「もうそのことは言うな」

 カナンの王ヤビンは、地域でも大きな力をもつ王の一人だった。そこから一日の距離にあるハツォルの町に住んでおり、近隣のイスラエル人を従えて、カナン北部の地域を完全に制圧していた。数年前、まだヤエルがヘベルと結婚して間もないとき、ハツォルの町でヤエルは王を見た。いや、王がヤエルを見た。ヘベルは鉄を打つ鍛冶職人であり、王に鉄の剣や戦車の部品を提供する役割を果たしていたが、王はヤエルを一目見て、その美貌に心が囚われてしまった。ハツォルの郊外に天幕を張っていたとき、王はこっそりとヤエルの天幕を訪ねた。並の女なら、王の誘惑に乗ってしまったかもしれない。ヤエルは気丈にも、王を天幕に迎え入れず追い返してしまった。へそを曲げた王は、ヘベルに対してハツォルの町に近づくなと命じ、宮殿にこもってしまった。ヘベルは複雑な思いで王の町を後にし、このエロン・ベツァアナニムまで遠のいた。

「まったく、あのときのヤビンときたら」

「もう言うなというのに」と夫はヤエルを制した。「おまえのしたことは、たぶん間違っていなかった。だがそのために、おれは仕事を失くした。たしかに、もともとこの仕事ができたのは、神さまの恵みとでも言わなければならないだろう。たまたま南部まで行幸されていたヤビンさまが、おれの造った青銅の剣に目をかけてくださった。それでおれに鍛冶の仕事を与えてくれた。鉄を造らないかと誘われて、おれは喜んで鉄の剣をヤビンさまのために造るようになった。あの一件までは、いくらでも報酬が期待できたが……」

「でも、実は今ではちゃんとここへも、王から依頼は来ているわけでしょう? あなたの腕はずいぶん見込まれていたのですから」

 ヤエルは、なんでも知っているという顔で夫を見た。夫は黙った。

「ともかく、イスラエル民族には、気をつけなければならない。それが言いたかったことだ。たとえば、もしもここへイスラエルの使いが現れて、剣を依頼してきたとしても、おれのことは言ってはならない。ヤビンさまに関係していると聞いただけで、やつらは怒り狂って、何をしでかすか分からない」

「分かりました。気をつけておきます」

「とにかく、カナンの王のおかげで、おれたちは生活ができている。それを忘れないことだ」

 ヘベルは、妻の天幕の中を見渡した。

「そう言えば、バアルやアシュトレトの像が見当たらないようだが、どうした」

 カナンの住民ならたいてい天幕の中に祀ってある神像のことを、ヘベルは気にした。

「あら。もうだいぶん前から、ここにはありませんのよ。気づきませんでした?」

「気づかなかった。なぜだ」

「なぜでも、よいこと。べつにわたしは、バアルには興味がないのですから」

「しかし、そうしたものを不敬に扱うと、祟りがあるかもしれん。何か悪いことがあったときに、困るぞ……」

「恐れるとすれば、イスラエルのほうを恐れたほうがよいのではありませんか。今あなたがおっしゃったように」

「まあ、そうだ」とヘベルはうなずいて、最後に付け加えた。「しかし、たとえ戦争に なっても、イスラエルはカナン軍と異なり、鉄器をもたない。遅れた民族だ。勝負は初めから見えている。ただ逆に、何か嗅ぎ付けられておれたちのところへ来たならば、それは鉄を手に入れるためというわけだから、用心しなければならない」

「せいぜい、気をつけておきますわ」

「そういうのも、おれはまた、ヤビンさまのところへ呼ばれているからだ。今日、その知らせが届いた。おまえ一人をここに残していくのが心配でな」

「まあ、お優しいこと」とヤエルは夫に言ったが、その声はけっして弱々しいものではなかった。「大丈夫ですのよ。どうせわたしは荒いヤギですから。わたしほど警戒心が強い女もいないことは、あなたがご存じのはず」

「そうだったな」

 ヘベルは、よろよろと立ち上がり、若いヤエルの前に近づくと、力強く抱き締めた。まるで、自分の不安を拭い去ろうとでもするように。(つづく)

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