偶像崇拝 (出エジプト20:4-6, 申命記5:8-10)【十戒②】
◆アイドル
2003年、日本と世界の音楽界は、ひとつの歌が社会現象にもなっていました。「アイドル」は、そのまま日本語で、世界で歌われていました。
曲のセンスはあるが売れないバンドで病気にまで追い込まれたAyaseと、歌は巧いがぱっとしないシンガーソングライターだった幾多りらとが出会ったことで、yoasobiという、類い希なユニットが2019年に生まれたのです。
アニメ「推しの子」は、最初に3話を一度にテレビ放映するという、異例のスタートとなりました。その3話目で、早くも最初のクライマックスを迎えます。そして流れたのが「アイドル」でした。
私は度肝を抜かれました。これは何だ、と。どう形容してよいか分かりません。yoasobi初のラップ調。タイパをさせない、イントロも間奏もない構成。音程の移動や転調を難なく歌うikuraの歌唱力。ヨナ抜き音階の明るさと、絶妙に崩したパーカッションのリズム。詩の内容に、あけすけさと、嫌味のない芸能界の露呈。「上を向いて歩こう」もまたヨナ抜き音階だったようですが、「アイドル」もまた、全米で爆発的に売れることとなりました。
日本語で「アイドル」という語がメジャーになったのは、たぶん半世紀前のことです。アメリカでその前からidolという呼称はあったそうですが、日本人が「アイドル」という言葉を使うときには、原語の意味には全く関与しない形で、アイドル文化が大いに盛り上がっていったように思われます。
元々「偶像」を意味する語。ラテン語ではidola(複数形)といいました。高校の倫理の授業で学ぶ、イギリス経験論のフランシス・ベーコンが、有名な「四つのイドラ」を提示しています。それが、人間の知識について誤解や先入観を与えることを指摘しました。
誰もが信じ崇めてる
まさに最強で無敵のアイドル
「アイドル」の歌詞にも、その偶像性は表現されていますが、曲の最初と最後のコーラスが、その恐ろしさを歌っています。saviorとは「救い主」という意味です。
Oh,my savior, you're my saving grace
Oh,my savior, my ture savior
My saving grace
◆偶像崇拝
偶像とは、神にかたどって造った像のことをいいます。そしてそれを、信仰の対象としてしまうことが、聖書がけしからんとする行為です。旧約聖書のこの十戒で、明らかにその禁止が掲げられているものですから、もちろんユダヤ教はこれを憎みます。旧約聖書を受け継ぎ、キリストの根拠としたキリスト教もまた、偶像を否定します。しかし、これを強力に徹底したのは、やはりイスラム教だと思われます。
イスラム教は、旧約聖書を第一とはしませんが、確かに旧約聖書を引き継いでいます。アブラハムの子イシュマエルの子孫から自分たちの民族が出た、としているからです。しかし、偶像を否定することにかけては最も強い態度を示し、モスクには幾何学模様しかデザインを許しません。
2001年には、バーミヤーン谷の大仏を、タリバンという、スンナ派の組織が、爆破し破壊しました。遺跡に対して、なんたることをしでかした、と西側は非難しましたし、多くの日本人もそう思ったことでしょう。
では、これを見たキリスト教徒は、どう思ったでしょう。士師記のギデオンは、偶像を勝手に破壊したことで、勇敢な信仰者であるかのように描かれています。タリバンが偶像を破壊したことは、ある意味で意に適うことです。けれども、現代では、美術品や遺跡について、そのような声明を発表するキリスト教会は、たぶんありません。そして、仏像の破壊に対して、けしからん、と声を漏らすのです。
しかし、キリスト教は、旧くからそうしたことを行っていました。ギリシア美術で有名なミロのヴィーナスやサモトラケのニケには、手足あるいは首がありません。古代遺跡だから仕方がない、というのではないのです。キリスト教徒が、偶像だとして破壊したのです。有名な像はまだ体があるだけましだと言われています。たいていの像は粉砕され、神殿も破壊されました。つまり、キリスト教は、タリバン以上のことを、歴史の中でしてきたことになります。
キリスト者は、そういう先人の信仰をいま受け継いでいること、先人がそのようなことをしてきたことを、忘れてしまっているかのようにすら見えます。気づいていない人は、気づかなければなりません。信仰を、どのように使うのか。よく考える必要があります。
そのキリスト教にしても、教会に像を置いていることがあります。プロテスタントは素朴な十字架をシンボルとしていますが、カトリックでは、磔刑のキリスト像やマリア像などが、教会の敷地や聖堂内にあるように思います。もちろん、それを拝んでいるわけではないことも、分かっています。しかし、ギリシア彫刻は破壊したのに、キリストの像やマリア像は、むしろその前で跪くのです。
