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クリスマスイブ礼拝メッセージ・静かな聖夜 (マタイ1:18-25)

◆有言実行

昔、『007/危機一発』という映画がありました。これが大ヒットしたことにより、「危機一発」と言葉を間違えて覚えることが多くなったと言われています。もちろん正しい言葉は「危機一髪」です。ジェームズ・ボンドの拳銃になぞらえて「一発」という、気の利いた表現を創造したところ、それが有名になり、本当のような顔をすることになってしまった、ということなのでしょう。
 
「有言実行」という言葉が、人口に膾炙しています。私は聞く度に、引っかかりをもちます。「不言実行」をもじったものであることが明らかだからです。「有言実行」という言葉は、私の中では「危機一発」に相当する「間違い」なのですが、これがいまや国語辞典にも掲載されているとのこと。市民権を得たということなのでしょうか。国語を教えることがある以上、私には抵抗があるのですが。
 
いつから「有言実行」が使われるようになったのか、よく分かりません。この半世紀くらいの中で登場した、という声が多いのですが、言葉を洒落て使う人は昔からいたようで、1924年の大阪毎日新聞の記事の中にある、という調べもあるようで、やはり言葉遊びからきている点では、人はいくらでも造り出すものなのだ、と思います。
 
しかしこれが、国語教育の現場では苦々しいものとなります。国語の問題としては、「不言実行」は使えますが、やはり「有言実行」は使えません。「□言実行」なら、「不」が正解で、「有」は不正解とするしかありません。子どもたちの生活環境からすると、普通に耳に入る言葉ですから、辞書にもあるよ、と反論が出てくるのは当然です。けれども、正解にはいまではできないでしょう。
 
言葉は、人々が多く使い、コミュニケーションに用いられるのであれば認めるべきだ、という考え方があります。そういう方針で、積極的に新語を載せてゆく方針の国語辞典もありますから、辞書が採用したとなると、今度は辞書にあるから正しい言葉だ、と子どもたちは主張することができるようになるわけです。「有言実行」しか聞いたことがない、という子どもがいても、おかしくはありません。また、「サザンカ」の名が、実は誤記から始まったのではないか、という説もあるように、言葉の変化には、確かに「正しい」云々の議論は似合わないのかもしれません。
 
言葉の「正しさ」とは何か、考えさせられます。言葉の意味としては、そうでしょう。しかし、「言った約束を守る」というような意味での「正しい言葉」というものもあると思います。実行できない言葉は偽りです。つまり、正しくありません。やり通した言葉は、真実で「正しい」と呼ぶことができるでしょう。そう、このとき「正しい」とは、言語だけの意味ではなくて、道徳的に正しいという意味合いが含まれていると考えられます。
 

◆ヨセフ

19:夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。
 
ここに「ヨセフは正しい人であった」という記述があります。いまの例では、「有言実行」のようなものなのでしょうか。
 
マタイ1章には、イエスが誕生する経緯が記されています。イエスが、肉をとって生まれたということを祝う私たちにとっては、恰好の舞台です。その日を待ってひと月近く待っていた私たちにとって、待望のゴールです。ついにイエスの誕生を祝うことができます。今日、救い主が生まれた、ということです。
 
このアドベント、いわゆるクリスマス物語や、このときによく開かれる有名な箇所を、故意に外して、開かずに今日まで来ました。私もよほど天の邪鬼なようです。せめてイブ礼拝くらい、有名な箇所を開くこととしましょう。そして、共に、神からの恵みを受けることと致しましょう。
 
この「正しい人」であるヨセフは、もちろんイエスの父親です。ただ、イエスは聖霊によりマリアに宿ったという設定になっていますので、現代人の感覚からすれば、「実の父親」ではないことになります。
 
この人物、不思議な人です。謎です。この誕生の場面と、ルカ伝によるイエスの12歳のときのエピソードのほかには、聖書にもう全く登場しなくなります。福音書ばかりでなく、手紙などにおいても、誰もイエスの父ヨセフのことには関心をもちません。
 
