監督は先生なのか
テモテ一3:1-7
監督という役職がどのようなものなのか、文化も時代も違う私たちにはよく分かりません。特に役職名ではないのかもしれません。それとも、今でいう「牧師」として読んでみるとよいのでしょうか。それでもだいたい納得できるような気もします。教会の世話をするという言及がありますから、さしあたりそのイメージで読んでみましょう。
かなり読みやすくなります。人間的にこういう人がよい、というイメージにしても、私たちの感覚と重なる部分が多いような気がします。特に注目してみたいのは、信者になったばかりの人であってはよくない、というところです。思い違いをするからだともいうし、訳注では、高慢になることだとも説明しています。まことに重い忠告です。
上の地位に就くことは、人間の視点を高い位置に持ち上げます。どうしても人を見下ろす視野になります。そうしているうちに、自分が特別に偉くなったように思い込んでしまう者も現れやすくなるわけです。もちろん、その人によります。いっそう謙遜になる人もいるのですが、自己愛や自己義認の強い人は高慢の罠に嵌まり、自分でそれと気づきません。
福音書には「先生」と呼ばれてはならない、とイエスが言ったことが書かれています。日本人の教会ではどうしても「先生」と牧師を呼ぶことが止められないところがあります。文字通りには「先に生まれた」者のことですが、年長者を敬う儒教的背景がそこにあるのかもしれません。中国だと、もっと気軽にその呼称は使えると聞いたことがあります。
文化的に「先生」で仕方がないのかどうか、私には判断しかねます。聖書を語る牧師とて、聖人であるわけではありません。それでも、この人を怒らせると聖書の話をしてもらえなくなる、という暗黙の楔が信徒の心の中に打ち込まれていないでしょうか。世話をしてもらえなくなると困るから、へつらい、ちやほやするというのが実情でしょうか。
そうでなくても「先生」と呼べば敬意を表せるし、その人の技術や知識を尊重していることを表すことができますから、私たちの世界では、テモテどころではなく、ますます高慢にさせていく原因となりかねません。これは悪魔と同じ裁きを受けるそうです。この重さを感じていないような風景が、そこかしこに見えて仕方がないのですが。
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