よく、日本の宗教は偶像崇拝だ、とキリスト教側は批判します。しかし、神社の社には拝むような神を入れているのではないはずです。仏像でも、誰もそれが本当の仏様だなどとは考えていません。それを「偶像崇拝」だと非難する理由は、殆どないように思われます。
5:それにひれ伏し、それに仕えてはならない。私は主、あなたの神、妬む神である。私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、
6:私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。
これが出エジプト記20章の十戒、第2戒の言葉です。申命記5章も、第1戒に続いて特に出エジプト記のものと変わりはありません。
神ならぬものに「ひれ伏し、それに仕えてはならない」とは、なんとも悩ましい命令です。地上で私たちは、どれほど権威の前に跪き、ひれ伏さなければならないのでしょうか。どれほど拝むように頭を下げなければならないのでしょうか。
それから、「私は主、あなたの神、妬む神である」という表現も見えます。「あなたの神」であると共に「妬む神」と言われています。如何にも感情的な訳語ですが、人間の感情にそのまま重ねてよいのかどうか、分かりません。非常に熱をもつというニュアンスもある言葉だと思います。熱いことを、人間は感情の世界でしか理解することができません。感情の言葉でしか表現することができません。ただそれだけのことだとしておきましょう。
◆偶像というメタファー
教会に来ておきながら、偶像などを拝むはずがない。大抵のクリスチャンは、そう胸を張って言います。そうです。仏像を拝みはしないし、柏手を打つこともしません。私のように、仏式の葬儀でも焼香をしない人も多いでしょう。
クリスチャンの子も、親のそういうところを見て育っていますから、学校の社会科見学や修学旅行で、神社仏閣で果たしてどうするのか、注目されることがあります。対応は様々でしょう。親がバックについているぞ、という気持ちで、堂々と拝みませんという子もいれば、こっそり皆と行動を合わせておいて、親に対して良心がちくりと痛む、という子もいると思います。もちろん、何も気にしなくても、だからどうだ、と言うつもりはないのですが。
けれども、私たち大人のクリスチャンでも、実のところ「ほかの神々」を拝んでいることがある、ということに、先週私たちは気づかされました。自分を神とする罠が仕掛けられているのです。それで今週は、少しばかり警戒している方が多いのではないかと期待しています。
クリスチャンであっても、そして気をつけていても、私たちは、実はお気軽に偶像を拝みます。それどころか、偶像をつくりだすことさえします。最初に申した「アイドル」は正に偶像のことでしたが、この「推し」という考えが世に知れ渡った時代でも、やっぱり「アイドル」という語は使われているようです。
親にコントロールされていたということに、大人になって気づく人がいます。親の理不尽な育て方によって、トラウマを抱えたままに大人になった人のことが、「アダルト・チルドレン」だとして取り上げられ始めたのも、やはり半世紀ほど前のことでした。
親に反発するというもあるのでしょうが、親の言いなりになっていた子にとっては、親が偶像だったのかもしれません。親の絶対権威の下に、すべての判断を委ねてきたら、自分でなかなか物事を決定することができなくなるかもしれません。「指示待ち症候群」という言葉も、言われて久しいことです。
もちろん、親を神として拝む行為はしないでしょう。けれども、自分にとりそれが神同然の存在となっていたとしたら、やはり一種の神扱いをしていることになりそうです。そのことについては、本当の神が、妬むかもしれません。その子の心が、人間に奪われているからです。
パウロは、世の終わりが近いという意識でおりました。結婚すると、その相手に心が奪われてしまう危険がある、ということで、結婚をしないことを推奨していました。
案外気づきにくい偶像もあります。かなり広まっています。「健康」という偶像です。情報系の番組もそうですが、深夜に、どれほどの健康商品の通信販売がテレビ放送されていることか。新聞広告もそうです。「健康のためなら、死んでもいい」というジョークもありました。
人間の側から、それを第一のものとしてしまうと、偶像化しそうです。「神」と呼びはしないかもしれませんが、神のように思っています。ところが、神たるものは、私たち人間の上にいて、人間を統率するはたらきがありますから、何かしらの命令を下すことでしょう。自分の腹を神とすることについて、先週気づくようにと考えましたが、私たちは自分を神として、いろいろ支配したいのかもしれません。自分を偶像にするという罠については、よほど警戒しなければならないと思われます。