カトリック教会では聖人のひとりに数えられますが、いろいろ議論はあったようです。しかし、ヨセフとは誰か、の謎解きをするよりは、この場面にヨセフが描かれたことで、神は私たちに何を告げようとしているのか、耳を澄ましてみたいと思います。
 
ヨセフは、マリアと婚約をしていました。当時ユダヤの婚約というのは、祝言を挙げておらず夫婦系活を営んでいないだけで、実質もう夫婦という立場として認められる状態でいることなのだそうです。しかし、同居する前に、マリアの妊娠が発覚します。そして先の箇所、ヨセフは「正しい人」だったので、マリアを訴えたり、死刑にされたりするようなことから護りました。こういう場合の正式な規定は知りませんが、マリアの妊娠は、明らかな不貞行為です。ヨセフはこの件については、法的には全く「正しい」のです。しかし、ヨセフの正義は、法律の上での正義に走りませんでした。法の処罰をマリアが受けないように、内密にこの結婚をなかったことにしよう、と努めたらしいのです。これが、ヨセフの「正しさ」でした。
 
しかしヨセフは悩んでいたに違いありません。ショックだったはずです。自分を責めたかもしれません。自分を情けなく思ったかもしれません。マリアを何らかの形で恨んだかもしれません。悶々としていたのかどうか、それは知る由もありませんが、でもやはり苦悩していたと想像します。そこへ、夢の中に天使が現れました。天使は、マリアを妻とせよ、と告げました。そして、マリアの妊娠は、聖霊によるのだ、と説明します。だから安心せよ、と。
 
しかも、産まれるのは男の子。ヨセフよ、その子の名は「イエス」とあなたが名づけよ。「イエス」というのは、「民を救う」という意味を思わせる名であり、事実この子はそうした子どもになるのだ。筆者マタイは、これに解説を加えます。この出来事は、旧約聖書のイザヤ書に根拠がある、というのです。それはともかく、この夢を見て、ヨセフは目覚めます。ヨセフは、「主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎えた」のでした。しかも、マリアが赤児を出産するまで、ヨセフは夫としては禁欲を通したというのです。見上げたものです。
 

◆不言実行

さて、聖書にまた目を通された方、お気づきでしょうか。この場面はヨセフが活躍するところですが、注意深く見ていくと、気づきます。ヨセフは、一言も声を発していないのです。
 
ルカ伝では、この夫婦においては、主役は間違いなくマリアです。そして、マリアは天使ガブリエルと対話をしたり、エリサベツのところで賛歌を歌ったりしています。賑やかです。けれども、マタイ伝で主役を演ずるヨセフは、全く何も喋りません。言葉を発するという点では、全く沈黙しています。
 
ヨセフは、天使のお告げを夢で知ることのほかは、ひたすら行動します。何の文句もたれずに、嘆きもせずに、独り言さえ呟かずに、ただただ行動するばかりです。これは、イエスが産まれた後のエピソードにおいてもそうです。父ヨセフは、ついに一言も口を利かないままに登場して、退場するのです。
 
「男は黙ってサッポロビール」という渋いコマーシャルがあったことを、ご存じの年配の方もいらっしゃるだろうと思います。世界のミフネと呼ばれた、三船敏郎の印象は抜群で、大成功しました。男性本位などという厳しい指摘もあるかもしれませんが、どうやら元々女性に人気のあるこのビールを、男性の方にも向けてみたいという目論見であったという話もあるそうです。
 
ビール会社に就職面接に来た男子学生が、面接会場で一言も答えない。ではもう出て行きなさい、と担当官が言うと、「男は黙ってサッポロビール」と学生が呟き、採用された――そんな都市伝説が出回ったこともありました。CMはインパクトがあったのですね。
 
