行くべきところ
その朝、子どもが授かることについて悩んでいた人から、よい知らせが届いた。やがて礼拝が始まった。創世記の16章であった。どうしてこの朝なんだ、とときめいた。
アブラムの妻サライには、子どもが生まれなかった。(16:1)
そこで、サライが夫に提案する。「主は私に子どもを授けてくださいません」とまず口を開く。すでに主は、アブラムに対して、あなたから生まれる者が現れる約束をしていた。アブラムは主を信じた。サライもこれを聞いていたのだろう。だからサライは、「私には子どもを授けてくれないようだ」という意味で言ったのかもしれない。
それなら、アブラムの子は、サライの腹を通じては難しいのだろう。だとすれば、自分の女奴隷ハガルに産ませるというのはどうだろう。サライは名案だと思ったに違いない。奴隷は主人の所有物である。ハガルの腹を通して産まれたのならば、主人であるサライの所有物となるだろう。「そうすれば私は彼女によって子どもを持つことができるかもしれません。」と言って、ハガルを夫に差し出した。
これを説教者は、「今なら代理出産ということです」と説明した。なんと明解な説明であろう。外国では不妊治療のひとつとして行う場合がある。無償でなければならない、とするところもあるらしい。日本には今のところ法規定がないらしい。失礼な言い方をするが、代理出産者は、その産まれた子に対して人格的関係をもつことはできないことになる。いわば、代理母を一種の「道具」としてしまうのだ。これが古代であれば、奴隷に産ませる、ということに相当するという説明は、私たちにも実感をもって理解させるのに相応しかったであろう。
ここでサライは、誰か他の女ではなく、自分の所有する女奴隷をあてがうことにしている。ここで説教者は、「サライ自身が選んで与えたのであって、夫に選ばせはしなかった」ことを強調した。夫が好みの女を選んだとすれば、別の問題が入ってくるであろうからである。このユニークな説明も、この夫婦の物語に臨場感を与えた。完全に妻サライがイニシアチブをとっており、すべての自体はサライの思いのままに引っ張っていこうという魂胆なのである。
このように、ちょっとした説明が、聖書の情況を、ぐっと私たちに近づける。あるいは、私たちが聖書に近づく、と言うこともできようか。聖書の物語を、自分とは遠いものとして、いわば「対象」としてしか捉えられない人がいる。だが、キリスト者の聖書の読み方は、須く、その場に自分が登場している、少なくとも関わりをもつ、という構造をもつものである。説教者もまた、自身がこの夫婦のどちらかであると見なしていたか、この2人のやりとりに強い関わりをもってその場にいたか、そういうところに立っていたはずである。だから、その情況を会衆に案内できるのだ。
京都にいたから、私なりに京都での生活というものを説明することができる。京都に行ったことがない人は、いくらガイドブックを手に読み上げたところで、何の説得力もないであろう。こうした的確な喩えが立て続けに出てくる説教は、信頼が置ける。そうして、聖書の言葉が、肌に感じられるような気がするものである。
その後、このサライの計算通りには事が進まなくなる。ハガルが、サライを見下したというのだ。具体的には分からないが、聖書の時代、女にとり子を産むということが如何に大きなことであるかは、あちこちで見かける。サムエルの出生のときや、エリサベツの例は、すぐに思い出せるのではないか。この女の矜持とでもいうような感情は、奴隷と主人という関係を超えていたようである。
サライはこのことをアブラムに訴える。「あなたのせいで私はひどい目に遭いました。……主が私とあなたとの間を裁かれますように」(16:5)という言葉は、一種の常套句であることを別にしても、なんとも聞いていて不愉快になるものである。「私は完全に正しい」という自負が満ちあふれている様子を伝えるからである。
最初の女であるエバもまた、蛇のせいや、創造した神のせいにするなど、ずいぶんな言い訳をいきなり発したが、サライもなかなかである。アブラムのせいでこうなった、というのはあんまりではないか。ただ、注意を促しておく。くれぐれも、「だから女は……」というところに持っていってはならない。これは万人のための戒めであるとすべきである。責任転嫁は、すべての人間の中に巣くっている性質なのである。