◆聖書という偶像
しかし、さすがに自分を偶像にする、というのは、意識的にそうするのは骨が折れます。自己愛的な障害がある場合を別として、そうそうお目にかかれません。それでも、クリスチャンが気をつけたいものがあります。いつの間にか偶像になり、しかも偶像になっていることに、気づかないものが身近にあります。
それは「聖書」です。聖書すら、偶像になり得るのです。聖書に書いてあるから、それは正しい。そんなふうに言うことを、私たちは「信仰」と呼ぶのですが、そこには罠があります。聖書にどう書いてあるのか、それは訳者や、原文の編集者に委ねられていることです。原語の意味については、研究者たちの研究次第です。近年なお、いくつかの言葉については、訳語が様変わりすることがあります。解釈が変わることもあります。新たな日本聖書協会の聖書では、従来の説教が全く通用しなくなるほどの、訳し方の大きな変更さえあるのです。
聖書について研究する人々は、貴いものです。いつも敬服しています。いくら素人が考えても気づかないようなことを、長時間の調査と思考によって、明らかにしてくれるのです。ギリシア語ではそういう意味なのか、と教えられることによって、一般のキリスト者の聖書理解も深まります。原語の意味そのものもさることながら、当地の文化環境について、多くの知識や文献の比較などを通して、愚かな私の思い込みを正し、奇妙な思い込みから解放してくれます。実にありがたいことです。
しかし、皮肉なことも起こります。聖書を冷徹に読みこなし、安易な信仰の思い込みについて注意を促す人がいますが、その人は、要するに聖書をただの信仰の教義の書だとは捉えません。文献として、正しい理解や解釈を提供する役割を果たすのですが、その人が今度は、聖書の文字や文法について、すっかり囚われてしまうようなことがあるのです。ギリシア語の文法ではこうだ、ああだ、と深く広い知識を掲げて、そう訳すような語が書かれているのではない、というように発表するのです。
学者というものは、他の人が気づかないこと、言わないことを、確かな証拠に基づいて、筋道立てて発表するのが仕事です。そのため、これまで多くの人が考えていた聖書の読み方は違う、と言いたくなる気持ちは、分からないではありません。しかし、しょせん人間の解釈です。そこには、自分の思い込みや信念を盛り込み、それに引き寄せて説明する場合もあるような気がします。
そこに書かれた聖書の文字だけを根拠とするからです。書かれた文字が、自分にとって偶像と化すのです。自分の信念やトラウマのようなものを含めて、それを一定の理解で説明しようと努めます。一種の翻訳語であるはずの新約聖書のギリシア語の文字に囚われ、さらに自分の考えや感情を根拠にするのですから、自分で像を刻んでいるような姿にもなぞらえることができるのではないか、と思うのです。
『説教学Ⅰ』という本の中で、ボーレンが、この点について指摘しているのを、この原稿を一度書いた後に、偶然見出しました。「現代ふうのファンダメンタリズムは、自分の釈義の方法論に誤謬のないことを、ひそかに確信している」というのです。つまり、聖書を自由主義的に、文献学的に探究しすぎたとき、その学者ご本人は、聖書原理主義を激しく批判しますが、当の学者自身が、一種の原理主義に囚われてしまっている、とボーレンは指摘していることになります。
◆パウロという偶像
さて、新約聖書の中に、「パウロ書簡」と呼ばれるものがあります。福音書と使徒の記録の後に、多くの「手紙」と称される文書が集められています。そこには、伝道者パウロの名が記されたものがたくさんあります。しかし、古代から、それを本当にパウロが書いたのかどうか、議論が多々ありました。
当時は、もちろん現代の著作権のようなものはありません。また、パウロの名をいわば騙って記したとしても、それは偽りだとは考えられていませんでした。むしろ、偉大なパウロ先生の名を用いて、よい作品を仕上げました、というように、敬服の証しとしてパウロが書いたような体裁にすることさえ、当然のことのように行われていたといいます。
パウロが書いた、とそこには書かれている。しかし、それは実はパウロが書いたのではない。そうした研究が、近年とくによく行われていますが、多くの聖書学者が、およそパウロ自身なのかそうでないのか、まとまった結論を下すようになりました。