冗談はさておき、ヨセフは言葉を発することなく、ひたすら誠実に行動します。これはまさに「不言実行」ということでしょう。聖書で預言者はひたすら語り、喋ります。奇蹟を起こすエリヤもエリシャも、けっこう喋ります。しかし、このヨセフは何も喋りません。それでいて、やることはきっちりこなします。なかなか誰もができないような忍耐と共に、マリアを護り通します。ヨセフの護りがなかったら、マリアも、そしてイエスも、生きることができなかったのです。「不言実行」、カッコいいじゃありませんか。
 

◆静かな聖夜

イエスのこの誕生は、ルカ伝によると、夜のことでした。尤も、夜だった、という記述はどこにもありません。羊飼いたちが夜に天使たちからのお告げを聞いて出かけた、とは書かれていますが、夜に訪問したかどうかは、解釈の問題でしょう。情況からして、夜ではないか、と捉えているのが実情ですが、私たちも殊更にかき回すことはせずに、素朴に理解していた、夜の出来事だ、として捉えておきましょう。
 
私たちは、この夜を特別に祝います。「イブ礼拝」などと呼びます。「イブ」は、「イブニング」だ、と言う人がいますが、正しくはそうではありません。それの「古語(おそらくeven、さらに旧く辿ることも可)」からきています。
 
それよりも、いま世間で横行している奇妙な言葉の使い方には、全く閉口してしまいます。クリスマスが25日、イブが24日、23日は「イブイブ」などとふざけているのです。冗談じゃない。ユダヤの一日が日没から始まりますから、その基準からすれば、24日の夜にイエスが産まれたという設定だと、そこから25日の日没までが、「クリスマス」当日、ということになります。24日のイブ礼拝は、前日の礼拝ではなく、クリスマス当日の夜の礼拝、というようにでも言えばよいでしょうか。その事情を知らないくらいならばまだよいのですが、せめて「イブイブ」だけは、止めてもらえないでしょうか。
 
それにも増してなんとかしてほしいのが、この「クリスマス・イブ」を、どんちゃん騒ぎのネタにしたり、恋愛の舞台に飾ったりすることです。これはただの誤解や無知ということではなく、昔の言葉で言えば「冒涜」以外の何ものでもありません。目くじらを立てるな、と仰るかもしれません。そして私自身もそのような捉え方をしていたことがあった、ということを反省します。それでもやはり、なんとか止めて戴きたいものです。
 
イブ礼拝の開かれる24日の夜、これを「聖夜」と呼ぶこともあります。これはよい呼び名かもしれません。「聖なる夜」、それでいきましょう。静かに迎えたいものです。パーティは要りません。教会でも、パーティ形式の集いをすることがありますが、そんなものはなくてよいのです。
 
ケーキの名前に「静かな聖夜」という名を付けているものがあることを、この度検索していて知りました。商売のためにやっているのはけしからんと、イエスが来て、台を引っくり返しはしないか、とヒヤヒヤします。
 

◆7時のニュース

「聖夜」というと、賛美歌「きよしこの夜」が有名です。ムードもぴったりです。ドイツ語が元ですが、英語にしても最初は全く同じ内容ですから、分かりやすく英語で引用しましょう。「Silent night, Holy night」で始まる、あの歌です。教会のオルガンがネズミに囓られ、ギターで演奏して発表した曲だ、という伝説がありますが、どこからどういう脚色が入ったのか、よく分かりません。
 
これを聞くとき、私は時折ですが、サイモンとガーファンクルのハーモニーが頭に響いてきます。私にはむしろ、この歌の原体験としては、そちらなのですね。歌が始まってしばらくすると、背景に、明らかにニュースを読む声が、抑えめに始まり、どんどん喋っていきます。そして歌とともに、ニュースも終わります。そうです、この曲の題名は、邦題で(英語でも同様なのですが)「7時のニュース/きよしこの夜」というのです。
 
ニュースは淡々と語ります。人種差別政策でマーティン・ルーサー・キングが行進計画を示したことについて行政がやめろと言っているとか、麻薬や殺人犯の話題、それからベトナム戦争反戦デモに対して、ニクソン大統領が圧力をかけていることを奉じて、7時のニュースでした、と結びます。
 