説教者は、こうした深刻な扱い方をすることを避けた。聖書のユーモアのように受け取る人々の例を挙げて、ただ笑って聞けばよい、とも言った。たぶん、笑えるというのは、その文化が十分に馴染んだところでのみできることであろう。学校の授業でも、成績上位のクラスでは、よく笑いが出る。教師の冗談や、洒落た説明の意味を解するからである。学習内容を活かしたギャグは、その学習を理解できない生徒には、決して笑えない。
聖書では、あまり笑いというものが描かれない。果たしてイエスは笑ったか、という問題が真面目に議論されるほどである。しかし、イエスはたいへんユーモアがあった、と結論する研究者も少なくない。イエスの言葉は真実であると受け止めたにしても、そこに「笑い」の要素を見出すことは、やはり読むその人次第なのだろう。私は時折、いたずらっぽい目をしてこの言葉をイエスが言っていたのではないか、と感じる場面がある。その理解は間違っているのかもしれないが、私がその場にいたら、きっとそれを見ていただろう、とやはり想像してしまうことは止められないのだ。
サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライの前から逃げて行った。(16:6)
このときアブラムはまた、「好きなようにしろ」と柳に風である。いや、それはむしろ「無責任」と呼ぶべきだろうと私は思う。確かに、サライが策したことが発端であり、サライの思惑通りにならなかったという事態である。だが、ここにはアブラムの子の問題が潜んでいる。アブラムと神との関係さえ覆しかねない出来事である。
責任転嫁の妻に、責任逃れの夫。この2人のやりとりには、神は介入してこない。ところが、逃げたハガルには、すぐさま神が呼びかける。主の使いが登場するのだが、それは主が呼びかけたに等しい。
「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」(16:8)
まず、名を呼んでいる。名を呼ぶことの大切さは、聖書を理解する基礎である。しかも「サライの女奴隷」と称している。これが次の、「女主人のもとに戻り、そのもとでへりくだって仕えなさい。」(16:9)につながっている。そして、どこから来て、どこへ行こうとするのか。もちろんハガルは正直に事情を返すのであるが、この問いは実に重い。「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という題の絵がある。ゴーギャンの最も有名な絵だと言ってもよい。また、哲学ないし宗教における、根本的な問いであるとしてもよいであろう。
従って、この問いもまた、万人に対する神からの問いかけであると捉えたいのであるが、如何だろうか。この問いかけに応じない耳もいる。だが、耳のある者は聞くことができる。神の声を聞くというのは、ひとつにはこのようなことだろう。私たちは、これまで自分がどういうところからどうやっていまいるところにまで来たのか、意識しなければならない。神を知らず、自分中心に生きてきたことを悔いなければならない。しかしまた、これから行くべきところはどこなのか、腰を据えて考えなければならない。そのために必要なことは何なのか、思案しなければならない。
説教者は、ここから、「戻る」あるいは「帰る」ということへの励ましを語った。帰るべきところに戻る、そこに主がいてくださる。主があなたを見ている。あなたの言うことを聞いている。あなたを愛し抜いた方が、そこにいる。力強い、慰めのメッセージとなっていった。いつしか物語は、すでにアブラムとサライを背景に退かせて、ハガルへの神の祝福へと展開していたのである。
教会へ来れば問題が解決するというものではない。もしそうなら、人間は自分の欲望のために教会に押し寄せたことだろう。教会組織に加われば幸せになれるというシステムではないし、教会堂に毎週来ることが救いの条件だなどと思うのは、勘違いも甚だしい。だが、別の意味での「教会」に属することは、きっと必要であると思う。「教会」、それは主イエス・キリストと出会い、主との関係を自覚し、主とつながりをもつ、そうした人々どうしがまた、神からの恵みのうちにつながっている姿を指す言葉である。この「教会」に属するならば、確かに人生の最大の問題は、解決するのである。否、自分には解決していないような見えたとしても、神の目から見てそれは、すでに解決されているのである。その「教会」へ、行こうではないか。