すると、実はパウロではなく、パウロの弟子などが書いたのであろう、というものがいくつも出てきます。「偽パウロ書簡」などとよくない名前で呼ばれることもあるし、「パウロの名による書簡」などと呼んで、真正のパウロが書いたものとは区別するようになります。そしてそれは、一段低く見られるようになります。パウロの手によるものではないからです。それらは、後世書き足したもの、書き換えたもの、などとも見られます。
現代ならどうでしょうか。否、出版が行われるようになってからは、基本的に、新しく改訂されたもののほうが、信用されるように思われます。かつての不備を修正したものとして、修正版のほうが、優れていると見られるのが通常ではないでしょうか。それなのに、聖書については、どうして改訂版は一段落とされ、オリジナルとされるものの方が優れていると考えられるのでしょうか。
それはおそらく、イエスの生の言葉に「近い」と思われるからでしょう。早い時期の記録のほうが、信頼がおけるということなのでしょう。後に教会組織ができて、新たな指導者が、新たな政治的経済的情況の中でそれに対応するように考慮を含めた記事だと、イエス当時のものとはだいぶ異なってくる可能性があるわけです。それは、イエスからだんだん離れていったものであると思われるのです。
だから、オリジナルに接近したいのだ、と言うなら、それは一理あると思います。ただ、気になることがあるのです。それでは、最初のオリジナルこそが、神の言葉であって、神はその後の修正には一切関与しないというのでしょうか。そもそもすべては人の手が書いたものです。神に促されて書いたということになっているのならば、そしてそれぞれの文書が聖書だとして認めているのであるならば、どの修正が神の言葉であり、どの修正が人間の言葉なのか、という区別をしてよいのでしょうか。
新約聖書自体、発見された文献は、実に様々なバリエーションがあることが分かっています。それぞれが違うなら、どれか一つだけが神の言葉であって、ほかは違う、ということになると考えるべきだとは考えにくいものです。どうも、聖書が神の言葉である、というスタンスから離れていってしまったからこそ、写本に差をつけたり、真正のパウロかどうかを気にしたりしているのではないかと思えてなりません。どれも、神の言葉だと認め、信じたのであれば、著者は誰でもよいはずです。
それとも、パウロという人間を私たちは信仰しているのでしょうか。パウロを偶像にしているような考え方をしてはいないでしょうか。コリント教会に対してパウロが書いた書簡では、まず呆れ驚いています。パウロにつく、アポロにつく、ケファにつく、などという愚かな分派はやめよ、とパウロは怒鳴っていました。しかし、書簡に差異をつけようとしているのは、ましてパウロを偶像化しているのは、コリント教会の争いそのままであるような気がしてなりません。
言葉を通じて、神は命を与えます。文字はひとを殺すのであり、ひとを生かすのは霊なのです。もしも、パウロという人が書いたものだけを信奉しようとするのなら、パウロ教なるものを始めるとよろしいのです。
◆神の形
「偶像」という言葉について、私たちは、何かを神にしてしまうこと、とイメージしがちです。それは間違いではないのですが、十戒は「偶像」という言葉を使っていませんでした。「彫像」と呼ばれていました。
しかし、レビ記や申命記には少しばかり出てきますし、イスラエルの王を記録する文書には、手厳しく偶像崇拝を批判しています。イザヤ書やエレミヤ書、とくにエゼキエル書は、猛然と「偶像」について言及しています。
しかし、十戒にあるように、形作ってはならない、という点は、ペースに押さえておかなければならないでしょう。と、私はその「形作る」ということで、聖書から言われていたことを思い起こしました。それは、「神の形」という言葉です。フィリピ書の2章からお読みします。
6:キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず
7:かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れ
8:へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。
9:このため、神はキリストを高く上げ/あらゆる名にまさる名を/お与えになりました。
10:それは、イエスの御名によって/天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが/膝をかがめ
11:すべての舌が/「イエス・キリストは主である」と告白して/父なる神が崇められるためです。
これは新たな聖書では、詩のように見える恰好で配置されています。研究により、ここはパウロの手紙の中でもただの文章ではなくて、当時唱えられていた歌や詩のようなものの「引用」だろう、と考えられるようになったからです。ここは美しく、とても有名な箇所で、「キリスト賛歌」と呼ばれています。