「静かな夜、聖なる夜」の美しい歌の背後に、このような人間の醜悪な話題、あるいはある種の正義の主張に対する政権側による抑えつけが語られていました。差別政策と戦争推進の報道は、特に聞いていて心苦しい内容だと感じます。
 
皆さまもお感じになっただろうと思います。これは、いま私たちにも同じように7時のニュースで流れているものではありませんか。戦況が、連日報道されます。逃げてきた人を助けようとする団体もあり、頭が下がります。しかしこうも同様のニュースが続くと、私たちの耳は慣れてしまい、「ああまたか」で済ませてしまうようになってきそうです。「聞きたくない」から、「聞かないふり」になるかもしれず、ついには「全く聞いていない」にもなりかねません。
 
それより問題は、クリスマス・イブです。教会です。賛美歌を歌いましょう。さあ、「きよしこの夜」です。イエスさまが生まれたことを、お祝いしましょう。――そのように歌いながら、このときにも流れている戦争のニュースを、意識から、祈りから、かき消してしまうのです。戦争のニュースを背景にして「きよしこの夜」を歌っている様子が意味するのは、サイモンとガーファンクルの映し出したこのひとつの現実を、私たちは1966年と同様につくっている、ということであると思うのです。
 

◆神の言葉

「静かな聖夜」に戻りましょう。なにも「きよしこの夜」を歌うのが悪いわけではもちろんありません。私たちは、神を賛美します。痛みを覚えつつ、賛美します。神がいるのなら、どうしてこの戦争を起こすのか、許すのか、というような問いを投げかける人がいます。問えばよいと思います。でも、中途半端ではよくありません。外野席から、つまり世界の外から、どこか安全なところから、世界を批評するような眼差しで、自分の正しさを誇るために、神を出しにするようなことをすることは、よくありません。むしろ、論破でもする野心くらい持ち合わせた上で、神と差し向かいで、問うたらよいと思います。
 
私たちは、歌います。歌うことが苦しくなるほどに、歌います。歌いましょう。クリスマスの歌を、歌いましょう。しかし、そのことで、ごまかさないようにしましょう。私たちの心の痛みは何ですか。何が気になっていますか。戦争のことですか。それもあるでしょう。仲間はずれにされているあの人のことですか。日々の生活に困窮しているあの人のことですか。外国籍の故に不当な扱いを受けているあの人のことですか。障害者という名前を多数の側につけられ、多数の者の都合の好いようにつくられた社会で負担ばかり強いられているあの人のことですか。崩壊しそうな家庭をなんとかしたいと思いつつも止められないと嘆いている、あの人のことですか。精一杯権利を守ろうとしているのに、ネットで人格を否定するような罵声を浴び続けている、あの人のことですか。病気を抱えて、それでも笑顔で振舞っているが、実は不安と絶望の中にいるというあの人のことですか。親しいが故にケンカしているあの人のことですか。苦悩を抱えて、自殺するなどと先日言っていたあの人のことですか。自分を理解してくれていない親のことですか。自分を苦しめるあの人のことですか。
 
でも、何もできないでしょう。何をすればよいかも分からないし、何かをしてしまえば、それまでの関係が崩れたり、余計な労苦を背負い込むことになったりするでしょう。勇気がないからできない、と自分を責めることもできるでしょう。しかし、本当はやはり自分には何もできない、という結論しか待っていないと分かっているのでしょう。
 
私たちは、助けたいとか、この難を逃れたいとか、口に出すことから逃げています。言っても無駄だという結論によって、口に出す必要はない、と自分をまた避難させるのです。そうして自分を、世界の外の安全なところに、また置いておこうとするのです。
 
いえ、神を賛美するということは、そのような生き方が、もうできないということです。だから、口に出すのです。考えなければならないこと、気づいていることを、ちゃんと口に出すのです。――そう、祈るのです。口に出して祈るのです。ただ、私たちは実行できません。神ではないので、できないのです。神にできることが、人間にはできないのです。
 
