主に向かって歌おう
詩編98:1-9
なんと清々しい賛歌であることでしょう。新しい歌を歌え、と人々に向かって、あるいは自分へ向けて鼓舞するように叫びます。詩は、そこから始まります。先ず主がどんなことをして下さったか、を称えます。救いでした。正義でした。イスラエルはこの主に、存分に慈しみとまことを尽くして戴いてきたのです。
この救いは、遠い島々、異国の人々にも証しされているのだと言います。こうして救いのスケールは、イスラエルを超えて、全地へと及びます。全地がこの主を称え喜ぶのです。そもそもこの神が世界のすべてを創造したということを、これまですっかり忘れてしまっていたかのような口ぶりには見えないでしょうか。
聖書研究者も、この旧約聖書について、申命記的な神殿の祭司に関わるような路線と、創造神話のような方面とを、区別して捉える必要がある、などと言います。この賛美の歌は、様々な楽器を伴って、ひと自身が声を上げるところへと高められていきます。主は王、その前で喜びの歌を歌うのです。この世界に生きる凡ゆる生物がこの賛歌に加わります。
そればかりではありません。山も川も歌うといいます。さすがにこれは擬人法でないとしたら理解が難しいと現代人には言われそうです。が、ここへきて被造物のすべてが主の前に喜んでいるような図式が現れた、とみることができそうです。この主は、地を裁くために来るでしょう。主の正義が、この世界にもたらされるのです。
世界のすべての民族が、主の正しさの前に裁かれることになる、そう詩人は結びます。まことに、壮大な世界観の中で、主と世界との関係を奏でる歌が、こうしてここに響きます。イスラエルの優遇生というものは残っているにしても、一人ひとりと神との結びつきというものは、ここには殊更に見当たりません。が、それはそれでよいと思います。
ただ、私たちはいずれ一人ひとりが、主の前に立つことになります。そのとき、この詩編の歌は、どのように歌うべきでしょうか。私を裁くために主が来られるという事実を前にして、私の心は震えます。恐れの震えではありません。イエスの救いの大きさが改めて迫り、震えてくるのです。そのときも、新しい歌を主に向かって歌っていたいものです。
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