キリストは「神の形」である。そう切り出しています。しかし、神としてのあり方であることに留まらず、「僕の形」をとったのだ、と述べています。つまり、人間となった、ということです。ここに、キリストの何たるかが、確かに簡潔に表されていると思います。キリストは、「神の形」でありながら、「僕の形」をとったのだ、というわけです。パウロ自身の思想というよりも、やはりどこか、当時の教会全体で告白されていた信仰の要であるような気がします。
ところが他方、人間もまた、神の形をしているのではないか、と思えるような言い方も思い出しました。旧約聖書の初め、創世記1章です。
26:神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
27:神は人を自分のかたちに創造された。/神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された。
人は、「神のかたち」に造られたように聞こえます。「神は人を自分のかたちに創造された」というのです。こうした表現が、三度も繰り返されます。よほど念を入れたように見えます。人は、神を映し出す存在なのでしょう。神から命をもらい、生かされて、輝くべく造られたのでしょう。それは、人を神にする、というものではないと思われます。人を偶像に祀り上げて拝むためのものではないと思われます。
いったい私たちのどこが、神に似ているというのでしょうか。それは分かりません。私たちは神ではないのですから。私たちは、神のことを悉く知っているわけではないのですから。でも、何らかの意味で、人は神に似たものをもっているのでしょう。それは少しでも見える形で、ということで、キリストが「僕の形」をとって現れてくださったことと結びつきます。キリストのように生きること、それが求められていると考えるよりほかありません。決して、人が像、つまり偶像になるというわけではないはずです。
◆キリストの形
4:あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。
5:それにひれ伏し、それに仕えてはならない。私は主、あなたの神、妬む神である。私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、
6:私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。
神は、妬むほどに、強い愛を以て私たちを愛しました。私たちからも、強い愛を求めたのだと思います。しかし、導いたイスラエルの歴史は、必ずしもそれを神に向けたとは言えませんでした。そのため、神は御子イエス・キリストを世に送るという、いわば最終手段を実施したのです。
すでにイスラエルの民は、形ある偶像を身近にはびこらせ、神に怒りを起こしていたのですが、その偶像崇拝は、イエス・キリストの現れによって、終わったのでしょうか。いえ、何かしら別のものが、たとえ象徴のような姿をとったとしても、新たな偶像になる危険性を潜ませるような時代になっていくことになります。
人は、放っておけば、自分自身を神とするようになるのです。たとえば人が人を殺すとき、人は自分を神としているように思われます。相手の生殺与奪の権を握るものとして、自分の考え次第で相手を生かしもすると殺しもするという、神のような立場にある、と自分を錯覚してしまうのです。
しかし、相手を殺さないで生かす、という選択肢しかない状態があります。まるで自由がないかのようですが、それが「愛」です。愛はひとを生かします。イエスの愛を受けた者は、自分を神とすることから免れます。そこに自由がある、と見ることが可能です。だから、愛することは不自由ではありません。自身を神としてしまう罠から逃れることができます。このとき神は、私たちを「神のかたち」に新たに創造するのだと思うのです。
かつて、神のかたちに創造された人間は、楽園を追われました。その後イスラエル民族として選び直されて、神のもとにひとつになるように命じられますが、神に背を向け、バラバラになってしまいます。けれども、イエス・キリストの現れによって、再びひとつとなり、神の名の下に輝いて生きる道が備えられました。私たちは、キリストによる第二の創造を受けます。第二の創造、それは復活の命に生かされることです。そうして、キリストの形に近づくように、導かれてゆくのではないでしょうか。それが、栄光から栄光への道であると思うのです。
このとき、私たちはもう、神とはほかのものを、偶像にしている暇などないのです。