しかし、有言であるだけ、神に祈り賛美する者は有能です。見込みがあります。神の前に告白するなら、「有言不実行」です。それが人間の精一杯の現実です。ただそうなると、あの「有言実行」のように、口に出して実行するほうが、むしろ優れているようにさえ見えます。まして、「不言実行」ならば、どんなにカッコいいことでしょう。ヨセフはずいぶんカッコいいではありませんか。
 
でも、私は「有言実行」でよいと思いました。思えば、神はまさに「有言実行」であるからです。聖書は神の言葉であり、神が人間に約束したことです。そして神の告げた言葉は、ただの空疎な言葉ではありません。言葉はそのまま、現実となります。神の言葉は、存在そのものです。実現する言葉です。
 
新約聖書を信じる者は、知っています。旧約の時代の神の言葉は、人間の救いの約束となりました。神の言葉を告げる者たちを通して語られた預言などの言葉に隠された秘密を、紀元元年のその頃に、しるしとして人々に分かるように示しました。救い主を世に送りました。殺されるために、送りました。しかしそのことで人々を救うために、送りました。
 
神は、口にしてからちょっと考えて、さあどうしようか、などと悩む方ではありません。神の言葉は、最初に告げたときから、すでに実現するのです。人間は、時間の中でしかそれを体験できませんから、順序立てて、未来形式で実現することを見るしかないのですが、神の言葉は、神の時間においては、言葉となったその瞬間に、すでに存在しているのです。
 
ヘブライ語では、「言葉」という語は、同時に「出来事」の意味をもっている。これは有名な説明です。正に、そのことをいま私たちは感じています。
 

◆目覚め

ヨセフの中に「不言実行」を感じましたが、ヨセフが完全な人間であるわけではありません。神の場合は、自ら言葉を発したことで「有言」と理解しましたが、ヨセフの「不言」は、ただ口にしないというのではなく、自分から言葉を発しない、というように捉えては如何でしょうか。
 
ヨセフは、神の言葉に従ったのです。神から天使を通して告げられた神の言葉に、ヨセフは黙々と応じたのです。それは、神の言葉がヨセフを通して働き、実現していった、ということを現しています。私たちがヨセフに学ぶとすれば、神の言葉を受けて、それに従うということであるべきでしょう。
 
もう少し具体的に学ぶところがあるでしょうか。注意深く今日の聖書箇所をもう一度見て見ます。すると、霊の目が留まるところがありました。
 
24:ヨセフは目覚めて起きると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎えた。
 
ヨセフの実際の行動は、ここに現れました。ヨセフは目覚めたのです。目覚めて起きたのです。これは訳し方の問題ですが、どうやら「眠りから目覚めた」というようなことのようです。私たちは、何もできないとき、実は眠っていると言えます。そこから「目覚めた」からこそ、行動するわけです。
 
イエスがよく「目を覚ましていなさい」と弟子たちに言いました。マルコがそう綴り、マタイも受け継ぎました。パウロも言いました。それには、強い意味がありました。私たちは、福音書を、再び読み直す楽しみができました。ヨセフの行動の中に、イエスの「目を覚ましていなさい」の言葉の必要を覚えたからです。
 
今宵、私たちは、目覚めましょう。起きましょう。立ち上がりましょう。行動しましょう。神が命じたことを聞いて、歩き始めましょう。有言の神の言葉を受けて、私たちは不言で実行しましょう。なあに、私たちがきばって実行する必要などないのです。私たちは、神の言葉に従うことが求められているだけです。それは、手足を動かすことに限りません。今日から霊のすべてをこめて祈ることでもよいのです。信仰を告白することでもよいのです。
 
生ぬるかったこれまでの自分の信仰姿勢を悔い改め、腰を据えて信じ始めたなら、それが目覚めたことになります。静かな夜は、あなたの目覚めを待っています。

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